メンバー:小笠原小夜、小泉雅弘、八木亜紀子
聞き取り2回目:2023 年 8 月 21 日(月)
メンバー:飯沼佐代子、小笠原小夜、八木亜紀子
場所:大須賀さんのご自宅(白老)
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
白老のおじいさん、おばあさんとの暮らし
わたしは1940(昭和15)年の4月24日に白老のコタン(村、集落)で生まれたんだけど、わたしがまだ赤ちゃんだった1941(昭和16)年くらいに一家(写真)で鵡川(むかわ)に引っ越したんです。
それで、わたしが5歳の時に母が病気で倒れたんです。母は年子(としご)も産んで子どもがいっぱいいたので、5歳のわたしは白老のおじいさんとおばあさんのところに預けられたの。6歳になると小学校に入学するために鵡川に戻ったから、おばあさんたちとは 1 年ちょっとの間暮らしました。
おじいさんは1876(明治9)年生まれで、名前は「宮本イカシマトク」、おばあさんは1881(明治14)年生まれで「サキ」という名前です。おじいさんとおばあさんがケンカする時はアイヌ語でしゃべっていたかもしれないけど、5歳のわたしと話すときは日本語でしたよ。
毎晩、おばあさんに抱かれて寝ました。ばあさんには唇のまわりにシヌイェって入れ墨がある。そして、手首のあたりから肘の下までにも入れ墨がしてあったの。寝ているおばあさんの唇を「どうしてここが黒いのかな」と思いながら指で触ったことがあります。おばあさんは1881(明治 14)年生まれなのだけど、もうそのときはシヌイェっていうものを、日本の政府が禁止していた。だけど、禁止されてもやっている。だって、これは自分たちの文化だから。
すごい働き者のおばあさんだから、わたしが目覚めるともういない。畑にいるおばあさんを見つけて自分の親のように、とにかくおばあさんの後についてまわりました。薪(たきぎ)集めも一緒にやりましたよ。5歳の子どもだったけど、おとなと同じように柴を背負わせて歩かせるの。紐をきゅきゅっと縛ると緩みもしなくてしっかりしていました。休むときはそのまま仰向けになって柴の上に乗って休んだの。
この、おばあさんと一緒に柴刈りに行った話を母親にしたことがあるの。そしたら母親が、「こんなちっちゃい5歳の子どもにそんなことさせた」って怒ったの。びっくりしたよー。そういうおばあさんとの話を「言っちゃいけないんだな」っていう気持ちになって、それからあんまり言わなくなったの。
おじいさんとはよく一緒に魚を食べました。わたしが骨を出すと、このおじいさんがまん丸い目をして「食べろ!」って言うんです。5歳の子どもに、骨も食べろって言うわけ。わたしはびっくりしてじいさんをじっと見て、じいさんはわたしをずっと睨みつけるように見るわけ。わたしは、もぐもぐって何十回もその骨を噛んで、それこそ50回も100回もかじって飲み込んだっていう記憶があるの。
アイヌの子育ては何でも体験させる。子どもの頃におじいさんとおばあさんに預けられて本当に良かったと思っています。
大須賀さんのお話を聞いてみよう「わたしはねアイヌ語って話せないの。でも、5歳の時におじいさんとおばあさんと暮らしたときに聞いた言葉は忘れない。言語をあっという間に消し去ったというのは、罪だと思いますよ。悔しいですよ」
注:ハワイ大学の「オオツ先生」とお話されているのは「大原先生(大原由美子先生)」のことです。
アリューシャン列島でラッコを獲っていたおじいさん
おじいさんは、若い頃はアリューシャン列島でラッコを獲っていたそうです。日本政府が漁業会社に委託して、優秀なアイヌの撃ち手を募集した。東京湾で試験をやったそうですが、アイヌは小さい頃から漁をしているのでほとんどが合格したらしい。
大きな船でアリューシャン列島まで行き、そこから小さな船に乗り換えてラッコの群れに近づく。毛皮を獲ったら、外貨を稼ぐために中国へ売った。おじいさんは単に雇われていたんだね。船員の服を与えられて働いていたのだけれど、肩に顕彰をつけて横浜の町を歩くと通りすがりの人に敬礼されたんだって。「田舎にいたらアイヌと言われて軽蔑されたけど、スッキリした」と言っていた。このおじいさんは、カムチャッカを通ってサンフランシスコまで行ったというんだからすごいよね。
その後、戦争(第二次大戦)が激しくなってから陸に上がった。ラッコの毛皮はビロードのようで非常に高級で需要があったんだけど、国同士の関係が悪くなってラッコを獲ることができなくなった。でもアイヌはぎりぎりまで行っていたらしい。日本の政府は「先住民族のアイヌが獲るのはもともとの権利だ」と言って密猟を見て見ぬふりしていたそうだ。アイヌが自分たちで獲った毛皮を着るなら「伝統」といえるけれど、実際は国が売っていたのだから「先住民族の権利」とはいえないよね。
大須賀さんのお話を聞いてみよう「日本の政府はアイヌは先住民族だからもともとの権利だからアイヌが獲るのいいんだと言って獲らせていたみたいだよ」
おじいさんは熊獲りの名人
おじいさんは30歳くらいで陸(おか)にあがって、それから70代までずっと熊を獲っていました。
熊獲りは、冬の1月から3月頃に堅雪(かたゆき)になったら行くの。雪が溶けたり凍ったりを繰り返すと、堅雪になって川の上でも歩けるようになって、まっすぐイウォㇽ(狩場)まで行ける。熊獲りする人はみんな「自分の熊の穴」を持っていて、ここからここまでを利用するっていうことになっている。日帰りのときもあるけど、何日もかかるときは自分のポル(洞窟)を使ったり、雨宿りできるようなクチャ(狩小屋)を作ったりしたんだ。
だいたい山の南側の斜面の木が生えてるところに熊が穴を掘って、そこで冬眠してる。メスだったら大体2頭赤ん坊産むわけだ。「ここがそうだな」と思ったらそこに行って、長い棒でもって探るわけ。いたら気配でわかる。熊は半分寝てるような起きてるような状態でいるから、やっぱり棒を突っ込まれてガーッとやられたら怒るよね。そしたら、木を何本か切ってきて、出ないように穴を塞いで、怒って出てくるからそこを村田銃で撃って親熊を獲るわけさ。
子熊がいたら、何かにくるんで懐に入れて温かくして持って帰る。生まれたての500gくらいの小さな赤ちゃん熊を自分のふところに入れて育てて、ある程度大きくなったらヘペㇾセッ(熊檻)に入れる。そういうふうにして、おばあさんは25、6匹も熊を育てたんだって。瀬川清子さんの『アイヌの婚姻』(未来社、1972年)という本にコタンの人たちから聞き取ったことがそのまま書いてあります。
おじいさんは熊獲りの名人だったから、家にあったヌサ(祭壇)には熊の頭蓋骨がたくさんついていて、幅が3間か4間(約5、6m)くらいある大きなヌサだったの(写真)。熊が獲れると頭蓋骨が増えてヌサもだんだん大きくなっていく。ヌサが大きくて熊の頭蓋骨がたくさんあるのは裕福だということ。
だから、役場の人に村人が「税金をとるなら宮本の家に行けー」なんて言われた。そして、ヌサは神聖だから、近づいちゃ駄目だし、そこで普通のようにふるまうのも駄目。すごく神聖な場所だから。
熊の胆、肉、イオマンテ
熊の胆(くまのい)は売ってました。丸い板に挟んでぺったんこにして売りました。肉は近所に配ってみんなで食べて、毛皮も売りましたよ。イオマンテ(熊の霊送りの儀式)もありました。おむすびやごちそうを用意したので「宮本のイオマンテに行くのが楽しみだったよー」とよく言われました。
そういえば、そのころ白老に「コタンのシュバイツァー」と呼ばれる高橋房次先生というお医者さんがいました。ほかの医者はアイヌが行っても部屋にあげてくれなくて、土間に蓆(むしろ)を敷いたところに座らせるわけ。でも、高橋先生はそんなことなかった。だから、先生のところにも「これ食べてください」と熊の肉を持って行ったりしていました。
おじいさんはわたしの父親の兄(長男)と一緒に熊を獲りに行ってました。息子が小学校の高学年くらいになると一緒に山を歩いてどうやって熊を獲るのかを教えたの。でも、わたしの父親はおばあさんから「お前はウェンクㇽ(精神の悪い人)だ」と言われていました。「ウェンクㇽのところに獲物は来ない」と考えられていて、わたしの父親は熊獲りに連れて行ってもらえませんでした。ですから、お父さんは鉄砲を持って、キジやカモ、キツネ、タヌキ、ウサギなんかを獲ってました。キジはお吸い物に入れて食べて、カモはカレーに入れて、おいしかったですよ。カモは自分たちで毛をむしって捌いて食べました。鳥でも魚でも、自分たちで捌いて食べていました。そういえば、お父さんは鉄砲の弾も自分でつくっていましたよ。
シリカプ(メカジキ)とヌサ(祭壇)の話
漁師の人たちの家にもヌサはあったけど、海の近くだったからシリカプ(メカジキ)のヌサで小さかったです。シリカプを送る儀式っていうのもやってたんだよ。
シリカプは夏に獲るの。シリカプ獲りの名人がいて、その人が言うには、朝の2時ぐらいに起きて太平洋のずっとあっちの噴火湾の方まで行くんだと。沖にスカンベ(アホウドリ)がいたら、そこにシリカプがいるんだそうだ。アホウドリの頭骨もたしか儀礼とかお守りにしたらしい。
昔は、エンジンがついてないイタオマチㇷ゚(板綴り船:いたつづりぶね)で漁に出たんだ。ただの丸木舟ではなくて、波が高いから丸木舟に板を張り付けて船をつくる。ウポポイにも展示されているけど、板と丸木舟をくっつけた穴が2個入ってるから分かる。3人乗りでキテ(銛) 一丁で突いて獲る。風の向きで流されたら帰ってこられないから、命がけですよ。
和人の船大工が入ってくるようになったら、船大工が磯船を作ってくれるようになった。初めは、和人の親方がいて、そこにみんな集まってやったけど、だんだん力がついてきたら、自分の船を持つようになるわけ。3人ぐらいが出資して、船大工に頼んでいい性能の船作ってもらう。
メカジキは大きいものは5mくらいあるから、船縁に括りつけて運ぶんだ。獲れたら「モシカㇽヤーン」って大きな声で言うんだと。「モシカㇽヤーン」は草を刈れってことなんで、陸にいる人は「モシカㇽヤーン」って聞こえたら、「あ、釣れたな」ってわかってイタドリをいっぱい刈って、シリカプを置く座を作るんだって。そこにシリカプを乗せて「オノノオノノ」って、「ありがたい、ありがたい」ってやったらしい。 五十集屋(いさばや:魚問屋)がちゃんと待ってて、胴体の方は五十集屋が買っていく。頭の方はいらないっていうことで、置いていく。目玉のところものすごく美味しいところがあるんだそうだ。角みたいなところはステッキにする。竹みたいに軽くてしなっていいものだそうです。
大須賀さんのお話を聞いてみよう「メカジキが獲れたらね、モシカㇽヤーン!って遠くから大きな声で言うんだ」
戦争と鵡川の食糧営団
おばあさんとのところではサヨ(おかゆ)も食べたし、オハウ(汁物で主食)も食べた。野菜でも魚でも肉でも入ったそのオハウの鍋がこんな大きいのよ(両手を丸くして)。そこにね、たぶん熊の骨か髄だかがボンと突き刺さってた。
白老は火山灰地で、田んぼがないんだけど、鵡川は米どころで、田んぼがいっぱいあるの。小学生の頃に、私と兄と、5升ずつ持ってお米を持っておばあさんところに運んできたことありました。鵡川の駅から汽車に乗って苫小牧で降りて、苫小牧で室蘭本線に乗り換えて白老駅で降りるんだけど、駅から子どもの足で歩いたら結構ある。重くて、重くて、10歩ぐらい歩いたら置いて、また10歩ぐらい歩いたら置いてっていう感じで運んだの。手がちぎれるほど痛かった。
うちの父親は鵡川にあった食糧営団に勤めていたの。国が米とか穀物とかを管理しているところ。当時は米といったら俵なんだけど、俵って稲の藁でできているからどうしてもすき間からお米がこぼれ落ちるの。それで、こぼれた米をゴミやなんか飛ばして綺麗にしてもらって来てくれたから、戦争中でも食べる物には不自由しなかったです。そういうお米は何人かで分けるんだって言ってました。
男の人が徴兵で連れてかれたら1年も2年も帰って来られないでしょう。母親と子どもたちだけが残されて、国からもなんの保障もなくて困っている家がいくつもありましたよ。だから、一般の人も知恵を働かして、「国のところで働けば(徴兵に)引っ張られないから」って食糧営団で働いたわけだ。今みたいに便利なものはないから、人間の力だけで俵を運ぶ。そういうのに屈強な30代とか40代ぐらいの若い男が雇われる。戦争に行かないように、そういうことなんだね。
強制移住と高砂町のはなし
おじいさんの家がこのあたり(現在の白老町役場の南側付近)で、今わたしの家があるのが緑丘。このあたりは昔は雑木林と湿地帯だったけど、宅地開発されたの。
海の近くの今でいう高砂町のあたりが昔の主なコタン(集落)です。そこは70軒とか100軒とか住んでいたけど、もともとアイヌが住んでいたわけではないの。強制移住で政府側に管理されて住まわされた。アイヌの人は、元々はだいたい川のそばに住んでるんだけど、1軒でも人が住めばそれはコタンなの。3軒とか5軒とかぽつぽつと住んでいるのを和人が来て1か所に移住させた。否応ない強制移住なわけ。
高砂のあたりには東北から「やん衆」ていう漁業労働の出稼ぎの人がだんだん入ってきたらしい。それよりもっと前だと、江戸時代の末期には仙台陣屋ができた。和人は陣屋の中にだけ住んでいたから、もともとはみんなどこだってアイヌの土地だったんだ。
高砂町のあたりの漁師の人たちは食べるには食べられるけれども、子どもを教育したりするのは難しい。アイヌの人たちは中学校を終わったら女の人は農家に手伝いに行く、年頃になったらお嫁に行く。そんなような感じで、貧乏の繰り返し。そういう人たちが結婚してまた貧乏の繰り返し。だから、「税金をとるなら宮本の家に行け」なんて言う。それが『アイヌの婚姻』(前出)にも書いてある。
(まとめ:井上千晴・八木亜紀子・山口翔太郎)