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萱野茂 基調講演「波紋のように、戦いの輪を広げましょう」

本稿は1989年8月7日、「世界先住民族会議」初日(札幌市・北海道庁第2別館地下大会議室)におけるスピーチの記録です。

萱野茂
『ピープルズ・プラン21世紀・北海道』実行委員長/二風谷アイヌ文化資料館館長

もくじ

祖母にアイヌ語を教わる

私は1926年、アイヌモシリ――今の呼び名は「北海道」の南側、太平洋に面した沙流川のほとり、平取村二風谷という所に生まれました。

両親共にアイヌ民族で、私が生まれたときに八十才になる祖母が居り、当時のアイヌ婦人の風習がそうであった、口の周りに入れ墨をしていた人でした。

その祖母が幸いなことに長生きをし、私が二十才になるまで一緒に暮らし、アイヌ語の全てといってもよいはどアイヌ語を教えてくれたのであります。

そのような訳で、私は1989年現在、アイヌ語を聞いて理解できて、しゃべれるアイヌとして、一番若い方のアイヌということになります。

家庭教師的な存在の祖母は日本語を全くしゃべることができず、孫である私との会話は完全にアイヌ語だけ、私自身は、父や母、そして兄達との会話は日本語なので、いつの間にかアイヌ語と日本語を同じように覚えてしまったのであります。

しかし、何かものを考える時、あるいはしゃべろうとするときは、アイヌ語で考え、それを日本語に直してしゃべるので、たぶん私の基本的な考え方はアイヌ民族であり、アイヌ語であろうと思っています。

そのような訳で、日本語を覚え、教えられた過程を言いますと、アイヌ民族にとってはうれしいものではありません。

願わくば、今日のような世界先住民族会議にアイヌ語でしゃべり、それを多くのアイヌ民族が理解してくれるとするならば、しゃべる私も、聞いてくれるアイヌ達も、どんなにうれしいことでありましょうか。

奴隷として先祖が歩んだ道

ここで私は自己紹介という形を取りながら私の先祖が歩んだ苦難の道程の一端を述べますが、萱野茂という一人のアイヌの先祖のことは、取りも直さずアイヌ民族共通の苦難といえるからであります。

時は1858年、今から131年昔のこと、私共の村へ数人の日本人の侍がやって来ました。そして言うことは、日本人が経営している漁場の労働力として、働けるアイヌを出せ、ということです。

刀の柄に手をかけて、言うことを聞かなければ村人全部を斬り殺す、ということです。

当時の記録によるとニブタ二、ビバウシ、カンカン、三つの村の合計戸数が26軒、人口116人でした。その116人のうちから、男女の関係なく、働けそうな若者を中心に43人を強制徴用し、北海道の東の端、厚岸へ連れて行っています。1

村で残された者は、73人。そのほとんどは、老人や子供ばかり。一人前の者が揃っていてくれるならば、何不自由ないアイヌの村でありましたが、これだけの者が強制連行された村は壊滅状態であったでしょう。

私の祖父トッカラム

連れ去られた43人のうちの一人に、私の祖父トッカラムという者が、最年少の十二才で連れて行かれているのです。

年端もゆかぬトッカラム少年は、厚岸に着いたその日から、自分の村ニブタ二へ帰ることばかりを考えていました。

朝は星のあるうちから、夜は足元が見えなくなるまで、文字通り朝の暗いから夜の暗いまでという過酷な労働でありました。

過酷な労働と、望郷の念にかられた少年トッカラムは、怪我をすれば家へ帰してもらえると思い、自分が持っていたタシロという刃物で、自分の指を切り落とそうと考えたのです。

ある朝のこと、まな板の上へ指をのせて切ろうとしたが、痛さを思うと体が震えて、切ることが出来ませんでした。

次の朝、目を閉じて、エイッとばかりに自分の左手の人差し指を切ったのです。

小さな指は、バチーンと飛んでしまい、痛さは覚悟のうえであったけれど、子供のこととて大声をあげて泣きました。

声を聞いた親方である日本人が走ってきて切れた指を見、「なあんだ、指の一本ぐらい塩をまぶしておくとすぐ治る」というのでした。

これほどの大怪我をしたのだから、家へ帰れと言われると思ったのに、塩をまぶせと言われ、痛さは倍にも三倍にもなったことでしょう。指の傷は思いのほか早く治り、トッカラムはがっかりして、毎日働いていました。しかし、トッカラムはもう一つ別のことを考えたのであります。

それは何かというと、毎日たくさん捕れる魚の中にフグが混じっていたので、その胆汁を絞りとって身休じゅうに塗りつけたのです。

何度か繰り返しているうちに、身体の皮膚が薄黒い黄色になり、今の病気でいうと黄痘症状にみえたわけです。

それを見た日本人の親方は、トッカラムを村へ帰したのです。

帰ってきたトッカラムをみた両親は、よろこびながらも、左手の人差し指が付け根から無いのをみた驚きと嘆きがいかほどであったか想像もできません。祖父トッカラムの写真をみると、左手の人差し指が付け根から無いのがはっきり分かります。

この写真は孫の私に残したというよりも、民族の痛みの証拠として残されたもののように思われてなりません。

父の話 シャケの密漁といわれ

次は父親の話に移ります。

私の父はアイヌ風の行事に精通していた男で、事あるごとに、私の手を引いて、いろいろな行事の場所へ連れて行ってくれました。

それが、アイヌ風の特別な葬式の場であるとか、イヨマンテという熊送りの場であるとか、今にして思うと、祖母とともに良き家庭教師であったと思います。

アイヌ風の行事ばかりでなしに、狩猟民族としての心も残っていたらしく、他のアイヌが日本政府から押しつけられた農業に精を出しているのを横目でみながら、よくシャケ捕りをしていたものです。

シャケ(鮭)のことを北海道では秋あじと言いますが、アイヌ語ではシエペ、シ=本当に・エ=食べる・ペ=物、本当の食物・主食と呼んでいたものです。

その主食であるシャケを捕りに、父は毎晩毎晩川へ行って、捕ってきては私共子供や近所のお年寄りに食べさせていたのです。

それは1932年(昭和7年)の秋、今から57年昔の秋のこと、私もまだ小さい子供でした。

家のなかで、父や母そして姉、それに先ほど話をした祖母などと居た所へ、建て付けの悪い板戸をがたがたとあけて日本人の巡査が入ってきたのです。そして、父にむかって「清太郎、行くか」と言ったのです。

子供である私が何が何やら分からないでいる目の前で、父は板の間へ平蜘蛛のようにひれ伏して、「はい、行きます」と答えたのです。顔を伏せている父の日からは、大粒の涙がぽとっ、ぽとっと板の間へ落ちるのです。子供の私は、片目の父の両眼から涙がこぼれるのをみて、〈あれっ、目玉のない方の目からも涙が落ちた〉と、その瞬間には単純にそう思いました。

しかし、次が大変でした。毎晩のように父が捕ってきていた秋あじは、日本国の法律によって、捕ってはならない魚とされていたのです。父は、密漁のかどで逮捕されたわけです。

父は私の目の前で巡査に連れられて家を出て、平取の方へ歩きはじめたのです。そこではじめて事の重大さを子供ながらに悟った私は、泣きながら父の後を追いかけました。

父は何度も後をふり返りながらも、巡査にせき立てられ、ずんずん離れて行ってしまいました。泣き叫ぶ私を迫ってきた大人たちは、「すぐに帰ってくるのだから、泣くんではない」と言って私をなだめるのですが、大人も私以上にはげしく泣いていたのを今でもはっきりと記憶しています。2

アイヌは秋あじのことを、シペ=主食と考えていたのです。日本人は文字の読めないアイヌ民族に、一方的に「法律」なるものを押しつけて、主食を捕る権利さえ奪ってしまったのです。

アイヌ民族が死に絶えることなく生き続けてこれた理由の一つは、食糧を十分に手に入れることが出来たからであります。

アイヌの主食はシャケと鹿肉で、特にシャケの場合は、保存用に大量に必要な場合は産卵後のものを捕り、自然の摂理に従って捕獲し生活していたのです。

家族が食べる分だけのシャケを、毎日捕ったからといってもシャケが減るものでないことを、アイヌ自身は知っていたのです。

その頃シャケが減ったのは、日本人の乱獲が原因でした。日本人が作ったシャケの禁漁という法律は、シャケを主食として生活をしてきたアイヌにとっては、「死ね」というような法律であったわけです。3

アイヌ側からみると悪法であり、まるで「羽根の生えていない雛鳥に餌を運んでいる親鳥を、殴り殺すような」法律でした。あの時に父が流した涙は、先住民族アイヌが持っていた権利を、数や力で奪われた民族の無念の涙であった、と私は思っています。

言葉の話『先に死ねたら幸せだ』

次は、アイヌ語・言葉の話に移ります。

ときは1953年(昭和28年)、今から36年前、私共の村に本当に昔ながらのアイヌ語を知っていた、仲の良い三人の老人が居りました。一人は私の父、日本風の名前を清太郎、アイヌ風の名前はアレッアイヌ。次の方は、日本風の名前が国松、アイヌ語の名前をニスッレックル。もう一人の人は、日本名を一太郎、アイヌ名をウパレッテといいました。アイヌ語から日本語へ移る言葉の狭間に生きた証でもあるかのように、日本語とアイヌ語の、ふたつの名前をもった男たちでありました。

三人の仲良し老人が集まるとどんなことを話すかというと、「俺たち三人のうち、一番先に死ねたものが最も幸せだ。なんとか先に死にたいものだ。」

先に死にたいという大きな理由は、残った二人のものがアイヌ語での引導渡しの言葉から葬式の道具まで、間違いなくやってくれるであろう。そうしてもらえる事によって、アイヌ民族が考えている神の国、先祖が待っている国土へ行くことが出来るであろうという展望があってのことでありました。

一番先に死ねた幸せ者は、私の父でありました。父が望んでいた通りに、残った二人のうち国松さんがアイヌ語で引導を渡し、アイヌの墓標で父の葬式をしてくれたのであります。4

人間、この世に生を受け、幸せである、不幸であるにかかわらず、先に死にたい、早く死にたいと願う人間がいるでしょうか。

それを、自分の母語、アイヌ語の引導渡しの言葉を聞きたいばかりに、欲しいばかりに、先に死にたいと願ったのであります。

それほどその民族にとって、民族固有の言葉というものは大切なものなのであります。

おそらくこの気持は、言葉を奪われたことのない大多数の白人や、日本人には理解できないでありましょう。

しかし、今日この場へ来られた先住民族の方々は、大なり小なり、私がしゃべったことに共感を覚えてくださったのではないでしょうか。

自己紹介をかねたアイヌ民族苦難の歴史については、一応これで終わらせ、話を次へ移らせていただきます。

ぺシッ 「波紋」ということ

アイヌ語で、ベシッという言葉があります。それは「波紋」という言葉で、池の面に落ちた一粒のしずくが波紋を広げ、もう一度元へ戻ります。

今日、この場所、この会議に来られた方々は、一粒のしずくであったとしたならば、アイヌ語でいうペシッのように、自分の国で自分の民族に言葉という波紋を広げ、それぞれの民族が本来持っていた権利の回復につとめようではありませんか。

民族として自覚し、意識をもった人が行動を起こし、動いて、はじめて点は線になり、線が面として広がっていくのです。

どんなに立派な考えを持った人でも、一人でぽつんと立っているのではなく、ある人がもう一人別の人に語り、語る人や叫ぶ人が多くなれば、世論になって広がるのであります。

あなたも私も、君も僕も、声を大にして叫ぶことによって一緒に歩く人が多くなり、我も、われもと続いて歩き、そこが自らの道になるのであります。

しかし、成果はあくまで私共先住民族が主体であり、主人公でなければならないし、団結しなければなりません。

よく多数者が少数者を支配する場合の常套手段として用いるやり方は、内部分裂をさせる、つまり内輪もめ、内輪喧嘩をさせることであります。その手にだけは乗らないように、お互いに注意したいと思います。

その意味でも、みんなの力を結集し、連帯し、権利回復のために、どこの国のどの先住民が、どのように論理的に事を進めているか、情報交換を密にしようではありませんか。「情報は力に変わる」という言葉は、昔も今も変わらないと思っています。

外国へ行っての経験

一般的な話はこのくらいにして、あとは断片的な話に移っていきたいと思います。

私は今までに、よその国に17回行きました。延べ日数にすると、180日になっています。そのうちカナダには5回も行きました。カナダという国は、私が大変好きな国の一つであります。

外国へ行く目的は、少数民族との交流、そしてどのように扱われ、どのような生活をしているか、権利はどうなっているか、それを知りたいと思い、出かけていくわけであります。

今年は、5月にはソビエトへ行きました。アムール川流域のナナイ族との交流をしてきたのであります。

そこへ行って、そこの人たちがどのようにソビエト政府から扱われているか、それを勉強してきたのであります。行ってお話を聞いてみると、北海道で私たちアイヌであれば、一匹、たった一匹の秋あじをとっても手錠をかけられ、その晩一晩は泊められることになります。それなのにナナイ族のみなさんは、一人につきシャケ40キロまでは捕っても良いということを聞いてきました。

アムール川という川には、102種類の魚がいるそうです。だから一人についてシャケ40キロというのは、充分あり余るほどの数量だというふうに言っておりました。

その次に、6月にはカナダのホワイトホースへ行ってきました。

その時に、九十二才になる日本人のおばあさんに会ったのであります。そのおばあさんの話を聞くと、カナダ政府が今から40何年か前の終戦前後に日本人を集めて、あちこちへ強制収容したことに対して、それを詫びて、カナダ政府の総理大臣に相当する人の名前で、そのおばあさんに詫び状を書いたのであります。

そういう意味で、日本政府に、もっともっとアイヌに目を向けて欲しいと私は願うものであります。

今いる日本人が悪いのではなくて、先祖が犯した罪を、今この場所でではなくても、ある場所を選んで、そこで「われわれの先祖が犯してきた罪を、いま、ここで悔い改めよう。どうも済みませんでした」と、そういう気持になる日本人、日本政府の役人は居らないのでしょうか。

つい7月にはオーストラリアへ行ってきました。

オーストラリアの先住民族のみなさんともお話をしましたが、その時には通訳の方がまだちょっと若い方でしたので、聞きたいことを充分には聞くことが出来ませんでした。

そういう意味では、もう一度行ってゆっくりとお話を聞いてきたいなあと、そんなふうに考えておりますが、向こうに居る人たちも、それぞれ権利はきちっと認められているように聞いてきました。

そして、今日この場所へ来ておられる先住民族のみなさま、他に大多数のみなさま、つまり日本人や白人のかたがたへお願いしておきたいことがあります。民主主義というものが、頭数さえ多ければそれでよしとし、少数者の意見を無視するものではなく、少ない人たちの話にも十分に耳を傾けるものであって欲しいのであります。

そのように、少ない人の意見にも耳を傾けるとするならば、本物の、まことの民主主義が生まれるのではないでしょうか。

原子力発電所をめぐって

もうひとつよその国へ行った話をします。4年前にスウェーデンへ行きました。その時にサーミ族のみなさんに会ったのですが、ソ連のチェルノブイリの原子力発電所の爆発によって、山や川や森、林、全部汚染されてトナカイの肉を食うことが出来ない、そのように嘆いていたのをみてきたのであります。

その時私は、すっとずっと遠い所の話であるように、そのように考えてきたのでありますが、今年の春から北海道でも原子力発電所が一つ動き始めました。

この発電所というものは、いま北海道にとって、世界にとって、みなさま先住民族が暮らしておられるその場所にとって、原子力発電所は本当に必要なのでしょうか。日本風のことわざに、身にふりかかる火の粉は払わなければならないという言葉があります。しかし核で汚染された、原子力発電所が爆発した、その放射能というものは、味も匂いもなく、目にも見えません。目にも見えない、味も匂いもしない、そういう火の粉を振り払うことは、どんな人間にも出来ないと思います。

その日に見えない火の粉を作る、その元になるものを、いま、われわれこの世に生きているものが、子供や孫たちのためにそういうものを作らせない、動かさない、そういう運動を展開しようではありませんか。

二風谷ダムについて

ここで、話をぐっと私の手元に引き寄せます。

沙流川の平取町二風谷、みなさんあさって行きます、そのそばでダムを造っています。そのダムを造る理由が、きちっとその展望台に書かれてあります。いわゆる洪水調整、水道用水が足りない、潅漑用、うんぬんというふうに並べ立ててはありますが、どれひとつとってもわれわれ、現地の地域住民にとっては必要のない項目を並べてあります。国がやることでありますので、多分私がいくら反対しても止まらないでありましょう。しかしアイヌが持っていたシャケを捕る権利だけは返してくれ、と私は叫び続け、貝沢正さんという私の先輩と共に、たった二人、まだはんこをつかないで頑張っております。

ダムのこと、先住民族のみなさんが考えると、あるいは小さい事であるかもしれません。従いまして、この事はこれくらいにしてとめます。

おわりに

おしまいに、国際交流というのは、その国の言葉を話せるから、その人と話をできるから国際交流が出来るというものではありません。いつでもどこでも、外国からみえられた方を暖かくもてなす、それが真の国際交流であると私は考えております。

そのような意味では、このように大勢のみなさまと一望に会してお話をできるということは、私アイヌ、一人のアイヌにとってこんなうれしいことはありません。

もう少ししゃべりたいことがありますけれど、1週間という時間が残っております。いっぺんに出してしまうと、次の話の種がなくなってしまうのではないでしょうか。

ですから、私のへたな話を立派な通訳の先生方がみなさまにお話してくださったことに心よりお礼を申し上げ、私の話を終わらせていただきます。


  1. 当時、二風谷のアイヌは、350km以上離れた厚岸に奴隷として連れて行かれた。その頃の厚岸は道東の拠点で、そこでの労働力はもっぱらアイヌだった。地元のアイヌは強制労働で死亡したりして減ったので、沙流や勇払のアイヌを強制的に徴用したのである。 ↩︎
  2. 萱野さんの祖母テカッテさんは、そのときの悲しみを次のような言葉で嘆いた。
    「シサㇺカラぺ チェㇷ゚ネワヘ ク ポ ホウッワ カムイエバロイキ コエトゥレンノ ポホウタラエレプ アコバㇰ ハウェタアン ウェンシサㇺ ウタㇻ ウッヒアッ ソモアバッハウェタアン」
    (和人が作った物 鮭でもあるまいし 私の息子がそれを獲って神々に食べさせ それと合わせて子供たちに食べさせたのに それによって罰を与えられるとは何事だ 悪い和人が獲った分には罰が当たらないとは全く不可解な話だ) ↩︎
  3. 萱野茂氏の父・貝澤清太郎氏が逮捕されたのは、恐らく「北海道漁業取締規則」によると思われる。当時の司法当局者の調査によれば、1890~1933年におけるアイヌの刑法犯以外の「犯罪」は154件あるが、このうち約120件が「北海道漁業取締規則」「樺太漁業取締規則」「狩猟法」の「違反」であるとされており(『アイヌの犯罪に裁て』、司法省調査課『司法研究』第18輯報告書10)、これらの法令がいかにアイヌの生活を脅かしていたかがうかがえる。 ↩︎
  4. 二風谷でも、1963年を最後にアイヌ古来の葬儀はなくなった。大正時代には、仏式で葬式をしようとしたら、会葬者が一斉に帰ってしまうほど、アイヌの信仰が色濃かったという。しかし和人との交流や戦死者の村葬などを契機に、アイヌの葬儀からシサムプリ(和人式)の葬儀にかわってきた。 ↩︎

出典:ピープルズ・プラン・21世紀・北海道「歴史を担って未来へ向かう/世界先住民族会議記録集」(1989年)p.11
この記録集は、全編がPDF化され、「ピープルズ・プラン21世紀アーカイブ」で公開されています。ピープルズ・プラン研究所の許可をいただき、一部をテキスト化して本サイトに掲載しています。
http://www.pp21archives.org/pdf/PP21-J00018.pdf

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