メンバー:貝澤零、八重樫志仁、八木亜紀子
同席:上武和臣さん(やす子さんの息子さん)
場所:登別アイヌ協会
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
元室蘭で生まれ育つ
生まれは1934(昭和9)年、室蘭市です。いまは「崎守(さきもり)町」っていうけど、昔は「元室蘭」って言ってた。元室蘭は海の近くで、小さな湾になってたの。昔は立派な宿屋も仙海寺(せんかいじ)というお寺もあったよ。
室蘭にいる時(結婚する前)は「室村(むろむら)」という名字でした。(祖父母には)子どもがいないんで、わたしの父が伊達から室村の家にもらわれてきたの。父のきょうだいは15人だったというから、昔はすごいよね。15人のうち3人が養子にもらわれてる。昔はある程度裕福な家に養子をやるんだって。もし自分たちに何かあった時に助けてもらえるからね。
父親の父親(父方のおじいさん)は3人きょうだいで、山口県から北海道に来たの。結局、あっちで次男や三男、四男っていったら家を出なきゃならないでしょ。おじいさんは伊達に来て、成功してるの。ある程度大きい船持ってて伊達の野菜を室蘭の港まで運んでた。
(母方の)おじいさんはマタギだったんだね、鉄砲があったもん。なにを獲ってたのかはわからない。そのおじいさんは元々は豊浦の人だったけど、鉄砲撃ちであっちこっち歩いてて、おばあちゃんと仲良くなったみたいだよ。豊浦にも家族があったんだろうけど、こっちに居ついてお墓もあるの。昔はおおらかだったね(笑)。鉄砲ひとつ持って担いで、あちこち歩いてね。そのおじいさんはアイヌの名前だったよ。
半農半漁の暮らし
わたしらが子どもの頃は、お父さんは昆布漁師だったよ。魚はそんなに捕れないし、海は生活の足しにはなるようなものじゃなかった。昆布は、真昆布やらヤヤン(普通の)昆布やらを、生活のために、売るために採ってた。ヤヤン昆布なんて美味しくないんだけど、量はいっぱい採れるから。自分たちが食べるって言ったら、売りに出せないような、昆布と小魚。売れない魚を三平汁にして食べたりね。そういう食生活だったから、なんも栄養なんて取れない。
半農半漁だね。金にならなかったけど、自給自足っていうのかい。いも、とうもろこし、かぼちゃ、あわ、ひえ、いなきび、そばも作ってたよ。別に売れるようなものじゃないんだ。土地もそんなにないし、食べるだけ。
水道なんて、ないない(笑)。木があったら木の根元から湧き水出るっしょ、そこに木の枠つくって、そっから汲んで天秤棒で担いで。五右衛門風呂だとかドラム缶の風呂も入ったことある。お風呂を沸かすっていったら大変だった。
おばあちゃんが終戦の年(1945年)に77歳で亡くなったし、母親はわたしが1歳半で亡くなったし。姉と兄とわたしと3人きょうだいだった。家のことはおばあちゃんと姉がやってた。姉に聞くとね、「わかんない、忘れた」って言うのよ。姉は5歳上だけど、本当に苦労したと思うよ。母が死んだ後ね、わたしは母の妹のところに預けられてたの。小学校にあがるときに父親がわたしを取り戻したんだと。
父も結核で死んだんだけど、うちの父のきょうだいは結核病みだったの。だから、甲種合格にはならなくて徴兵はされなかった。だけど、終戦近くなったら炭鉱に徴用された。どこの炭鉱かはわからないけど、ばあさんと子どもだけ残されてさ、薪もないし、どうやって暮らしてたんだろうと思うよ。いやあ、ひどかったよ。
和人との間にあった壁
小学校や中学校にアイヌの同級生はいました。親が亡くなっておじさんに預けられた子がいたんだけど、可哀そうにそこの家の女中さんみたいに扱われてた。だから、親がいないって子どもにとったら大変なもの。守ってくれる人がいないんだから。
学校では差別はあったよ。あったけどね、うちの父親は働き者で生活はきちんとしてたし、ある程度尊敬もされてたから、目立った差別とかいじめはなかったよ。でもね、目に見えないアイヌとしてのいじめはあったよ。なんとかダンス(フォークダンス)の時さ、アイヌだからって、わたしのとこ来たら手つながないの。ほんとに、はんかくさい(ばからしい、あほらしい、などの意味)。
やっぱり壁はあったね、和人との間に。富める者は強い、貧しい者は頭を押さえられるのね。うちの兄(室村文七)はすごい「出来」でガキ大将だったの。だから兄がいるとわたしの防波堤。なんかあったら「あんちゃんに言ってやるから」って言ってた。この人は本当に強い人だからね。
中学校出てから半年後くらいだわ、なんか知らんけど洋裁学校に行かさせてもらった。そこでもすぐにアイヌだってことわかるっしょ。したら、おんなじクラスの子が人を馬鹿にして、「あら、案外ノーマルね」なんて言ってくるの。洋裁学校行ってた時も友だちはつくるつもりもなかったし、つくれなかったね。心開けなかったんだと思う、たぶん。
兄もね、嫌な思いをいっぱいしたんだって。静内の農業高校に獣医さんになるために行ったんだ。そしたら予科練(海軍飛行予科練習生)帰りの人がいっぱいいてさ、「ポチ」「ポチ」って呼ばれて、使い走りさせられていじめられたんだって。しょっちゅう帰ってきては「学校辞めたい」って言ってたのを、先生や父親に諭されてた。だから、「今に見てれ」って思ってたらしい。でも結局、「俺より先にみんなひとりずつ死んでった」って言ってた。
わたしは本当にね、「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」って教えは頭にこびりついてたからね、貧しいからとかなんかとか、人を差別してはいけないことだと思って。父親にそうやって教えられたから。それと、妬む心。それは持つもんではない。卑しい心だから。そう父親に教えられたよ。
二つ三つのアイヌ語
アイヌ料理は、ないない(笑)。おばあちゃんは、日常のアイヌ語を二つ三つ使っていたけどね。「チクネンコレ!」っつたら「薪持ってこい(チクニ(木・薪)エンコレ(わたしにください))」、「ワッカエンコレ」っつたら「水持ってこい(ワッカ(水)エンコレ(わたしにください))」。普段のちょっと使う言葉くらいで、あとは何もわかんない。
きょうだいが3人いて、わたしが一番アイヌ語わかってるの。わたしはちっちゃいからさ、ばあちゃんの後ついてお寺参りでもなんでもした。ばあちゃんにしたら側にいる者が使いやすいから、「ワッカエンコレ」とか、「この、マツカチ!(むすめっ子)」って怒られたり。小学校高学年でも畑の草取りさせられるんだよ。子どもだって労働力だもの。友だちと遊ぶ時間なんて、ないない。
それで、ばあちゃんの友だち来るとだいたいね、こうやって、ふたりで手で炉端叩いてやってたのは覚えてる。ウエペケレ(口承文芸)っていうのかい?わたしにしたら「唸り声」ってかんじ。そばにいたってチンプンカンプンだ。あと、アイヌ語つかうのは何にもない。
活動のはじまり 登別のアイヌ共同墓地破壊問題
わたしは27歳の時にお見合いで夫(上武)と結婚して登別に来たの。うちのきょうだいはみんなお見合いで、姉は礼文華(れぶんげ)の家に嫁いだの。 それで、登別のお墓問題からウタリ協会(現:北海道アイヌ協会)のこういう活動に関わるようになったの。
アイヌの共同墓地があったんだけど、市長はそこをつぶして自分の家の墓を建てた。結城庄司さんと小坂博宣さん(登別アイヌ協会顧問で登別市アイヌ生活相談員)と石黒隆一さん(『良識ある市民に訴える!!<墓地破壊の真相>』の編者)の3人が登別に来て、それが市長との闘いのはじまり。結城さんは、シャモ(和人)にはおっかないけど、アイヌにはやさしかったよ。
うちは主人が会社員だから、主人が面に立って活動してなにかあったら生活に困るでしょう。「そしたらわたしが出る」、「わたしが影の力になって動こう」って思ったの。主人のきょうだいも側にいたし、警察に行くにも陳情に行くにしても、頭数はひとりでも多い方がいいだろうって、みんなの後ついて行った。「一人より二人、二人より三人」って、それがわたしのアイヌ活動のはじまり。
(墓問題は)町の中でも、話題になったよ。市長選もあったから、もう町を二分するくらいだ。わたしも活動してたから、「月夜の晩ばっかしでないんだぞ(月の出ていない暗い晩には襲われないように気をつけろよ)」って脅されたよ。本当にどの人が仲間なんだか、どの人が敵なんだか分かんなかった。そんなのわたし感知しなかったけどね。
「間違ったことしてなければ何も恥じることない」って思ってた。 わたしが室蘭出身であろうと幌別、登別出身であろうと、アイヌはアイヌだから。やっぱりおんなじ同胞(はらから)だから。別にアイヌの血が入ってるからって恥ずかしいと思うことないし、思う必要もないと思ってんだ。わたし強かったんだわ。
結局、市長は謝んない。その家、そのまんまだんだん朽ちて、もう見苦しい。息子たちが片付けるちゅうこともしないし、そのまんま。もう何十年も(※聞き取り後の2024年3月に更地になった)。自分の父親のしたこと考えたら、きちんと整理すればいいのにさ、見苦しいなぁとそば通るたびに思うの。やましいことしたらいいことはない。必ず報いは受ける。
アイヌ新法制定運動 自分でできることはなんぼでも
登別のアイヌ協会は今は会員が26人かい?多い時は100人近くまで行っだけど、だんだん減ってる。墓問題が最初で、いろいろあった。アイヌ新法制定運動の時は機運が盛り上がったよ。その時は、国会前のデモ行進にも一番前に歩いて行ったよ。自分でできることはね、なんぼでも協力した。
新法制定運動で東京行った時には、みんなで1万円出し合ってね。1万円払うということは、なかなか難しいことだから、意識高い人たちがまだいたよね。うちはお父さんの給料だけだから、そんなに協会にお金出せない。それでも何かあればね、生活相談員したりして、万単位で寄付した。つらかったけどね、「誰かがしなければならない」と思ったらね。だから、子どもたちのお小遣いも小学校6年生なら600円、中学校なら1,000円ってして、給料制だ(笑)。
支部長もやったけど、いい思いなんかなんもしてないよ。もうイチャルパ(先祖供養)やるってなったら、野菜出す、お米出す。やっぱり自分でやってるとそんだけしないといけないっしょ。わたしは無手勝流(むてかつりゅう)だし、逆らわないし。人の話はよく聴こうという気持ちが多かったから。なんか知らんけど、働かしてもらったなぁって思う。おかげさんで、札幌にも「カリㇷ゚の会」立ち上げて活動をさせてもらったし。仲間に恵まれた、わたし。
登別は伝統文化の伝承をやる人がいないから、仕方なしにやってる(笑)。がんばってやんなかったらさ、なくなっちゃうでしょ、せっかく支部を立ち上げたのにさ。わたしたちが復活させたんだけどね。なんにも得になんないから今の若い人たちはぜんぜんね…、可哀そうだと思うくらいだ。わたしたちが若い頃は、「自分はアイヌだ」という感じでね、やっぱり黙っていられない。声上げなかったら押さえつけられたまんまでしょ。そういう気持ちもあったからね。
結局にここのセンター(登別アイヌ協会)に来るっちゅうことも、みんななんちゅうていうの、自分がアイヌだってことを世間に知らしめるって、嫌がったもの。わりとわたしそういうことは無頓着だったから。「アイヌがなんだ」っちゅう感じだったから。「おらは人間だ」って。そういうのは小さい頃から自分としては意識持っていたから、なんのあれもなく支部の活動でも入れた。
おばあさんのお墓
おばあちゃん亡くなった時(1945年)は、もう「普通」のお葬式。そのころまだ終戦直後だから、土葬した。だから、おじいちゃんの上にさ、おばあちゃんの棺乗っけてさ。だから、墓建てる時、じいちゃんの太っとい脛の骨とかごろんて出て、生生しくなったよ。掘り起こしてそこで火たいて、燃やして、お墓建ててその中に入れたんだ。
姉と兄の間にひとり兄がいて、赤ちゃん時に亡くなったんだ。その子どものセルロイドのおもちゃも出てきた。みんなで集まって墓掘って、骨ちゃんときれいにして、そんでナマコ鉄板(トタン)の上で火たいてね、焼いて、そうして墓建てて。
昔はみんな、土葬が主だもんね。おばあちゃんは桶ではなかったよ、長いまんま埋めた。ただ土盛るだけの土饅頭。そしてなんかあれ、なんだろう、なんか立てるよね。よく記憶にない。昔のはねクワ(墓標)があったよ。女だったら先端が輪っかだ、糸通せるやつの形のクワ。
ホタテの養殖と海
姉が礼文華(れぶんげ)に嫁に行ったんだけど、姉の旦那さんが礼文華の組合の人たちと青森でホタテの養殖を習って礼文華でもやり始めた。それから兄(室村文七)は義兄のとこ行って資材から何から習って、室蘭でもホタテの養殖を始めたの。兄が市場に行ったらもう「今日の水揚げは何万」ってすごい高値で売れたから「おお、室村すごいな」ってなって。それから、礼文華から始まって豊浦までずっとホタテの養殖が広まった。
でもさ、もう海が汚れてんの。だから稚貝でもなんでも死ぬんだわ。うろ(内臓)とか残渣とかすごいからね、あれをきちんと処理しなかったらね、海ん中そんだけ汚すってことでしょ。自分で自分の首をしめるようなもんだ。船ん中はきれいだけど、沖でそういう汚物をみんな捨てる…。それが毎日のことだからね。ほんとに海が汚いんだわ。
金儲けにはなるかもしらんけど、あんまり生産過剰ちゅうのもよくないなって思って見てる。ほどほどに、ほどよいね、生活にあった取り方すればいいのに。必ずいつかしわ寄せくるんだよね。怖いなと思う。だから儲かるからやればいいっちゅうもんでないんだよね、ほんと。
刺繍と着物づくり
着物をつくりはじめたきっかけは、室蘭でのアイヌ民族文化祭(北海道アイヌ協会主催)。あの時に室蘭には着物も何にもなくて。その時に、室蘭に5枚、登別に10枚って衣装作ったんですよ。自分のオリジナルで文様考えて。それで、文化祭行って、踊ったこともない踊りを教えてもらって「エッサホイ、ホイヤホイ」って踊ってさ。
それまでは刺繍やるったって、余裕も時間もなかったから。わたしは室蘭出身だったから、室蘭の知り合いに声かけて3人で刺繍勉強会をはじめたの。それで徐々に登別でも協会の会員さん何人か集めて、ほんとうに基礎から、チェーンステッチから勉強。最初から着物なんか無理だから。わたしはマネするの上手だったの。一目見たらすぐマネできるの。そういう複製っていったらお得意だったのさ。
やっぱり、昔の着物を復元するのが一番勉強になった。昔のそういうものを手にとってみて、ああこういうやり方あるのか、こういう縫い方あるのかって。そこで勉強さしてもらって。古い着物が先生。辨開凧次郎(べんかいたこじろう)さんの着物は苦戦したけど、ああ、こういうやり方あるんだなって。
八雲とかあちこちの着物の複製やったけど、本当にその土地によって、袖のつけ方とか縫う人によって違ったから。複製したことが一番の勉強。だって、わたし何も知らないんだもの。だけど、おんなじものは作りたくないから。どこかメリハリつけて、ただ人のマネはしたくないなって感じでね。だから、創意工夫、そういう風に神経使った。
着物を作るようになったらね、そういえば子どもの頃に、こんなチンヂリ(刺繍衣)あったなあ、着物あったな、イテセニ(ござ編み機)あったなあ、ばあさん編んでたんだなって思い出したの。子どもの頃は興味もなかったけど、ある程度自分でやるようになって「ああそういえばあったなぁ」って。あと、漆塗りのいいシントコ(行器・ほかい)があった。それでどぶろく作ってあったの。学校から帰ってきたらそっから湯飲み茶わんで…いやあ、おいしかったな(笑)。
だから、ここでカムイノミ(儀式)するんだけど、スムーズにトノト(お酒)つくれたの。思い出して自分でつくるようになったのさ。昔はお米でつくってたのかな…、わからないけど、美味しかったよ(笑)。うちは母がいなかったから、おばあちゃんが作ったの。
伝承すること・次世代への思い
登別や室蘭はね、伝承者っていなかったからね、ほんとに。今はアイヌの人は出てこない。みんな殻に閉じこもって。だから今、室蘭支部でも「イタンキの会」って刺繍の会やっているけど、アイヌの人はひとりもいない。「ピリカノカ」はここの登別の刺繍教室につけた名前。アイヌの人は1人か2人。みんな自分の生活にいっぱいだから。ゆとりがない、気持にもゆとりがないから。「今更こんなのやったって何になるの」って感じ。
古い着物はあったけど、収集家っていうのいるっしょ。そうした方に買い占められてるの。だから、心残りがひとつあるの。前川俊雄さんていう収集家がいたのね。その人が持ってる、知里(金成)ハナさんていう人の着物を借りて複製したかったんだけど、わたしがあんまり忙しすぎて複製できないうちに返したわけさ。その着物が、知里幸恵 銀のしずく記念館に行ってるはずなんだわ。すてきな糸刺繍なの。心残りなの。
うちにはもう後継者がいないから、わたしが携わった着物は登別市に全部寄贈したの。おかげさんでね、市がちゃんと学芸員をつけてくれて全部きちんと散らばらないようにしてもらった。
もう、腰も膝も悪くなって、すぐ車いすなんだ。だけど、もう歩くだけ歩いたからもういい。あとはこれからの人が一生懸命やってくれたらいい。だって、自分たちのことだからね、人任せにしないでやってほしいと思うんだ。目光らかせてないとね、うまいように使われたら何にもなんないんだから。本当に被害に合わないと気いつかないんだわ、人間て。気いついたら騙されてたとか、被害にあってたとかあるからね。自分の身の回りはアンテナ張ってちゃんとしなくちゃだめだと思う。
自分の人生は自分で切り拓くしかないんだからね、もっと勉強しなさいって言うしかないな。
(まとめ:八木亜紀子、山口翔太郎)