メンバー:川上恵、川合蘭、八木亜紀子
聞き取り2回目:2024年5月23日(木)
井上千晴、川上恵、川合蘭、八木亜紀子
井上千晴、川上恵、川合蘭、八木亜紀子
場所1・3回目:ご自宅(札幌)、2回目:カフェ(札幌)
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
- 掲載内容は2024年11月現在のものです。
イオマンテのはなし
イオマンテ(熊の霊送りの儀式)を観たのは、わたしが最後の生き証人だと思ってる。わたしが12歳のときだから…もう65年前に二風谷でイオマンテやったの。今のウレシパ(平取町アイヌ工芸伝承館ウレシパ)があるところでやったんだよ。それが、動物虐待だとかっていって、廃止にされたの。
映像だと矢を打つ場面は出てこないけど、わたしはもう、熊のイオマンテもモユク(タヌキ)のイオマンテも最初から最後まで全部見てる。花矢は仕切る人(祭祀)の息子が熊に打つの。おとなしくして、黙っている熊には矢は立てられない。だから、クマザサが付いた棒で、熊をちょちょちょってやって怒らせる。走り回って、暴れているところを打つの。
二風谷でやったときは、(萱野茂さんの)息子が花矢を打って、とどめは茂さんが打った。映像ではその場面は映してないよ。熊が倒れたら、動脈を切って、大鍋にこう、頭、首を置くと鍋に全部血が落ちる。鍋いっぱいに。その血を一滴も無駄にしないように、それをその参加者の人たちに、みんなどんぶりに入れて、全部回し飲みするんだ。わたしね、口の中にまだあるよ、血の味が。生暖かい血の匂いが、思い出したらもう、口の中にまだ残ってるよ。イオマンテのときはみんな鍋とかどんぶりとか入れ物を持ってくる。1頭の熊を20人いれば20人に分けてあげる。そういう風にして村中にみんな1頭の熊のお肉を分け与えるの。
熊の首を落としたり、鍋に血を入れてるところとかの映像はないでしょ。でも、わたしは全部見た。なぜかというと、うちのお母さんと貝澤ハギさん(前出)が東の窓からその熊の頭を落としたやつを、こう台に乗せて、熊の神様は一番偉いから、炉縁の前にこう置くの。東から日が昇ってくるから、東の窓っていたら、神様の出入りする窓って言われてるの。太陽は神様だと思ってたの。
女性2人、一番年配の人が座って、2本だけで編んだ細いサパンペ(冠)をしたうちの母親と貝澤ハギさんがちゃんと丁寧に受け取って、その炉縁の前において、それからカムイノミ(儀式)が始まる。その後、みんなでお食事して、歌や踊り、お祝いの踊りする。で、終わったら、今度は外の祭壇があって、イナウ(御幣)を12本垂らす。それでその前に熊の頭を乗せて、その下に衛門掛けのようにして、着物を着せるようにして熊に着物を着せて、頭にサパンペしてあげる。それで、しゃれこうべは肉とかつけたままそのまましばらく飾っとく。
その時が、イオマンテを観た最初で最後だったの。熊が獲れた時にしかやらないから。穴熊猟で親熊を獲ると、子グマだけ残るでしょ。その子グマを持って帰って、おばさんが親代わりに自分のおっぱいを飲ませて育てる。大きくなったらもう危険だから「そろそろ親の元に返しましょう」いうことで、三日三晩、お祈りをして、ごちそうあげて、それで神の国に送るんだ。
だから、本当にただ一頭をこうやって(イオマンテ)するんだけど、残酷だっていったら残酷だよね。まあ、殺し方が残酷だっていうのか…。
でもね、今、牛一頭殺すのにも、誰もお祈りしないよ。牛を並べといて、首だけ出して、のこぎりみたいなやつでバタバタバタって、首をボトンボトンボトンって落としていくんだから。あれの方が残酷ではないらしい。
やっぱり「いただく」っていうのはさ、一番の命の絶頂の頂なの。このお寿司も頂なの。「命の頂をいただきます」なの。自分の命につなぐための。熊肉はそうやっていただいていたけど、「残酷すぎる」って、イオマンテは廃止になった。
歌と踊り
イオマンテの時は、大人が歌ったり踊ったりするのを見てただけ。だけど、普通に、おばさんたちがうちに遊びに来ると、ホリッパ(踊り)をやるんだ。
うちのお母さんは酒も飲まない人だったけど、お酒の好きなおばさんたちが焼酎の瓶持って遊びに来るの。飲んだら、「おいバッコ、始めるか」ってやるんだわ。バッコというのは「おばちゃん」みたいな意味ね。
うちのお母さんは一緒に遊んであげるのが上手だから「したら始めるべ」って言って、みんなで踊りはじめるんだわ。もう床がドスンドスンって。酔っぱらったばあさんたちが跳ねて歩いてるから、わたしら最初は怖くてさ、部屋で隠れて見てたの。
それが慣れてきたら、「さあ裕子もやれ」って言って。それで、集まりかなんかあるときには、一緒に見よう見まねで踊ったり歌ったり。
ちっちゃい時からそういうのに慣れてきてるから、習ったわけじゃないけど、歌とか踊りとかできるようになったの。
学校のこと
子どもの頃はみんな、よそのお家もきっとこうやって暮らしてるんだと思ってたの。みんながアイヌだと思ってたの。自分がアイヌだっていう感覚もなくて、みんな自分とおんなじ人種だと思ってた。
小学校にはたまに和人の子がいて「なんか違うな」って感じはあったけど、うちのお父さんは絶対に、和人とかシャモとは呼ばないで「ニシパさん」って言ってたの。「ニシパさん」というと、「あ、お金持ちの娘さんなんだ」っていう感覚でいたの。うちの父親は絶対にシャモだとか和人とかアイヌとかっていう差別みたいな言葉を使わなかった。役場にいればなおさらのことね。言葉遣いにすごくうるさかった。だから、ニシパっていったら紳士という意味というより、「お金持ち」とか「育ちのいい人」のことだと思ってたの。
小学校はほとんど8割がアイヌの子だから。和人の子はほんとに少ない。それが、中学に入ったら、逆だった。200人くらいいる子の8割が和人なんだ。アイヌは20人もいたかな…。だから、中学に入ってから、アイヌと和人との差別が分かった。小学校のときは、うちの父親が二風谷の人たちの生活面からなにからお手伝いしていたから、「山道の娘」って言ったらどこ行っても大人の人がみんな頭下げてくれてた。それくらい父親は尊敬されていた。
それがもう、中学入ってから、ころって変わった。わたしはそんなにいじめられなかったけど、一緒に行ってたアイヌの子どもたちはいじめられてた。中学校が坂の上なんだ。だから、バス停から降りて15分から20分くらい坂の上登らないといけないんだけど、わたしより先に歩いてた子が泣いてるの。「なした?」て聞くと、上にいる男の子たちがね、「アイヌ来たー!」って言って石をぶつけるの。そうやっていじめられてた。だから「わたし一緒に行くから行こう」って言って「なんでいじめんのさー!この子たちになんか罪あるのかい」って怒鳴ってやった。だから、わたしには逆らう人はいなかったな。
それにニシパの子どもたちが、友だちとして付いてきてくれてたの。その子たちには今でも会ったら、「あ!裕子ちゃん」って感じで付き合ってるよ。
中学校卒業後、散髪屋さんの見習い、観光アイヌ
母親から「女の子でも手に職つけた方がいいよ」って言われて、中学を卒業してすぐに、恵庭(えにわ/二風谷から約80㎞離れた札幌近郊の町)の美容室の見習いに出されたの。春から正月まで住み込みで、その美容室に1年くらい行ってた。中学卒業して初めて都会に出て、知らない子どもたちと3人くらいとそこに住み込みして、散髪屋さんの見習いをしたの。でもね、正月に家に帰ったら里心出しちゃって、「お母さん、もう行きたくない」って言って辞めたの。
その次の年、17歳の時の5月に萱野茂さんが、観光地にアイヌを送る「観光アイヌ」の仕事を始めたの。それに、わたしともう1人ひとつ下の女の子と、おじいさん役のおじさんと、観光アイヌとして二風谷から洞爺湖の昭和新山に送られたの。
チセを建てて、観光用の民芸品の販売とかをする。お客さんが来たら、歌ったり踊ったりして見せる。それを5月から10月いっぱいまでの半年間やったら二風谷に帰るの。
冬の間は仕事がないから失業保険をかけて行って、12月、1月、2月は失業保険金をもらって編み物の教室に行ってたの。機械式の編み物機が出た頃で、平取に教室ができたから3か月間通って。おかげでね、二風谷の人たちの毛糸の靴下だとかセーターとか編んで内職できたの。
次の年の4月になると今度は登別の熊牧場に行かされた。チセを建てるための萱を背負って1人乗りのリフトに乗って、1日に何十回も往復するの。そこでもまたチセを建てて、昭和新山の時とおんなじ。娘2人とおじいさん役と、チセの中で座ってお話する。お客さんは、「アイヌの家族ってこんなんだ」なんて、本物だと思って見てる。決まった時間になったら外に出て、観光客の前で歌ったり踊ったり。
17歳とか18歳だったし、もう嫌だと思った。昔、パンダが初めて日本に来た時と同じさ。その女の子と、そのおじさんと、わたしが踊ってるでしょ?それを周りにいるみんなシャモの観光客とか、修学旅行生たちが見るの。指さして「あれがアイヌの娘だ」って、全部聞こえるんだ。ほんとに見世物。もう嫌で嫌で。だから、もう絶対こんなものしたくないと思ったよ。それで、わたしは次の年から行かなかったの。大阪に逃げたの。
そしたら、わたしの穴埋めがいないから、うちの母親が代わりに登別に送られたんだ。それがある時、リフトに乗ろうとしたお母さんの顔面にリフトが当たっちゃって、目の血管が切れる大けがをしたの。入院したりもしたけど、その登別の仕事が終わったら、お母さんは弟子屈(てしかが)と美幌峠(びほろとうげ)にも観光アイヌの仕事に行ってた。そこで、帯広のアイヌの人と二風谷のアイヌの人が一緒になって知り合うことになったらしい。わたしも心配で、一度大阪から会いに行ったことあるんだ。その時は元気だったけど、でもだんだんと目が見えなくなってきて、75歳の頃に両目を失明してしまったの。
大阪、名古屋での20年間を経て北海道へ戻る
大阪と名古屋では飲食店をやったりして、もう死にもの狂いで働いてた。でも楽しかった。その頃はアイヌと会う機会も無かったし、アイヌのことを考えることも全然なかった。
大阪で商売してたときは、わたしは隠さないでアイヌだって言ってたよ。お客さんが来てわたしの顔見たら「ママ、北海道か?沖縄か?」って聞くの。「北海道だよ」っつったら「ママもアイヌか」ってなるから、「そうだよ」って言ってた。ただ、その後が悪いのよ。アイヌはまだ未だに木の上で熊と暮らしてる、洞穴で熊と一緒に暮らしてる、そういう感覚なのさ。もう50も60にもなった「おっさん」がそう言うんだよ。恥ずかしいなと思うよ。呆れて腹が立つから「そうだよ」って言ってやった。
わたしが北海道に帰ってくるきっかけになったのは、ある有名な霊媒師さんなの。わたしが店やって12年目に和歌山の友だちが突然、うちの店に連れて来たの。わたしはその人を知らなかったんだけど、わたしがカウンターの中にいて、焼きそばか何か料理作ってたら、そのおばさん(霊媒師)がずっとわたしの顔眺めてんの。で、「あんたね、ここにいる人じゃない」って、突然わたしに言ったの。それで、「あんたはね、親の跡を継ぐ人だ」って言われた。
わたしは「親の跡って、家には兄貴がたくさんいて、跡を継ぐきょうだいはたくさんいるんだよ。なんでわたしが親の跡を継ぐの。継ぐもんなんかなんもないよ」って言ったの。でも、「いや、あなたはここにいてはいけない、田舎に帰りなさい」って言うの。わたしは信用してなかったよ。
だけど、お母さんの目のことも心配だったし、いろいろあって、3年間のつもりで友だちに店を預けて42歳の時に北海道に帰ったの。アイヌのことが何もない世界に22年間もいたら、もう文化もなにかも無くなっちゃったと思ってたし、関係ないと思ってたの。みんなも忘れて、なんもやってないかなと思ってたら、「ウタリ協会(現:アイヌ協会)っていうのがあるから入らないかい」って兄貴に言われて。ええっ!と思ったよ。ぞっとしたわ。「嫌だよ」って言って入らなかった。北海道に来てから10年くらいはなにもしなかった。
そしたら、歌と踊りを伝承してる「ウポポ保存会」っていうのもあるっていうの。わたしは何もしないでいたんだけど、うちの子どもたちは違ったの。その頃、二風谷のおばさん(山道康子:前出)が20人くらいの子どもたちを養女や養子にして暮らしていたんだけど、その子たちが土曜日の夜になると、アイヌの歌と踊りの練習するわけ。だから、毎週土曜日になると、子どもたちが「お母さん、二風谷行きたい、二風谷行きたい」って。学校でやらない歌や踊りをみんなでやるから楽しいよね。だから、毎週土曜日に付いていったけど、わたしは座って黙って見てた。
そのうちに子どもたちの方が歌や踊り覚えちゃって、「ウポポ保存会に入りたい」って言いだして。保存会は子どもたちだけで入れないから仕方なくわたしも入った。それに誘われて何十年かやったけど、もうやりたくない。20年やったから20年休むわ(笑)。
刺繍は今も続けているけど、これは仕事で卸しをやってるから仕方ない。アイヌやってるから。アイヌやめたけど、アイヌやってる。
刺繍のこと「自分のルーツを見たいと思うの」
子どもの頃はアットゥシは織ったり、ガマ編みしたりとかはしていたけど、刺繍はあんまりやらなくて、ただ見てるだけ。あんまりやりたくなかったの。
だけど、北海道に帰ってきて札幌のうちに姉が子どもたちを連れて遊びに来て、寝泊まりしてたの。それで、姉は子どもたちを寝かしてからずっと刺繍やってんの。わたしは嫌だから、「もうお姉ちゃん止めて。わたしの前でそんなことすんのやめてよ」って言ったら「いや~、だってヒロ(裕子)、着物仕上げて、売らないと子どもらの米買えないもの」って。「そんだらその着物いつまでに仕上げるの」って言ったら、「今週中に納めないと、米買うお金ない」って言うから…。それでまた、マタンプシ(鉢巻)だとか、なんか知らんけどいっぱいも持ってきてたんだわ。ほんとは、わたしにやらせるために持ってきたんでないのか(笑)。
もう見るに見かねて「どれ、一枚だけしたげるわ」って言って、それに手を出したのが、もう、人生の終わり(笑)。一枚仕上げたら、「またこれも、ヒロして~」っつって持ってくるでしょ。だからわたしは仕事から帰ってきて、そいでまたそれやる。もうね、それでね「染まっちゃった」よ。ほんとはやりたくなかったよ。
わたし今、刺繍の教室が6か所あるんだけど、機動訓練の講師の免許がないと教室を持てないの。1週間、朝9時から夕方5時まで毎日弁当持って勉強に行って、52歳のとき(2003年)に講師の免許を取ったの。15年の経験がないと試験を受けられない。試験を受けるにはお金もかかるけど、やっぱり値打ちがある。おかげでわたしはそれで生きてるもの。
58歳になってから教室を持とうと思ってはじめたの。だから今17年間同じところでずっとやってる。もう70歳になったから、そろそろまた何かに挑戦しなきゃと思ってる。わたしは歌や踊りよりも自分のルーツを見たいと思うの。それで自分で自分のことを勉強しているの。
そうそう、霊媒師さんが言った「後を継ぐ人」っていうのはね、本当に私のことだったの。今までずっと信じられなかったんだけど、今年弟が亡くなって私が本家を守ることになった。あの霊媒師さんには40年も先のことが見えていたんだね。
(まとめ:川合蘭、八木亜紀子)