メンバー:貝澤零、八重樫志仁
場所:様似町公民館
メンバー:八重樫志仁(聞き手)、講座参加者
場所:さっぽろ自由学校「遊」会議室
※遊の講座「住民族の森川海に関する権利3―川とサケとアイヌ民族」内でお話をうかがいました。
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
- 掲載内容は2025年1月現在のものです。
「川の恵みは、本当にいろいろあったんです」
うちが川の側で、昔は川の水もきれいだったので、樽なども、川で洗うんです。小さな小魚がいっぱい泳いでいて、ある日、お釜を洗いに行くと、ご飯粒が流れて、子魚がわーって寄って来て食べたんです。昔は、そんなふうにして、ご飯粒も無駄にならなかった。子どもの頃は、川で泳ぎもしました。昔はよく大水が出て、コタン中が水浸しになることがありました。家の中にも水が入ってくるので、畳やなんかを2階に上げていました。ダムができたから、様似川の水も減り、たまに放流すると水が増えますが、小川みたいなものです。
子どもの頃、柳の木が生えていて、大きくなると根っこのところに空洞ができるんです。そこにエビがいて、よく獲って、ストーブに載せて焼いて食べました。あとは、ウグイの大きいの(アカハラ)が、川に入ると足にぶつかるくらいたくさんいました。それをお刺身にしたり、ストーブに載せて焼いて出汁にしたり。カワガニもいました。子どもの頃は、いろんな生き物が川にいました。
昔は、川にカジカはたくさんいました。わたしは兄に連れられて、夜、シラカバの枝の先に、ちょっと切り目入れて、そこにシラカバの皮を挟んで火をつけた松明(たいまつ)を持って、兄について行ったんです。それも初めてだったから、何をするのかわからなくて、ただ「ついてこいよ」って言われたから、川に入って行ったのね。カジカは面白くて、夜になると川の岸の方に集まって寝ているんです。わたしが見た時は、それをヤスで突いて獲る。魚籠(びく)にいっぱいなったら、帰るぞって。それを次の日、ストーブの上で焼いて、藁で編んでストーブの上に干していました。夏の終わりから秋頃だったと思います。
春になると、カジカは大きな石の裏にべたっと卵を産むんです。昔は石をはぐって(めくって)みると、全体に卵がついていました。「目玉がついているのは獲ってはだめだよ」と母が言ったので、そういうのは獲りません。そっと石を起して卵を持って帰って食べた記憶があります。秋には獲りませんでしたが、春には1回獲りに行ったことがあります。アカハラは、お刺身以外では、焼き干し。出汁にしたり、焼いて干したのをコトコトとお醤油で煮付けて食べたり、おつゆの出汁に入れたりしました。昔の川カジカは大きかったし、干して出汁にして、こっこ(卵)も美味しかったです。こっこは、醤油だけで煮付けて食べました。
去年、久しぶりに卵を獲りに川に行ってみました。石をはぐって何回も見てみたら、ぜんぜん無いの。諦めて帰ろうと思ったら、最後にはぐった石についていたの。「来年、増えたら、ちょっとよばれようね」って、そのままにして帰りました。そのように川の恵みは、本当にいろいろあったんです。わたしが子どもの頃は、カメさんもいましたよ。川カメが草むらから顔を出しているのを見たのが、最初で最後。それ以来、見たことはないです。
ザリガニはいくらでもいました。母は、ザリガニは肺病の薬だといって食べませんでした。貝はいませんでしたね。見たことはなかったです。磯には大きな貝がいたから、一つ食べたらお腹いっぱいになりましたが、今は小さくなり、遠くまで行かないと獲れないそうです。ぺカンペ(ヒシの実)は、採ったことはないです。ただ、沼には大きなタニシがいましたが、それも「薬だ」といって、うちでは食べませんでした。昔は沼もありましたよ。
川サケとアイヌ料理
川のサケを獲ったら、もちろん警察に連れて行かれます。でもね、「ドウ」といって、細い木を丸く組んで、こっちは広く・こっちは狭くした仕掛けを作って川に入れておく。すると、1年に2・3回は1匹くらいかかることがありました。本当に、たまに1匹くらい獲ってから神様に感謝していただきました。

やっぱりちゃんと囲炉裏の部屋に行って、そこでお盆、お膳に載せて、父がなんか言って、それからじゃないと食べませんでした。でもそれは、どういうふうにやったか、何て言っていたのかは覚えていません。川に上っていちばん最初に獲ったサケ。本当に、1年に1回か2回ですね、獲れたのは。常に見回りに来るから、そんなにいつも獲ってはいられない。夜こっそりと獲ったものかもしれないけど。普段、食べる魚というのは、やっぱり漁師さんが獲った海の魚でした。
川サケの頭はチタタㇷ゚(肉や魚を細かく刻んで食べるアイヌ料理)にして、ミッコ(身)は干していました。川のサケと海のサケは、食べても、そんなに味に差があったという記憶はありません。

チタタㇷ゚は子どもの頃に母が作ってくれたのを見ていて、食べたこともあります。チタタㇷ゚というのは、「わたしたちが叩くもの」という意味です。毎年、秋の初めに1・2回、つくってくれました。
チタタㇷ゚には、いろいろなつくり方があります。わたしは、サケの頭がまるまる1個あっても、氷頭(ひず:サケの頭部から鼻先にかけての軟骨)の部分だけを使い、白子は入れすぎるとドロドロするので、1本だけ使います。あとは、ネギと昆布を入れます。母は揚げた昆布を使っていましたが、もともとは焼いた昆布を使っていました。味付けは、味をみながら、塩を足すだけです。わたしは、このやり方を「様似のチタタㇷ゚のつくり方」とは言いません。あくまでも「母・岡本ユミのつくり方」です。他の家では、頭一つにして、白子を5本くらい入れるところもあります。料理はやはり「つくる人」によって違います。
サケ以外でチタタㇷ゚は、あまりやっていません。秋の初めの頃、1、2回はつくりましたが、他の魚では作りませんでした。身は串に刺して焼いて食べました。白子以外の内臓は、塩辛にしていました。
チタタㇷ゚は、様似の岡田で育った母の料理なので、それを伝えるために、いろいろなところで料理をしています。やはりアイヌのわたしが伝えなければ残っていかないので、そういう思いでやっています。母が誰に教わったのかを聞いたことがないので、分かりません。孫ばあさんと一緒にいたから覚えたのか、そこは分かりません。
この間、お友だちに呼ばれて、「若者が4人集まっているから、チタタㇷ゚作って」といわれました。男性3人と女性1人が、ずーっと「チタタㇷ゚・チタタㇷ゚」って言いながらつくるの。アイヌは「チタタㇷ゚」と言いながらつくることはしないので、「なんで?」と訊いたら「だって、ゴールデンカムイ(漫画)でやっているもん」って。ゴールデンカムイの中で「ヒンナ」を「美味しい」という意味で使っているけど、様似では「ケラアン」といいます。「ヒンナ」は「ありがとう」という意味で、おばあちゃんたちはよく使っていました。その子たち、ずっと「チタタㇷ゚、チタタㇷ゚」と言っていて、面白いの。一緒にやって楽しかったですよ。
コンブシト(昆布のたれをからめた団子)は、小さい頃は食べた記憶はなくてね。兄たちは知っているので、母も昔は作っていたようですが、畑仕事が忙しかったり、歳を取ったりして作らなくなったのだと思います。
幌別の博物館(浦河町立郷土博物館)でイチャルパ(先祖供養)をするために母が料理を作ったのですが、コンブシトを作って、チポロシト(イクラのたれをからめた団子)を作って、ヤマウ(冷やし汁)を作って、ラタㇱケㇷ゚(野菜の混ぜ煮)を作ってと、だいぶ作ったんです。その時に、わたしも一緒にやったから覚えました。自分で作って食べてみたり、兄たちにこれでいいかって食べてもらったり、そうやってアイヌ料理を身につけてきました。
エンルム岬に昆布やワカメを採りに行きますが、去年の春に行ってみたら、赤潮にやられてしまって全然なかった。前は一面にあったのですが、今はない。だから、ワカメのヤマウも作れない。買ったものしか使えません。カレイやアブラガレイ、サケの干したものを入れたヤマウも美味しかったです。でも、今は手に入らない。アブラガレイも、干したのがいちばん美味しいですね。助宗ダラも干していました。浜の漁師の人を手伝って、網から外しているうちに、なにか自分の欲しいものあったら、よけてもいいんだって。それでたまにかかっているアブラガレイをもらってきたみたいですね。


子ども時代の遊びと森
小学校は、様似の町の学校に通っていました。通学区域は3キロ以内と決まっているでしょう。うちの近所の3人くらいは、様似の学校だから、一緒に岡田から通っていました。アイヌの遊びを特別にしたという経験はないけれど、何かこう、足を組む遊び1はやったね。それは、アイヌの本に出ていたこともあって、これってアイヌの遊びだったのって、びっくりしたの。和人の子どももみんな一緒にやっていたから。
あと、近所の子どもと遊んで思い出すのは、春にドングイ(オオイタドリ)が出てくると、節と節を切るんですよ。両端に少し切れ目入れて、切り抜いて取ると、真ん中だけは残って手桶になる。その手桶で水を汲んで遊んだ記憶があります。
森には、あまり入りませんでした。やっぱり森の中に入るのは怖いというか。それでも、秋のブドウの頃は行きました。秋は、田んぼや畑が忙しいから手伝いをするけれど、それでもたまに遊べる時があって、近所の子どもたちとブドウを見に行こうと。昔のブドウは、すごく粒も良くて大きな房になっていました。今思い出してみると、売っているブドウみたいだったなって思います。今はほんとに粒も小さいし、そんなにいっぱい粒がない。昔のブドウは、粒いっぱいついていたと思います。
栗はあまりなかったし、知っている家にあれば、秋に1回くらいは拾わせてもらうくらいでしたね。栗は普通に茹でて食べました。あとは、ちょっと傷をつけて、灰の中に埋めて、上に熾(おき)を置いておくんですよ。蒸し焼きみたいにして剥いて食べました。今みたいに、栗ご飯とか知らないので。

アイヌ語のことー「和人のみなさんも、そういう気持ちを分かっていただけると嬉しい」
岡田コタンに昔、一人暮らしをしている「エカシのババ」というアイヌ語だけを話す人がいました。高齢で動けなくなったので、わたしの母が毎日行って、おかゆをつくったり、みそ汁をつくったりして面倒を見ていました。
母が行けない時は、わたしが代わりに行っていました。ババは膝を立てて、膝の上に手を置いて、アイヌの女性の座り方で座るんです。おかゆを食べさせて、食べている間にニワトリの世話をしたり、湧水から飲み水を汲んできたり、洗濯したりして、食べ終わったら布団を敷いて、おまるをつかっておしっこをしてもらう。座ったきりで動けないから、脇の下に手を入れて、おまるに座らせる。子どもだから持ち上げるだけで精いっぱい。それで、お布団で寝かせる。
会った時は、ニコっと笑ってくれるけれど、一切喋らない。わたしが帰る時に「パセノポ(ボ)イヤイライケレ」って言ってくれるの。家に帰って、聞いたらね「(お前が来てくれて)とってもありがたい」って言っているんだよ、と教えてもらいました。それがアイヌ語との出会いです。

(2025年1月)
今は、アイヌ語がたくさんあるでしょう。お店の名前も、アイヌ語でつけていますよね。誰に断ってアイヌ語つけたの?なんて思うことがありますけどね。「特急カムイ」というのもありますが、カムイというのは神様のことで、熊のことは「キムンカムイ」といいます。だから、アイヌでも、畏れ多くて、簡単にカムイなんて口に出して言えません。和人のみなさんも、そういう気持ちを分かっていただけると嬉しいです。
言葉の問題というのは大変難しくて、わたしたちが子どもの頃は、親たちはすべて日本語を使っていましたし、子どもには一切アイヌ語を教えませんでした。でも、子どもに聞かせたくないことは、こっそりと夫婦だけでアイヌ語で話していました。お年寄りが来た時は、アイヌ語を使うこともありましたし、聞けば意味を教えてくれることはあったので、少しは分かります。父親も母親も、アイヌ語は分かっていたと思います。
いろいろな先生たちが聞き取りに来て、アイヌ語のテープをもらいました。でも、それはわたしが60歳になってから。もう覚えられません。子どもに教えたくても、親から教えてもらっていないので、教えるということはありませんでした。様似でアイヌ語教室があったので、子どもたちは通っていました。今は、子どもたちは2人とも働いているので、教室に行く時間もなくて、アイヌのことは何もしていません。わたしがアイヌのことをしているのは知っているけれども、何も言いません。
父のお墓と死者の国
父の葬式は、普通の禅宗でした。山寺さんというお寺さんの檀家でしたから。父が亡くなった頃でも、50年くらいの檀家だといっていました。早くから一応、檀家にはなっていたので、父の葬式もお寺さんでやってくれました。アイヌプリ(アイヌ式)でやれる人が誰もいなかったからですが、一部、少しだけアイヌプリが入っていたと思います。
というのも、墓に行く時に、何回か、なんかクワ(墓標)を建てて休んだりしながら行ったんです。それで、先におじさんたちが何人か行って、穴を掘っていてくれて、そこに下ろす時も、両側から紐をかけて引っ張って父を下ろし、それで、ヨシだか何だかを埋めて、父を埋めてからもヨシか何かを立てていました。空気穴だか何か、それこそ、ポンノポンノ(少し)のアイヌプリが入った。火葬場もなかったから、土葬でした。

(2025年1月)
父の墓は、アイヌの墓標でした。そこだけ別にありました。和人の人の墓とは別で、だからそこに入っているんです。2010年くらいまでは、お墓に行くと結構、人がいて、「いやあ、しばらくだね」とか、そういう会話がありましたが、今はもう誰も行っていません。だから、お墓に行くと、もう草ぼうぼうで、クワはもうありません。わたしの親のものも、この10年前まではありましたが、その後、だんだん倒れて、去年になったら、もう倒れたのもなかった。だから、もう朽ち果ててしまったんだなぁと思って。仕方がないよね。そうやって、みんな、ちゃんと行くところに行ってしまったんだろうなって思います。
死者の国の話は、あまり聞いたことがありません。様似にも入り口があるいう話は聞いたことがあります。鵜苫(うとま)と様似の間にトンネルがあるでしょう。そこに磯があって、アフンチャル(死者の国の入り口)っていうの。そこは、はまったら出てくることができないし、助からない。だから、そこのものは取りに行くなって、あの神様の磯の物を取って食べてはならないということは、親たちが言っていました。昭和40年代だったかな、岡田のおじさんがワカメ取りに行ったかして、そこにはまって亡くなったと。なんかそこは入ったら、もう出て来られないんだって。波に引っ張られて入るんでしょう、きっと。
(まとめ:マイリアルビジョン、八木亜紀子)
- ア・チキリ・テㇾケ(足引っ掛け)は数人で足を組み、はねる遊びです。数人が後ろ向きになって片足を組み、もう一方の足ではねて引っ張り合いながらぐるぐる回ります。3人以上で遊びます。(参考:「アイヌ生活文化再現マニュアル ヘカッタラ シノッ【子どもたちの遊び】」アイヌ文化振興・研究推進機構、2012年 https://www.ff-ainu.or.jp/manual/files/2012_23.pdf) ↩︎