メンバー:貝澤零、小嶋宏亮、八重樫志仁
場所:浦河町堺町生活館
メンバー:貝澤零、川合蘭、八重樫志仁
場所:萩荻伏、キナチャウス、元浦川さけますふ化場、古川、チプタナイ
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
- 掲載内容は2025年1月現在のものです。
子どものころに育った家の記憶
一番古い記憶は小学校入る前だから、6、7歳くらいかな。 そのころの家はね、わたしのお父さんとお母さんが建てたの。払下げでもらった材木を山の中で伐って、川で流して拾い上げて、それを家の材木にしたって言ってたね。ちゃんと大工さんに建ててもらったから手造りではないけどね。
わたしが生まれたころは、ぜんぜん今とは違う場所、古川の近くに家があって、茅葺屋根だったのかなぁ。あんまり覚えてないんだけど、家の中には最初は囲炉裏もあったみたいだよ。その炉があるところに鉄板敷いてストーブを置いてた。ずっとそこは固定してあったし、ストーブの前に灰もあったから、多分それが炉だったんじゃないかな。じいちゃんはそこでカムイノミ(儀式)してたからね。いつもその家主が座る場所は決まってる。ばばが座る場所も決まってる。それから家のそばには、ランコ(カツラの木)があって、そこにヘビを祀ってた。今はその場所には牧場の馬小屋があるよ。そこで住んでたんだけど、道路の向かい側に新しい家を建てたの。

その家を建てたときのことは覚えてる。家を建ててる間は、仮小屋として蔵に住んでたから。蔵に住んでた時はランプだったんだ。蔵って言っても、宝物入れる蔵じゃないよ。農機具とかを入れてる蔵だったんじゃないのかな。薪小屋もあったよ。そしてその家を建てるときの屋根が柾屋根(まさやね:材木を2~3㎜の厚さに割ったもので作った屋根)だったの。そのころ子どもだったからそれを盗んで更に割って、幾何学に組んでヒューって飛ばす遊びをやってたね。家建てる大工さんが、一生懸命やってるのにね。
新しい家は2階建てだったね。2階に1つ部屋あったけど、それをちゃんと部屋にすることができなくて、壁のところも内壁がなかったりとか。そういう家だったから、寒かった。家の壁は土壁だったんだよ。あったかいのはストーブがある茶の間だけ。寝るところなんか隙間から粉雪がいっぱい入ってきて、布団の上が真っ白になってて、縁なんかガリガリに凍ってるっていうかね。
わたしの家は米を作ってたから、毎年秋になると米藁を使って、分厚い藁布団をつくるの。藁布団の上に普通の布団も敷くんだけど、その布団だってまともに綿入ってるわけじゃない。布団は最初はふわっふわで気持ちよくて、寝るのが楽しみなんだけど、春ごろなったら布切れしかなくなる。みんなぺったんこなって、藁がどこ行っちゃったんだろう、っていうくらいね。一冬でダメになるの。だから毎年布団作りしてた。
両親と祖父母と暮らしてたよ。お母さんは家のことをやりながら田んぼもやっていた。お父さんは山子(やまご=きこりなどの山で仕事をする人のこと)だったよ。おばあさんは食道楽で食べることにはお金を惜しまなかった。海の幸も山の幸も買って、子どもたちにアイヌ料理を食べさせてくれた。わたしは、母親がキナ(ゴザ)を織ったり針金でヨシを編んだり、手仕事をやるのを見て覚えたよ。お父さんは布に綿を入れて、チカミコテという指先が出る手袋みたいなもの(手甲)を作っていたよ。
アイヌプリの暮らし
家が今のところに移ってからはヌサ(祭壇)もあったよ。イチャルパ(先祖供養の儀式)のヌサみたいなのがいっぱいあった。そして、ヌサの向かって右の方にはウナ(灰)を溜める場所があって、「そこでは絶対おしっこしちゃだめだよ」って厳しく言われてたね。家の東側に床の間と東窓があるんだけど、ヌサと壁の間を走って歩いたらすごく怒られた。お祈りは父さんじゃなくて、じいちゃんがやってた。アイヌ語使ってたよ。そのじいちゃんが亡くなったあとは他の地域の人にお願いしてやってもらってた。
わたしのじいちゃんは、わたしが来年小学校入るっていうときに、山で亡くなった。その時は、アイヌ式でお葬式出したって聞いたよ。キナ(ゴザ)にくるんで、墓に土葬だからね、昔は。そしてうちのばあばは、わたしが高校2年生くらいのときに亡くなったんだ。そのときはアイヌ式っていうほどではないけど、アイヌのばあさんたちがみんな来てね。キナにくるんではやらなかったけど、じいさんの隣に離して土葬したの。その7,8年後に、無縁仏のために、そういう土葬を全部掘り起こしたんだけど、うちのじいさんとばあさんの埋まってるところがくっついてた。「いやー、こういうこともあるんだなー」ってたまげてたまげて。
家には水道はなくて、ポンプで水を汲んでた。トイレも風呂も外。ポンプは家の中にあって、流しの横にあった。柾屋根の立派な家建てたのに、それでも壁に流しの水を流すための穴開けてたね。

流しと言えば、熱いものをそのまま流しに流すんでないよ。喉を熱くして神様に悪い。シンブイカムイ(シンブイ=水)っていう流しの神様にね。熱いお湯を流したりしたらカムイ(神様)が火傷するから、そういう熱いものは決して流してはだめだって言われてた。だから、今でもテレビの料理番組見たら、パスタ茹でた熱いゆで汁をざーって流しに空けてるでしょ。やっぱりだめだって自分は思うんだけど、みんなはそうは思わないからね。でも、わたしの周りのみんなには必ず「そうやらないほうがいいよ」って教えてる。
そうそう、母乳も捨てるのは、川か人が通らないきれいな場所の木の下に捨てる。むやみやたらにそこら辺に捨てるもんじゃない。母乳もアンカルベ(儀式用の酒)も流しに捨てるんじゃなくて、人が歩かないようなそういうところに捨てるの。ここの生活館でもそうやってやってるんだよ。あと、お盆に上がった 団子とかをごみ箱に捨てたらだめだ。それは人が歩かないきれいな木の下に置くか、川に持って行って流す。だけど今はそれをすると川が汚れるからね。昔はビニールとか一切全部取ってから、紙が溶けて無くなるような箱に乗っけて、ろうそく付けて線香乗せて、流したんだよ。
今わたしがそういうことを知ってるうちに、次の人に伝えようと思ってる。その人がやるかやらないかっていうのはわたしは決められないけどね。でもね、伝えることだけは伝える。それが自分がやらないといけないこと。やらないといけないことを無視して自分もやらず、教えもしなかったら、それは自分が悪いことになる。だからわたしは今でも伝えた相手がやるかやらないかに関わらず、「伝えることは伝える」と思ってやってるからね。
仕事によく連れて行ってくれたお父さん
お父さんは器用な人だった。だから、機械とか牧場のトラクターとか、直してくれって言われたら直したりとかしてたし、木彫りもやってた。わたしのお姉さんが阿寒に嫁に行ったときに、旦那のお兄さんが床ヌプリさん1だから、木彫りを習いに行ったわけ。だから彫り物もやってたし、誰に習ったか分からないけどトンコリ(弦楽器)もそのとき教わったんだよ。その時作ったトンコリを屈斜路の資料館とか、阿寒や千葉県にも寄贈してる。道具もお父さんが自分で作ってたよ。炉鉤(ろかぎ)っていう、昆布採るときにつかう道具を造ったりね。
冬になると父さんはよく山に連れて行ってくれたよ。山の上には馬ソリに乗っていくんだ。ソリは父さんが作ってくれた。馬も飼ってたから鉄が付いた木製の馬ソリでね。おやつはたくあん、干した魚、それからしばれイモの団子2だった。
山に行くときは冬だからすんごい寒いんだ。だけど山に行ったら父さんは子どもたちのためにぶどうヅルをつなげて、ブランコ作ってくれるの。子どもたちはそれで遊んだ。それが面白かったんだよね。それはチプタナイの山だったよ。子どもたちが遊んでる間、父さんは木を伐ってる。そして、帰りには馬ソリにいっぱい木を乗っけて、わたしらはその木の上に乗っかって、滑るようにして帰ってくるわけさ。取ってきた木は薪ストーブに使ったよ。

春になったら、田んぼに土を入れる客土(きゃくど)っていうのをするんだよね。田んぼを改良するために、山の土を掘って、その土を田んぼの中に10㎝くらい積もるように入れるんだよね。その土を入れに行くときも、父さんは子どもたちを連れて行くんだよ。とにかく、何でも連れて行くんだわ。
そのときは馬車だったね。でも鉄の車輪のついたやつね。ゴムのタイヤって言うのは、シャモ(和人)の極上の家の人がよく使ってて、わたしらのようなところは、タイヤよりも3倍くらい大きいんだよ。それで次に米ができたら、それを農協に出すのに、馬でガタガタガタ行く。昔は砂利道だからね、うるさいよ。精米所じゃなくて、供出米で出しに行った。帰りは父さんが「お前が馬運転、舵とって帰れ」って言うんだ。だけどどうやって舵とっていいかわからない。とにかく馬の手綱を持って馬車の上に乗っていると、父さんはもう寝転がって、お酒も一杯飲んだりなんかしてる。だけど馬はわたしが「曲がれ曲がれ」とかってやらなくても一人でもちゃんと家に帰ってくれる。それが可愛かったね。
周りの子どもたちと一緒に育った子ども時代
親が忙しくて働いてるから、親だけがそういう知恵や知識を教えるかってったらそうじゃなくて、兄弟も多かったし周りに子どもたちも多いから、上のお兄さんお姉さんが教えたりとかね。遊びを教えたりとか、今みたいにゲームして遊んだりとか。木登りとか、川行って泳ぐことしかできないから。わたしらの小さい頃は炊事遠足っていうのがあって、河原に行って、自分たちで薪拾ってきて、穴掘って、石を積んで、その石を積んだところに鍋をのっけて、カレーライスとか食べ物を作ったりしてみんなで食べるっていう。それが学校の遠足だったね。それで秋になったら、木の実を取りに行くのに、栗拾ったり、そういうのをするための山に行く遠足もあったしね。
家の前でスズメの罠もかけてた。ざるを置いて、そこにボッコ(北海道弁で棒の意味)置いて、紐を付けて、家の中から待ってるんだ。そこの下に米散らしといてね。スズメが来るの待ってるの。そしてスズメが来たら紐を引っ張れば、バタンと落ちて、スズメを捕まえるっていう罠を作ってた。お父さんがいなくてもそうやって教えられたからやろうと思って、みんなでやったりしたよ。でも子どもがとれるわけないよね。だいたいにして、こうやって引っ張ってバタって落ちる前に、スズメって逃げちゃうの。でもそのやってる過程が面白いの。そうやって待ってるっていうね。狩猟してるんだみたいなね。
春になったら山に行ってフキ採ってきたり、キトピロ(ギョウジャニンニク)、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)、ミツバ採ってきたっていうのはよくやったけどね。子どものころからそうやって遊ぶからね。そういうのが、バランス感覚だとか狩猟感覚だとか腕を鍛えたり、耳を澄まさせたりするんだろうね。
わたしらが小学校1、2年生の頃はまだテレビっていうものもなかった。隣の隣の家の人が夫婦だけで子どもがいないところだったんだけど、そこにはテレビがあったの。テレビ見さしてくださーいって、ちゃんとあいさつして行ったら、来るときに薪一抱えずつみんなで持って来いって言われて、薪を一抱えずつ持って行った。緊張して固くなりながらテレビを見てたんだけど、小学校4年のときだったかな、うちでもテレビ買った。そうしたら隣の家の人はまだテレビがなくて、やっぱり見に来てたよ。テレビは床の間に飾ってあって、ゴブラン織りの幕でカバーがしてあった。テレビはカラーじゃないんだよ、ただの灰色のブラウン管なんだけど。こういう小さい時の話っていっぱいあるの。
小さいころから山の中で食べられるものを学ぶ

山菜の季節は春から夏にかけてだね。チプタナイの入り口から入って下ったところで採っていたよ。
見た目が分かりやすいから、キトピロ(ギョウジャニンニク)、フクベラ(ニリンソウ)、スドキ(モミジガサ)、フキノトウ、フキ、ワラビ、ナナツバ(ハンゴンソウ)、アズキナ(ユキザサ)を子どものころから食べていたよ。秋はコクワだとか、ブドウだとかね。そういうの採って食べたし、夏は桑の実採って食べたし、春はサクランボ。サクランボって言っても佐藤錦とかとは違ってて、ヤマザクラとかのサクランボなんだけど、小さい黒い実でちょっと甘くて苦いような感じなんだ。
そのほかにもオンコ(イチイ)の実食べたり、ツツジの花も食べたり。そういう野草だとか、花だとかは小さい頃よく食べたよ。
川のそばにはブタイモ(菊芋)がいっぱい植わってたから、それを掘って、川で洗って、歯で皮剥いて。それがおやつ代わり。生で食べたんだよ。それから、スッカンコとか、フキノトウ、そういうものをよく食べた。全部生で、だよ。フキノトウは伸びたやつを折って、皮剥いて食べてみて、苦いやつは捨てる。青いようなやつは美味しい。赤っぽいような色してるやつは、苦くない。ちゃんとわかるんだ、子どもは。あと、ドングイ(イタドリ)なんかは酸っぱいから美味しい。ドングイは茎も食べる。成長して大きくなると折れるから、それを皮剥いて、食べる。


母さんが子どもらを山に連れて行ったら、これも食べれるんだって、ハックリ食べたり、ヨブスマソウで水飲んだりとかしたよ。カップ作ってそれで。そのころはエキノコックスってなんも知らんもんね。沢の水なんか、美味しい美味しいって飲んでたもん。フキの葉っぱを反対にしてやると本当に水いっぱい汲める。ひしゃくができるからね。あと木の実、ゾウミ(ガマズミ)はちょっと甘酸っぱい味がするんだけど、どれが食べられてどれが食べられないとかね。ヨブスマソウは中が空洞でストローみたいになってて、それで吸うんだよね。あとはいたずらで山椒の実食わされたけどね。もう口の中ピリピリして、ああーって笑ってさ。
おやつで春よく食べて歩いたのが、ブドウの芽とか、ブドウのツルとか、新芽出てきたやつね。父さんと野原歩いたときは、エンレイソウの実、山そばなんだけどね。紫色と青色のそういう草の実も食べた。またそれも美味しんだ。甘いし。そうやって小さいころから、山ん中連れられて歩いて、食べれるもの、食べられないものを教わったよ。毒については教わらなかったけどね。
だからわたしも自分の子どもが保育所のころには、ちり紙がない時はこういう草で鼻かむといいんだよって教えた。ハコベとかそういうのでやるとつるつるしてて、自分に鼻がかかるから、ちょっと裏ががさっとしてるようなやつね。だけど逆にウマダイスの葉っぱでやったら、鼻痛くするからね、とかね。それとか、ちり紙がなくてうんこしたら、フキの葉っぱでおしり拭きなさいとかね。そうやって何もなくてもそうやんなさいって教えたりした。小さいときに自分たちが教わってきたことをね。だから、子どもたちは河原に遊びに行ったりしても、自分たちでヤナギの皮を剥いだり、フキの繊維取ったりして、はがれた靴を縛ったりしてたよ。
お金がなくても動じない暮らし
食卓には山菜しか並ばなかったんじゃないかな。野菜とか、肉とかスーパーがあるわけじゃないんだからさ。どっかに買い物に行くっていう考えっていうのは昔はなかったと思うよ。わざわざ一回ごとに山に買い物に行くみたいには行かないだろうけど、ちゃんと貯蔵してあるものを食べた。干してあったり、塩してあったり、そうやって食べてたと思うよ。
しばれ団子だってやっぱり年中食べてたからね。そういうの作るのもずっと小さいときから見てたし、ばばたちがストーブの上で焼いて食べるのだって見てた。叩いて、団子の空気を抜いて、ストーブの上に焼く焼き方をね。

結婚して平取に住んでたとき、1週間もお金一銭もなくて、食べるものもないし、困ったなぁってなったら、山の中走って行って、キノコ採ってくる。行く前に鍋沸かしておいて、ラクヨウダケを一生懸命取りに走って。ペナコリっていうところがカラマツ林がいっぱいあるから、そこでキノコ採ってきてすぐ味噌汁に入れて作ったりとか、そういうのばっかりだったよ。その山の中でどこに食べ物があるかを知ってる。小さい頃から親たちに、父さんは父さんで、母さんは母さんで教えてくれたから、お金が全くなくても、何にも動じもしないで、それなりの生活をしようっていう知恵はあった。やっぱりそれはよかったなって思うよ。

(まとめ:川合蘭、八木亜紀子)