メンバー:貝澤零、小嶋宏亮、八重樫志仁
場所:浦河町堺町生活館
メンバー:貝澤零、川合蘭、八重樫志仁
場所:萩荻伏、キナチャウス、元浦川さけますふ化場、古川、チプタナイ
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
- 掲載内容は2025年1月現在のものです。
キナチャウスでの牛の放牧
家ではニワトリと馬と牛を飼ってた。馬は乳しぼりして、四合瓶とか一升瓶とかに牛乳を入れて周りの家に売ってたよ。春になったら牛を放牧地っていう共同の放牧する場所に連れて行った。他の家庭もみんな同じところに放牧するんだよ。
その場所はキナチャウスっていう、今はゴミ捨て場になってるところ にあったの。ちなみにキナチャウスは「草を切る場所」という意味だよ。

昔は水辺の草が生い茂っている湿地帯だった。今は水抜きされて馬のための牧草を育てる場所になっているけどね。周りの森の感じも変わったな。昔はもっと雑木林だったけど、今は植林されて常緑樹が目立っているよ。

わたしが住んでいるところからはかなり離れているけど、牛は勝手に歩くからね。わたしたちは牛を歩かせるんだけど、牛は行かないとなったら絶対動かない。そうなったら角のところに紐かけて、それで引っ張っていくんだ。だけど、動かないっとなったら牛も目白黒させて頑張るんだ。だけど走り出したらもう引っ張られるくらい走るからね。それで、2、3頭かそれくらいの牛をその放牧地に連れて行って、放すの。牛を放した帰りはそのままお母さんと一緒に、奥の山の中を通って水門の方に回って家に帰った。夏の間は時々自分たちの牛が元気にしているかを確認しに来たよ。牛の名前を呼ぶと牛は自分の名前が分かるので寄ってくるんだよ。
クマ肉を分け合う
オヒョウの木とか分かるようになったのはおばあちゃんと一緒に、木の皮剥ぎに行ってからだね。カムイ橋の方にね。そこには牧場が持ってる山があるんだけど、そういうところの山に欲しい木の目星を着けておいて、後で持ち主に言って、もらってた。お金は払ってないと思うよ。今はそうはいかないと思うけどね。
カムイ橋のところにアットゥシの木の皮を剥ぎに行くときは、橋渡る前にも、カムイノミ(お祈り)したし、橋わたってから奥にある木のところでもした。2回やったの。そして、帰りになったらまたその橋のところで、無事にけがもなく帰れてありがとうございましたって、拝んで。だからオロマップのところに行っても、あそこの川のすぐそこに行ってやったり、川がなければ大きな木の下でやる。人があんまり歩かないところでね。
わたしの住んでいる姉茶(あねちゃ)には鉄砲打ちもたくさんいて、シカやクマを捕ってた。クマが捕れたら、呼ばれるの 。だからクマを捕ったっていう知らせを聞いたら、もうあわくって(急いで)、米を沢でうるかして(浸して)、それをニス(臼)でドスンドスンドスンってついて、それを団子にする。そういうのを必ず、少しずつでも持っていく。持ち寄りっていうのかな。だってスーパーとかお店屋さん、そんなにあるわけじゃないんだから。野菜とか米とか、自分の家にあるものを持ってたよ。お金を払うっていうことはなかったな。捕れたクマはみんなで大鍋で食べた。そしてヤイサマ(抒情歌)歌ったり、踊ったりした。
1974(昭和49)年に様似(さまに)でクマが捕れたときに、お母さんと偶然様似の道を通ってたんだけど、「なんか川に人いっぱいいるよね。なんだろね、行ってみるか」って2人で行った。すると大きなクマを捕って捌いてて、それを夜にカムイノミするって言うの。だから夜にはわたしのバンに他の人も乗せて、また様似に行ったよ。そういのは次の年の1975(昭和50)年に呼ばれたのが最後かな。

罠と動物の命
わたしのお父さんはね、針金に小枝を結んで、そこ通ったらびぃって閉まるような罠をかけて歩いた。罠をかけるのは冬だけなんだよ。父さんにとっては膝くらいかもしれないけど、付いて歩く子どもにしたら股の辺りまで雪がずぼっずぼってなるようなところを転げながら、歩いた記憶はあるよ。
罠はねウサギが走った跡があるところにかけるの。雪山だから、走った跡があるでしょ。ぴょんぴょんって。だから小さい時には、これがウサギの走った跡なんだなっていうのを見てたよ。ウサギに限らず罠はよくかけてたよ。でもその罠では一回も捕れなかったから動物を捌くところとかは見てない。いや、捕れたのかもしれないんだけど、そういう捌いてるところとかは小さい子の前でやらないからね。ニワトリが首を落とされて走ったのだって、たまたま間違って一羽逃げて走っているのを、子どもらがぎゃあぎゃあ言いながら見てたっていうものだからね。
ただ、衝撃的だったのは、まだ小学校の低学年だと思うけど、お母さんの自転車の後ろにわたしが乗せられて、お母さんと一緒に屠殺場に行って、ウシとブタを殺すのを見た。ウシを殺すのだっておっかなくてね。外に出て大きな扉の隙間から見たよ。まさかりの後ろ側に四角く曲がった牛刀っていうのか、ぎゅうっと曲がった刀でね。それでウシの眉間をばんと叩いたら、ウシは倒れるの。そしたら牛刀でのどを開いて、血を流すわけさ。その溝のところに血がだぁーって流れてくんだ。それを腹割って腸を出して。そしたらお母さんや何人かおばさんたちが腸をひっくり返して中身を洗うの。そしてすぐそれを切り刻んで、隣の休憩室で焚いて 食べる。
わたしはもうおっかなくておっかなくて。食べられなかったよ。帰りは家から持ってきた一斗缶に腸とか内臓もらってきた。それは衝撃的でさ、やっぱりもうずっと忘れられない。大きくなったら、ホルモンも食べるようになったけどね。でもその光景はやっぱりずっと目に焼き付いてる。
孵化場とサケ
サケはね、孵化場も近かったから、卵採った後のサケとかも分けてもらった。孵化場はもう昔っからあった。今みたいに立派なもんじゃないけどね。今の立派なものになる前の孵化場も知ってるよ。今は柵ができたけど、昔は柵もなくて自由にサケマスの遡上や稚魚を見ることができたんだよ。
昔は卵もいっぱいありすぎるからね。でもその辺まで来たサケの卵は固いんだよ。ピンポン玉みたい跳ねるような卵だよ。汁物にいれたりするけど、それでも硬くて噛み切れず口の中を踊るんだよ。だからそういうのをもらってくると、それを柔らかくして食べる方法がある。お母さんはその方法を知っていたけど、自分の時は固い筋子自体がそんなに手に入らなかったからやり方は分からない。柔らかくしたスズコ(筋子)をおにぎりに入れたり、アイヌ料理にしたりして食べてたんだよ。コンブシトのようにシト(団子)に絡めてたれのようにして食べたりね。

昔はね、孵化場は卵採った後のサケはくれる。幌別の孵化場が前の場所にあった時にも、もらいに行ったよ。重さで値段が決まってるのだって買いに行った。それは良いやつだから何キロも買ってきた。だって幌別の孵化場 は海から1㎞もないから、上がってきてすぐだもの。まだ立派な良いイクラがいっぱい捕れる。元浦川のやつは、河口の電車の鉄橋のちょっと手前当たり。だから海側の方。あそこのちょっと下側の方で、採捕してたよ。
ほっちゃれの魚っていうのはずっと川を上って卵を産み終わって死んだやつなんだ。ほっちゃれになる前と海にいるサケに対しては特別な名前があるかは分からないな。その採捕したやつは、海から上がってまだ1㎞も経たないところで海から上がってきてるやつだから、ちょうど海と川を行ったり来たりすると、そのサケの皮の色が赤くなったり、白くなったり、黒くなったり、まだら模様のすごくきれいな色になるんだ。海にいるときは銀ギラ銀なんだけど、色が変わるんだ。買ってきたときに色が違うからすぐ分かるよ。きっと真水の川に体慣らすために、海と川を行ったり来たりするんじゃないかな。その川にあがったときのサケの味たるや!海のサケはそれはそれで美味しいけど、真水を飲んだサケも美味しい。いやむしろその味がいいんだわ。皮も美味しいし。
真水に入ってきたサケのほうが皮が強くて厚いから、サケの皮で靴つくるときは川の上に入ってきて皮も厚くなったサケを使う。だから、お母さんはそういうサケの皮を分けてもらうと、それをきれいに剥いで、皮を干して、靴を作ってたよ。自分も作れるけど、母親と作ったのが最後だな。手間がかかるから他の仕事をしながら作るのは難しい。最後に作ったのは展示するためのものだったよ。それに、今は川にあがったサケが手に入らない。実際にその靴を使ったことはないんだけどね。

春の川、夏の海
春になったら古川にドウ(魚捕る罠)を仕掛けるんだよね。そしてそれを朝早くに見に行くと、ユグイ(ウグイ)がいっぱいかかってる。それを捕ってきて、焼いて、干しといたの。それがおやつの代わりだ。
夏は海での仕事もあって、小学校から結婚して子どもが産まれるくらいまでずっと20年くらいは昆布干しに行ったよ。漁業権があるから自分で昆布を採ったりはしないけど、干す手伝いに行ったの。昆布を船から浜にあげて砂利の上に干すときに船を待っている間ウニ(バフンウニ)を食べていたよ。生で食べてた。それから海が嵐になるとウニが転がってくるから、わたしも拾いに行ったことあるよ。「荻伏の浜で嵐になったから拾いに来い」って言うから、車で行って、バケツいっぱいにウニ拾ってきた。昔はウニもたくさんいたんだね。中学生ごろまでは浜で食べる分には怒られなかった。だけどだんだん、食べると周りの人に怒られるようになったので食べられなくなったの。
今はウニを養殖しているのもあって、そもそも天然のウニが採れない。昆布採りは漁師の人しかできなかったので、漁業権についての詳しいことは分からない。昆布を干すのはバイトのようなものだったんだよ。そうやって季節ごとに海と山を行ったり来たりはしたよ。もっと昔は自分の土地かどうかは関係なく、自分勝手に採っても良かったのかもしれないね。浦河には海の料理もあるしね。今は浜の近くも変わったような気がするよ。家が少なくなったのかな。

今伝えられることを伝える
そうそう、家の近くに立ち飲み屋さんがあったんだけど、そこにいつもとっくりもって歩いてる「とっくりばあば」っていう人がいたんだ。その人、別のところから嫁さんに来たんだけど、アイヌの歌が上手でね。もしわたしが小さい頃からアイヌの歌の録音とかをしてたら、もっとたくさん残すことができたんだろうなって思う。口染めた(入れ墨をした)ばば1とかもいっぱいいたし、アイヌ語しゃべれる人もいっぱいいたし。
まさかこんな時代来るなんて思いもしないもんね。アイヌの人がこんなに注目されて、アイヌの人の伝承をみんなに教えたり、教えられたりする時代が来るなんて思わなかった。「アイヌ嫌だ」と思って、なるべくアイヌって言わないようにしようって思って暮らしてたのにさ、なんでこんな世の中になったんだっていうね。
だけどわたしはある程度小さい時から、ばばたちのアイヌ料理も好きだったし、周りのおばさんたちもみんなそういうのを作って食べさせてくれてた。熊送りでなくても、ヤイサマ(抒情歌)歌ったり、何でも。バスで旅行行った帰りにお酒一杯飲んだら、みんなでヤイサマ歌いながら帰ってくるとかね。だからわたしも、みんなでバスでどこかへ行くときは、歌教えたりしたね。みんながそうやって歌ったよなぁって覚えてくれたらいいなって思うから。自分もそうやって覚えてきたしね。そしてそれが楽しかったなぁっていう思い出もたくさんあるから。やっぱりみんなにそういうふうに少しでも思ってくれたらいいなって思うから。

やっぱり昔の習ったこととか、そういうことはなるべくみんなに伝えていきたいなっていうふうに思ってる。最近、白老に行って2日間料理したんだけど、そのときは作った料理全部を少しずつ外にやった。それはイチャルパじゃないけど、自分たちがこうやって浦河から来てアイヌ料理を作ったのに、そこの土地の先祖の人らとかを抜かすと、羨ましがってかわいそうだから、こうゆう風なの作ったよって報告してあげるってうことをやった。外に行って、大きな木の下でそういうのをやったよ。

自分たちが旅行中に、ここ景色いいから休んでなんか食べようってなったときにでも、ラババって言って、今自分たちが食べようとしているものを、そこの土地に住んでいた先祖の人方とかそういう人方に少しおすそ分けしてあげる。「そういう気持ちになんなきゃだめだよ」っていうことをずっと母さんから教わってきてたから、そういうことをやっぱり自分も伝えてるね。
そういう心がけをもって、今ここでも暮らしてるんだけどね。アイヌ生活相談員やりながらでもそういう気持ちは残していて、この浦河アイヌ協会が、ひとつの家庭なんだっていう思い。やっぱりずっとそういう気持ちでやってる。
協会で会計のことをしたりするのも、ひとつの家庭の中のことなんだから、お金があるから全部使い果たさなきゃダメなんだ、じゃなくて、節約できるところは節約しながらやっていったらいいんじゃないのって思ってる。少しでもお金が残ってったらいいんじゃないのっていう、自分の家庭のような気持ちでやってきた。だから、皆のことを心配してみたり、どうしたのって声かけてみたりもする。そうされて相手の気持ちがうれしいかどうかは分からないけど、自分の気持ちとしてやってるんだ。
(まとめ:川合蘭、八木亜紀子)
- アイヌ民族の女性が口のまわりと手の甲からひじにかけて施した入れ墨のこと。入れ墨をしなければ周囲から一人前の女性として認められず結婚することも儀式に参加することもできなかった。1871年(明治4年)に開拓使が布達を出して禁止した。(参考:『増補・改訂 アイヌ文化の基礎知識』アイヌ民族博物館監修、2018年;『アイヌプリ―アイヌの心をつなぐ―』アイヌ文化振興・研究推進機構、2012年 https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_bunka/files/ainupuri.pdf) ↩︎