メンバー:貝澤零、八重樫志仁
場所:様似町公民館
メンバー:八重樫志仁(聞き手)、講座参加者
場所:さっぽろ自由学校「遊」会議室
※遊の講座「住民族の森川海に関する権利3―川とサケとアイヌ民族」内でお話をうかがいました。
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
- 掲載内容は2025年1月現在のものです。
岡田コタンでの暮らし
生まれは1942(昭和17)年、様似(さまに)町の岡田コタン(集落・村)で生まれ育ちました。わたしは「伝承者」といわれますが、自分では「そうなのかな?」と思うことがあります。というのも、わたしが子どもの頃、親たちは和人と同じような生活をしていました。育った村にも、チセ(アイヌの伝統的な家)はなく、わたしは2階建ての家で育ち、チセで育ったわけではありません。でも、母(岡本ユミ)は季節の折々にアイヌ料理を作ってくれて、父(岡本総吉)は時々、炉(いろり)でカムイノミ(儀式)をしていました。炉にはイナウ(木幣)も立ててありましたよ。
わたしは13人きょうだいの13番目で、両親が歳を取ってからの子どもですから、祖父母はもういませんでした。母がわたしを産んだのが47歳で、父は母より9歳上だったので、けっこうな歳でした。
わたしの家は川のそばにあって、岡田コタンに入る最初の家でした。だから、様似の町から来る人も、町に用足しに行って戻ってくる人もみんな、うちに寄って休んでいくんです。ジャガイモでも炊いたら、寄った人と一緒にみんなで鍋を囲んで食べて、そういう暮らしでした。それが、1965(昭和40)年くらいに、堤防を造るために立ち退きとなり、うちは上(様似川の川上)の方に移ったんです。最初はずっと下(川下)の方に住んでいて、まあ、本当にたくさん人の来る家でした。


岡田のコタンは、40軒ほどありましたが、30軒くらいはアイヌの家でした。1955(昭和30)年頃だからアイヌ語はもう使っていませんでしたが、話をする時に、単語が1つ、2つ入る。わたしが子どもの頃は、明治生まれの入れ墨1をしていたおばあちゃんもいました。でも、そのおばあちゃんは、町に行く時は、白い風呂敷を三角に折って被り、目だけ出して、入れ墨を隠していました。
母は、親が早く亡くなって、町にいるおばあちゃん(熊谷カネさんの曾祖母)に育てられました。おばあちゃんは「これからはな、そんな、口なんか染めることはない。だから、お前もするな」と言って、母は染めていませんでしたが、母と同年代の人で、口を染めている人は4〜5人いました。母は入れ墨もしていませんでしたし、アイヌ語も使ってはダメだと禁止されていたから、話さないようにしていました。小さい時は、そういう意味とか、何もわからないから、口を染めたおばあちゃんは来るけど、何かなって思うこともなく、普通に、冬であればジャガイモを茹でて、みんなで一緒に食べる、そういう暮らしでした。
岡田には、水道がなかったのですが、山の斜面に石がいっぱいあるところがあって、そこから湧き水が出ていました。湧き水はうちではヤマッカと言っていましたが、冷たくて、すごくいい水でした。でも、斜面をコンクリート工事で固めてしまい、土管がついて、そこから水が出るようになりました。今でも、その水は飲めます。知らない人は「気持ち悪い」っていうけど、飲めるんですよ。

「熊は生涯で歳の数より獲った」マタギのお父さん
わたしの父はマタギでした。様似の奥に新富というところがあって、昔はその辺りに30戸ぐらいの農家があったのですが、そこに熊が出て畑やお墓が荒らされると、「岡本さん、来てくれやー」と呼びに来るんです。昔は土葬だったから、熊がお墓を荒らしに来ることもあったんです。そうすると、父は自分の家の仕事は放っておいて、10㎞くらい離れた山奥に鉄砲を担いで飛んで行きます。
新富には、小さなチセ(小屋)が建ててあり、そこで何日も過ごして熊を獲るのです。小屋といっても草屋根で、壁は板壁。その小さい小屋で寝泊まりし、荒らされた畑を見回っていたみたいです。ですから、父は春から秋までほとんど家にいませんでした。「時々なんか持ってきてくれ」というので、わたしと母親が歩いてお米や味噌やらを背負って、父が寝泊りしている小屋に持って行くのです。
父親は「熊は生涯で歳の数より獲った」と言っていたけれど、74歳で亡くなったので、そのくらいの数は獲ったでしょう。100頭も獲ったと言う人もいます。それだけ、熊がたくさんいたんでしょうね。後から聞いた話だと、木の上で熊が出てくるのを見張っていると、目が光るから、わかるんだって。でも、やっぱり熊の方も、木の上にいる人は匂いでわかるから、行ってしまったりする。そうやって、何日もかかって、その熊を獲っていました。
父は熊を獲ると、馬車に積んでくるので、コタン中の人が集まります。どうやって知ったのか、町の方からも人がいっぱい来て、解体するのを手伝って、肉をもらって帰るんです。そういうことだから、「家で食べる肉もろくになかった」と母がよく言っていました。少し肉がついている骨をストーブで長時間炊いて、今でいう「ポネオハウ(骨の汁物)」にしました。母は、ネギを入れるくらいで、玉ねぎが手に入るようになってからは、玉ねぎを入れていました。骨の髄は脂ですから、ひと口食べたら「もういい」って感じです。そんな暮らしをしていました。
熊を獲ったら、毛皮とかは売れたんじゃないかな。あと、内臓で、薬になるの(熊の胆)があるでしょう。そういうものを売ったりしていたのでないでしょうか。熊を獲るのは、決してお金をもらって商売にしていたってわけではありません。毛皮だって、そんなに何十枚も家にあったわけでないし、人にあげたりしていました。
うちに熊の毛皮があるのは見たことはあります。小学3年生くらいの時、アメリカの人が来たんです。陸海空の総司令官だとかいう、リッジウェイっていう人だった。その人が「お忍び」で、熊撃ちだかシカ撃ちをしたいということで来たんです。わたしの父が案内して、新富の方に行きましたが、残念ながら、獲れなかった。それで、父が持っていた毛皮をリッジウェイさんにプレゼントして。その後は、毛皮を見ることはありませんでした。
毛皮は、うちでは敷物として使っていません。でも、買っていった和人の人は敷物にしたみたいですね。やっぱり熊は、あくまでもカムイ(神)だから。敷いて座るようなことはしていなかった。上着にして着ることもありませんでした。父はすごくおしゃれな人でした。普段、山に行く時はどうでもいい格好だったけど、町に降りるとなるとビシッと決めて歩く人だったんです。だから、シカ皮をなめして作ってもらった上着を着て、ソフト帽をかぶって、冬だったらマントを着て歩く。シカはそうやって使っていたけど、熊を使っているのは見たことがありません。
アイヌの風習とシサム(和人)の風習
父がしばらく家にいる時は、必ずストーブから熾きを出して火の神様にお祈りをしていたみたいです。子どもの頃はわかりませんでしたが、中学生になってから、「何て言っているの?」と聞いてみると、「天におられる神様に、この村に悪いものが入ってこないように、ちゃんと見ていてくれとお願いしているんだ」と初めて教えてもらいました。それをアイヌ語で、どう言ったのかはわかりません。だけど、そうやって、コップ一杯の焼酎を飲む時でも、必ずお祈りをしていました。
当時、2階建ての家は、うちくらいだったのではないでしょうか。大きい家でしたが、父が自分で建てたそうです。2階は、お客さんが泊まる時の布団などを積んで、ゴザをかぶせてあったり、シカの肉やカンカンを干してあったり。カンカンというのはアイヌ語で腸のことですが、母親がきれいに洗って2階のサオに干します。それでたまに、父親から「カンカン切ってきてくれ」といわれると、わたしは身軽だから梯子で登っていって、干してある腸を10cmもないくらいに切ってくる。父親はそれを火箸で炙って、ちびりちびりと美味しそうに食べていました。
一緒に食べたことはなくて、母親が食べているのを見たことはありません。父だけが食べていました。フイベ(刺身で食べる肝臓)も父はたまに食べていましたが、母親は滅多に食べませんでした。サケのルイベ(凍らせた魚や肉を薄切りにしたもの)もやっていました。火でさっと炙って食べるのも見たことがあります。
我が親ながらすごいなと思うのは、アイヌの風習もちゃんと守っていたし、カムイノミ(儀式)もちゃんとできる人でした。でもね、シサム(和人)の風習も全部やっていた。お正月になったら、神棚も祀っていたし、節分はやるし、祭日になると、日の丸の旗を玄関に掲げてね。そういうことをマメにやっていました。だから、アイヌのことだけでなく、両方の文化に跨っていた人だったなと、大きくなってからは、そう思えますが、小さい時はね、何がなんだか、わからなかったですね。
狩人だから、家にヌサ(祭壇)はありましたよ。カムイ(熊)の頭の骨がついていて、小さい頃は怖くてヌサの近くに行くことはできませんでした。ある日、ヌサの近くの木に登って、親が帰ってくるのを待っていたの。そうしたら、手に冷たいものが触ったのでびっくりして、なにかと思ったらヘビだったの。今思えば、そのヘビはヌサを守ってくれていたんだと思うんだ。

動物たち
動物はいっぱい飼っていました。ウマ、ウシ、ブタ、ヤギ、メンヨウ(綿羊)、ニワトリ、イヌ、ネコ。9種類いたのを覚えているけど、もう一つは忘れてしまった。
ブタは暮れになると、いつの間にかいなかったです。普段は食用にすることはなくて、誰か商売をやっている人がいて、そこへ連れていって、家では足1本だけぶら下がっていました。シカは、川なりに下って来るのを何回も見ました。シカを獲ったっていうと、みんな集まってくる。昔だから、肉は今みたいにいつでも買って食べられるわけでないからね。だいたい肉屋さんも、子どもの頃はろくになかった。だからもう、熊を獲った、シカを獲ったといったら、人がいっぱい集まってきて、皆さんに分けてあげて自分の家の肉がなくなるくらいだったと、母親は言っています。だから、そんなにシカ肉を食べた記憶はありません。

小さい頃は兄の幸七(こうしち)さんと一緒に暮らしていたんです。あの人は何でも知っていて、マメなの。山に行って、ウサギの罠をかけていたこともあるし。そのウサギを獲ってきて、どうしたかは見たことない。確か、学校に行っている間に処理したんでしょう、たぶん。見せないようにして。でも、そういうこともできたし、本当にマメで、何でもやっていました。あと、ヤマドリは、父親が獲ってきて食べましたね。スズメは食べなかった。そういう細かいものは獲らなかった。かえって、和人の人の方がスズメを食べていました。和人の奥さんが霞網で獲って、蒸して焼いて食べて美味しかったと言っていたことがありました。
ニワトリも飼っていましたが、卵ですね。年取ったニワトリは、肉も食べました。メンヨウ(綿羊)は、毛を刈って農協に売りに出していました。肉は食べたことないです。牛乳も、雪印かどこかに出していました。牛乳缶に入れて出しておけば、毎日集めに来る。それで、1年に1度だけ、今でいうお歳暮にバターをもらいました。だから小さい頃からバターは食べていました。中学生になってから、わたしも乳搾りをして、ウシは自分たちで肉にして食べることはしませんでした。
ヤギもいました。わたしは母親が年取ってから生まれた13番目の子だから、お乳が出なくて本当に苦労したそうです。それで、お米をつぶして粉にして、お粥みたいに炊いて、その汁だけ飲ませたり、ヤギの乳を飲んだりしていたって、そう言っていました。
山菜採りと野菜、薬草のはなし
うちの親は、あまり山に入って山菜を採ることはありませんでした。でも、ウバユリは1回だけ、わたしがまだ小学1年か2年生の頃、馬車で岡田の親しい人と何人かで行って、みんなで採ったみたいなのね。それを川で洗っていたのを見ました。なにせ当時は、学校に行っているから、全部を見ていたわけではありません。川で洗っているところは見たけれど、他はどうやったか見ていません。でも、その時、ウバユリを食べた記憶もないので、食べたのはもっと大きくなってからだと思います。
昔は山菜をいっぱい干していたみたいだけれど、わたしが育った頃は忙しいから、そんなに干したものを作ってない。ゼンマイは、さっと茹でたのをパラッとムシロに干したのは見たことあるけど、そんなに山菜を多く採って蓄えるという暇もなかったと思います。
野菜はすべて作っていたから、買うものはほとんどなかったです。野菜からスイカ、カボチャ、何でも作っていました。昔は山を持っていたのですが、水田が欲しくて、山を売ったそうです。わたしが小学5・6年生の頃から、田んぼで米を作るようになりました。
母は胃があまり良くなくて、1年に1回くらい胃病みする。だから、いろんな薬草を採っていました。昔は観音山に薬草がいっぱいあって、今はエンルム岬の上にいっぱいあります。
キキンニ(エゾノウワミズザクラ)の皮やいろいろなものを飲んでいました。それと、シダの葉っぱ。母に連れていかれて、あれは「血吐く病に効くものだから、覚えておきなさいよ」と教えてくれました。アイヌ語の名前はわかりません。あと、正式名称はわかりませんが、オトコヤマというのがあって、それはお風呂に入れるといいんだそうです。神経痛とかね。そのオトコヤマも、崖みたいな岩場に生える。あまり背は高くない。わたしは新富の行き帰りに、「これ、オトコヤマといって、風呂に入れているんだよ」と教えてもらった。その時は、葉っぱが赤く紅葉していた頃だから、秋で、実がなるみたいだけど、覚えていない。今、オトコヤマといっても、誰もわからなくて。
ヨモギは、いろいろ使っていました。兄が風邪を引き、長引いてなかなか治らなかったことがあって、母親から「ちょっと来てくれ」と言われて行きました。行ったらね、大きい鍋にお湯を沸かしていて、兄が丹前かなんかを頭まで被って、身を屈めて乗り出すようにして。しばらくしたら、ものすごい汗が流れるくらいいっぱい出てくる。それで、汗をきれいに拭き取って寝かせてやったら、治ったんです。ヨモギを入れた鍋を沸かしたお湯だったんです。
ある時、小学3年生か4年生くらいだったかな。日曜日に母について畑に行って、草取りか何かをしていたんです。そうしたら、突然、気分が悪くなって、顔も真っ青になっていたんだって。それを見た母が、すぐに道端に生えていたヨモギを折って、わたしの体にバシバシ打ちつけながら、何か言ったんですよ。そうしたら、すぐに気分が治って、何でもなくなり、また畑に行って、晩まで仕事をしましたが、母親は「多分、お盆が近いから、なんか悪いものに憑かれたんだろう」と言いました。でも、本当のところはわかりません。とげのある植物も効く。それが一番いいんでしょう。でも、道端にいつもあるわけじゃないから、母はすぐそこにあったヨモギを掴んでやってくれたんだと思います。

もしかしたら、トゥス(占い、呪術)か何かとは思うけど、その時、打ち付けながら、何て言っていたのかは分かりません。うちの母親は占いをする人ではなかったです。ただある時、父親が大事にしていた玉みたいのを出してきて、母親に握らせて何か聞いていたのね。母親は答えていたから、占いの一種なのかなって。でも、1回しか見たことないし、1回しかやっていない。いつもやっていたことではありません。わたしの見ていないところでやっていたかどうかは知りません。
(まとめ:マイリアルビジョン、八木亜紀子)
- 入れ墨:アイヌ民族の女性が口のまわりと手の甲からひじにかけて施した入れ墨のこと。アイヌ語でシヌイェという。入れ墨をしなければ周囲から一人前の女性として認められず、結婚することも儀式に参加することもできなかった。1871年(明治4年)に開拓使が布達を出して禁止した。(参考:『増補・改訂 アイヌ文化の基礎知識』アイヌ民族博物館監修、2018年;『アイヌプリ―アイヌの心をつなぐ―』アイヌ文化振興・研究推進機構、2012年 https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_bunka/files/ainupuri.pdf) ↩︎