12/1(日)ドキュメンタリー上映会&トーク「カムイチェプ サケ漁と先住権」

川上裕子さんに聞く【後編】

聞き取り1回目:2023年10月30日(月)
メンバー:川上恵、川合蘭、八木亜紀子

聞き取り2回目:2024年5月23日(木)
井上千晴、川上恵、川合蘭、八木亜紀子

聞き取り3回目:2024年6月6日(木)
井上千晴、川上恵、川合蘭、八木亜紀子

場所1・3回目:ご自宅(札幌)、2回目:カフェ(札幌)

  • 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
  • アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
  • アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
  • 掲載内容は2024年11月現在のものです。
もくじ

イオマンテのはなし

イオマンテ(熊の霊送りの儀式)を観たのは、わたしが最後の生き証人だと思ってる。わたしが12歳のときだから…もう65年前に二風谷でイオマンテやったの。今のウレシパ(平取町アイヌ工芸伝承館ウレシパ)があるところでやったんだよ。それが、動物虐待だとかっていって、廃止にされたの。

イオマンテ(イヨマンテ):一般的に「飼い熊の霊送り儀礼」を指す言葉として知られている。春先のヒグマ猟で、母熊と共に生まれたばかりの子熊を手に入れると、人々はカムイから養育を任された名誉あることと考え、授かった子熊を大切に育てた。1~2年ほど飼育した後には、その魂をカムイモシリ(神々の世界)へ送り帰す盛大な儀礼が、集落をあげて営まれてきた。アイヌにとって最も重要な伝統儀礼のひとつ。1955年に北海道知事名の通達により「野蛮な行為」として禁止された。52年後の2007年3月、環境省が「動物を利用した祭礼儀式にあたる」と、法的に問題ないとの見解を示し禁止は撤回された。
参考:公益財団法人 アイヌ民族文化財団 https://www.ff-ainu.or.jp/manual/files/2005_12.pdf

映像だと矢を打つ場面は出てこないけど、わたしはもう、熊のイオマンテもモユク(タヌキ)のイオマンテも最初から最後まで全部見てる。花矢は仕切る人(祭祀)の息子が熊に打つの。おとなしくして、黙っている熊には矢は立てられない。だから、クマザサが付いた棒で、熊をちょちょちょってやって怒らせる。走り回って、暴れているところを打つの。

二風谷でやったときは、(萱野茂さんの)息子が花矢を打って、とどめは茂さんが打った。映像ではその場面は映してないよ。熊が倒れたら、動脈を切って、大鍋にこう、頭、首を置くと鍋に全部血が落ちる。鍋いっぱいに。その血を一滴も無駄にしないように、それをその参加者の人たちに、みんなどんぶりに入れて、全部回し飲みするんだ。わたしね、口の中にまだあるよ、血の味が。生暖かい血の匂いが、思い出したらもう、口の中にまだ残ってるよ。イオマンテのときはみんな鍋とかどんぶりとか入れ物を持ってくる。1頭の熊を20人いれば20人に分けてあげる。そういう風にして村中にみんな1頭の熊のお肉を分け与えるの。

萱野茂(1925年~2006年):アイヌ文化研究者、政治家。北海道平取町二風谷生まれ。アイヌ民具・民話の収集・記録に力を注ぎ、アイヌ民族初の国会議員としてアイヌ文化振興法の制定に貢献した。

熊の首を落としたり、鍋に血を入れてるところとかの映像はないでしょ。でも、わたしは全部見た。なぜかというと、うちのお母さんと貝澤ハギさん(前出)が東の窓からその熊の頭を落としたやつを、こう台に乗せて、熊の神様は一番偉いから、炉縁の前にこう置くの。東から日が昇ってくるから、東の窓っていたら、神様の出入りする窓って言われてるの。太陽は神様だと思ってたの。

女性2人、一番年配の人が座って、2本だけで編んだ細いサパンペ(冠)をしたうちの母親と貝澤ハギさんがちゃんと丁寧に受け取って、その炉縁の前において、それからカムイノミ(儀式)が始まる。その後、みんなでお食事して、歌や踊り、お祝いの踊りする。で、終わったら、今度は外の祭壇があって、イナウ(御幣)を12本垂らす。それでその前に熊の頭を乗せて、その下に衛門掛けのようにして、着物を着せるようにして熊に着物を着せて、頭にサパンペしてあげる。それで、しゃれこうべは肉とかつけたままそのまましばらく飾っとく。

裕子さんのお話を聞いてみよう「イオマンテのときはみんな鍋とかどんぶりとか入れ物を持ってくる。1頭の熊を20人いれば20人に分けてあげる。そういう風にして村中にみんな1頭の熊のお肉を分け与えるの」

その時が、イオマンテを観た最初で最後だったの。熊が獲れた時にしかやらないから。穴熊猟で親熊を獲ると、子グマだけ残るでしょ。その子グマを持って帰って、おばさんが親代わりに自分のおっぱいを飲ませて育てる。大きくなったらもう危険だから「そろそろ親の元に返しましょう」いうことで、三日三晩、お祈りをして、ごちそうあげて、それで神の国に送るんだ。

だから、本当にただ一頭をこうやって(イオマンテ)するんだけど、残酷だっていったら残酷だよね。まあ、殺し方が残酷だっていうのか…。

でもね、今、牛一頭殺すのにも、誰もお祈りしないよ。牛を並べといて、首だけ出して、のこぎりみたいなやつでバタバタバタって、首をボトンボトンボトンって落としていくんだから。あれの方が残酷ではないらしい。

やっぱり「いただく」っていうのはさ、一番の命の絶頂の頂なの。このお寿司も頂なの。「命の頂をいただきます」なの。自分の命につなぐための。熊肉はそうやっていただいていたけど、「残酷すぎる」って、イオマンテは廃止になった。

お寿司をごちそうになりながらお話を聞きました(2023年10月)
裕子さんのお話を聞いてみよう「その時が、イオマンテを観た最初で最後だったの。毎年やってないから。熊を獲った時にしかやらないから。…本当にただ一頭をこうやってするんだけど」

歌と踊り

イオマンテの時は、大人が歌ったり踊ったりするのを見てただけ。だけど、普通に、おばさんたちがうちに遊びに来ると、ホリッパ(踊り)をやるんだ。

うちのお母さんは酒も飲まない人だったけど、お酒の好きなおばさんたちが焼酎の瓶持って遊びに来るの。飲んだら、「おいバッコ、始めるか」ってやるんだわ。バッコというのは「おばちゃん」みたいな意味ね。

うちのお母さんは一緒に遊んであげるのが上手だから「したら始めるべ」って言って、みんなで踊りはじめるんだわ。もう床がドスンドスンって。酔っぱらったばあさんたちが跳ねて歩いてるから、わたしら最初は怖くてさ、部屋で隠れて見てたの。

それが慣れてきたら、「さあ裕子もやれ」って言って。それで、集まりかなんかあるときには、一緒に見よう見まねで踊ったり歌ったり。

ちっちゃい時からそういうのに慣れてきてるから、習ったわけじゃないけど、歌とか踊りとかできるようになったの。

バッコたちの歌を再現してくれました(2024年6月)

学校のこと

子どもの頃はみんな、よそのお家もきっとこうやって暮らしてるんだと思ってたの。みんながアイヌだと思ってたの。自分がアイヌだっていう感覚もなくて、みんな自分とおんなじ人種だと思ってた。

小学校にはたまに和人の子がいて「なんか違うな」って感じはあったけど、うちのお父さんは絶対に、和人とかシャモとは呼ばないで「ニシパさん」って言ってたの。「ニシパさん」というと、「あ、お金持ちの娘さんなんだ」っていう感覚でいたの。うちの父親は絶対にシャモだとか和人とかアイヌとかっていう差別みたいな言葉を使わなかった。役場にいればなおさらのことね。言葉遣いにすごくうるさかった。だから、ニシパっていったら紳士という意味というより、「お金持ち」とか「育ちのいい人」のことだと思ってたの。

小学校はほとんど8割がアイヌの子だから。和人の子はほんとに少ない。それが、中学に入ったら、逆だった。200人くらいいる子の8割が和人なんだ。アイヌは20人もいたかな…。だから、中学に入ってから、アイヌと和人との差別が分かった。小学校のときは、うちの父親が二風谷の人たちの生活面からなにからお手伝いしていたから、「山道の娘」って言ったらどこ行っても大人の人がみんな頭下げてくれてた。それくらい父親は尊敬されていた。

それがもう、中学入ってから、ころって変わった。わたしはそんなにいじめられなかったけど、一緒に行ってたアイヌの子どもたちはいじめられてた。中学校が坂の上なんだ。だから、バス停から降りて15分から20分くらい坂の上登らないといけないんだけど、わたしより先に歩いてた子が泣いてるの。「なした?」て聞くと、上にいる男の子たちがね、「アイヌ来たー!」って言って石をぶつけるの。そうやっていじめられてた。だから「わたし一緒に行くから行こう」って言って「なんでいじめんのさー!この子たちになんか罪あるのかい」って怒鳴ってやった。だから、わたしには逆らう人はいなかったな。

それにニシパの子どもたちが、友だちとして付いてきてくれてたの。その子たちには今でも会ったら、「あ!裕子ちゃん」って感じで付き合ってるよ。

中学校卒業後、散髪屋さんの見習い、観光アイヌ

母親から「女の子でも手に職つけた方がいいよ」って言われて、中学を卒業してすぐに、恵庭(えにわ/二風谷から約80㎞離れた札幌近郊の町)の美容室の見習いに出されたの。春から正月まで住み込みで、その美容室に1年くらい行ってた。中学卒業して初めて都会に出て、知らない子どもたちと3人くらいとそこに住み込みして、散髪屋さんの見習いをしたの。でもね、正月に家に帰ったら里心出しちゃって、「お母さん、もう行きたくない」って言って辞めたの。

その次の年、17歳の時の5月に萱野茂さんが、観光地にアイヌを送る「観光アイヌ」の仕事を始めたの。それに、わたしともう1人ひとつ下の女の子と、おじいさん役のおじさんと、観光アイヌとして二風谷から洞爺湖の昭和新山に送られたの。

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