メンバー:川上恵、川合蘭、八木亜紀子
聞き取り2回目:2024年5月23日(木)
井上千晴、川上恵、川合蘭、八木亜紀子
井上千晴、川上恵、川合蘭、八木亜紀子
場所1・3回目:ご自宅(札幌)、2回目:カフェ(札幌)
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
- 掲載内容は2024年11月現在のものです。
二風谷で生まれ10人のきょうだいと育つ
生まれは1948(昭和23)年の7月で、今76歳!
二風谷(にぶたに)のオサツ川のところに今も観光用のアイヌのチセ(家)があるでしょ?わたしは、ああいうチセで生まれたの。父親が鵡川(むかわ)から移住して来た時にチセを建てて、わたしは3歳までそのチセで育ったの。3歳の時にチセのすぐ隣に2階建ての木造の家を建てたの。
「オサツ」っていうのはね、アイヌ語で「溜まる」という意味。アイヌ語は地域によって違うんだけど、二風谷で「オサツが溜まる」というのは「汚れたものが溜まる」というような意味で、沙流川の中心に大きな岩の穴が空いたのがあって、そこに全部流れてきたものが溜まる。それで、「オサツ沢」っていうの。かなり深くなっていて、入ったらもうおしまいだから「そこには絶対行くんでないよ」って言われてた。
わたしが生まれたときに、おじいさんが亡くなったんだって。だから、おじいさんとかおばあさんのことは、あんまり知らないの。
お母さんは刺繍もだけど、ムックリ(口琴)もすごくてチャンピオンになったり、トンコリ(弦楽器)もやったり、アイヌのことは一切全部やってた。そのトンコリは短いものだった。誰かに作ってもらったのかな。それからムックリは、桂の木とか硬い木で作っていたの。これも今よく見るものよりも短くて、10㎝くらいかな。リズム感がすごくよくて、どんな楽器も上手だった。
お母さんはアイヌのことは母親(裕子さんのおばあさん)から教えてもらったんだけど、そのおばあさんはロシア系の二世のアイヌとの間の子なの。おじいさんは、四国の淡路藩から開拓に来た男だった。だから、お母さんは半分和人で、半分アイヌ。でもお母さんはアイヌ語はペラペラだし、ユカラ(英雄叙事詩)はしゃべるし、なんでもやってたの。
うちは10人きょうだいで、わたしは8番目。男7人に女3人で。上がみんな男6人で、女3人と、一番下に弟が1人いる。兄貴たちは3年前までにみんな亡くなって、今生きてるのは、姉のレラ(アシリ・レラ)と、妹とわたしだけ。弟は二風谷の本家に住んでいたけど、今年(2024年)の9月に亡くなって、女3人きょうだいになったの。みんなもう70代になっちゃった。
父親はわたしが10歳の時に、55歳で亡くなったの。そのあとは母親が一人で9人の子どもを育ててくれた。でも、その時はもう長男の兄貴は独立して、自分でダンプ屋やったりガス販売やったり、嫁さんが化粧品の営業所やったりしていた。だから、次男が父親代わり、母親代わりをしてくれたの。わたしが学校から帰るとね、イモとカボチャの塩煮を作って、待っててくれたの。
わたしたちのときは田植えや草取りの農繁期は学校に行かなくても欠席にならなかったの。きょうだいの中で姉までは1週間くらい学校を休んでいたけど、お母さんから「裕子はいなくていいから学校行きなさい」って言われてた(笑)。わたしはやることが遅いから、畑仕事しても役に立たない。農家じゃない子どもたちの家は、和人の山子(やまご=きこりなどの山で仕事をする人のこと)か、土方の仕事していたな。本州から来るのはみんな次男・三男。アイヌは逆で、上から家を出て行って、末の子が実家を継ぐの。
春先に山子に行くと秋まで帰ってこない。うちの2人の兄貴も山子に行っていたの。アイヌはお酒を飲む習慣もばくちを打つ習慣もない。でも、本州から来た人たちはそういうことをする。兄貴たちは飯場(はんば)でそういうのを見たけど一緒にはやらなかった。飯場ではご飯とお味噌汁は出るけど、おかずは出ないの。おかずは買うんだ。だから、兄貴たちは山菜を採って塩漬けにしておかずにして食べていたの。だからわたし、春になって山菜採ると兄貴たちのことを思い出すの。
兄貴たちはお金使わないで、お金を貯めて、腹に括り付けて帰ってくるの。そのお金で父が土地を買ったり、山を買ったりしたの。兄貴たちが飯場にいた時に一番つらかったのは、和人の人たちに布団の上に炭で大きく「アイヌ」って書かれたことだって言っていた。本当に大変な思いをしながら、弟や妹のために働いてくれた。
教員を目指し、役場で働き炭焼きもしていたお父さん
父親はもとは鵡川(むかわ)の生まれなの。生田(いくた)っていう小学校で、あそこにアイヌ語学校があったんだけど、ちょうど父親が小学生の時に「アイヌの子どももみんな和人の学校に入るように」と言われて、子どもたちはアイヌ語しか知らないのに、全員和人の学校に入れられたの。 子どもたちはアイヌ語しかしゃべれないし、日本語はわからない。授業に出ても、学校に行っても楽しくないから、10人のうち9人は辞めちゃった。
だって突然、「あなた今日からアメリカン・スクールに行きなさい」って言われても馴染めないでしょ?英語もしゃべれないでしょ?そういう中で、父親一人だけが小学校に残ったの。学んでいるうちに、だんだんと日本語がわかるようになって、小学校を出て中学校に入るころには、日本語をペラペラしゃべれるようになったの。
高等学校まで行って「今度は自分が教えるようになろう」と進んで勉強して、教師の免許をとったの。それで、和人の先生と2人で二風谷のアイヌ語学校に派遣されたの。だけど、二風谷の子どもたちが、「今はもう俺たちはアイヌの先生に習いたくない」、「これからは日本の学校に入って日本語を勉強しないといけないから」って言ってね、和人の先生は残ったんだけど、父親は断念したの。
それで何をしたかといえば、平取町の役場に参事として勤めたの。二風谷のアイヌの人たちは読み書きができないでしょ。当然、日本語なんて書けないし、読めない。だけどもう郵便物でも話をするときでも日本語でしょ。父親はアイヌ語を日本語に翻訳して、手紙が来たら読んであげて、返事を書いてあげたり‥、という仕事を役場に勤めながらやってたの。
役場の仕事は毎日ではないから、オサツ川のあたりの山を払下げで全部買い取って、炭焼きもやってたの。二風谷とオサチュナイ(長知内)ってところと2か所に炭焼き小屋を持って、三男がオサチュナイの炭焼き小屋を担当して、二風谷のオサツの方は父親が担当していた。この奥の1時間くらい山奥にも、炭焼きやってた人がいたよ。アイヌか和人か分からないけど、その人は雇われて炭焼き小屋に住んでいたの。その間、田畑のことは全て母親がやっていたの。大変だったと言っていたわ。
父親が亡くなったのは1958(昭和33)年の6月だった。裏山で山火事が起こって、それがショックで心臓病になって死んでしまったの。その後に二風谷ダムできることになって、うちの田んぼも畑もチセも家も撤去になった。
二風谷ダム(解説:上村英明):ヤウンモシㇼの日高管内を流れる沙流川の中流に建設された「特定多目的ダム」で、現在国土交通省北海道開発局が管理する。完成は1997年。アイヌ住民の多い平取町二風谷地区に建設されたため、ダム湖(二風谷湖)によって旧土人保護法などによってやっと営農できるようになった土地やチプサンケ(舟下ろしの儀式)など伝統文化にとって重要な場所の水没や破壊、さらには日本政府による一方的な頭越しの開発計画の押し付けから2名のアイヌ地権者がダム建設に反対し、道内のアイヌも参加する反対運動が広がった。北海道開発局が、1987年土地収用法による強制収用を始めたため、2名は建設大臣に対する差し止め請求などを行ったが、1993年4月棄却された。これを受け、翌5月にこの問題を札幌地方裁判所に訴えたものが、「二風谷ダム建設差し止め訴訟」であった。
地裁の判決は、1997年3月で、アイヌ民族を「北海道」に日本の統治が及ぶ以前に住んでいた「先住民族」と認め、土地収用を違法とする画期的なものであった。しかし、二風谷ダムが完成していることをもって、原告敗訴という「事情判決」でもあった。因みに、建設計画の当初は、大規模な国家プロジェクトであった「苫小牧東部開発計画」(苫東)における工業用水の提供が二風谷ダムの目的だったが、1998年に開発計画が失敗すると、洪水調整や農業用水用の「多目的ダム」と一方的に改められた。また二風谷ダムの教訓を、アイヌ民族の土地での開発計画では、アイヌ文化の事前調査をすべきだったと狭く捉えた政府は、これを実施後、2022年には二風谷ダムの上流に新たに「平取ダム」を完成させた。「国連先住民族の権利宣言」によれば、自己決定権(第3条)や「自由で十分な情報に基づいた合意<FPIC>」原則(第32条)の視点から考えるべき問題である。
「全くアイヌの暮らしだった」子どもの頃
うちはね、もう全く「アイヌの暮らし」だったの。わたしが子どもの頃からお母さんはアットゥシ織りをやってたからね。夏は田んぼとか畑をやってたけど、冬はやっぱり収入源がないから、アットゥシ織りをして、その反物を観光地に売ってたの。
アットゥシはシナノキの皮をはいで、細く糸を作って、結んで束にする。わたしは手伝いで小学生のころからアットゥシの糸づくりをやらされてたの。父親はわたしが5年生のときに亡くなったから、その冬からお母さんの真似をして、アットゥシ織りをやってた。平取町の中学校に行くまでは、それが「普通の生活」だと思ってたの。みんなそういう生活をしてるんだと。
アットゥシをつくる木の皮もお母さんが採りに行くの。わたしも一緒に行ったんだけど、木の50㎝くらい上をちょっと切りつけて、両手でバーッとはがす。木の周りの3分の1だけはがしたら、あとは残して、空気が入って腐らないように50㎝くらいの間隔で手の届くところまで紐でくくっておくの。
だから山に入るときには必ずヒモを腰に巻いて行っていた。ヒモはヘビの動きをまねることができるから、熊よけにもなるしね。そして木は5、6年経つと、またちゃんと元に戻るから。次の年に行ったときは反対側の方をはがす。そうすると木の皮が絶えなくて、ずっとつながっていくでしょ。木の皮は北側・東側から剥ぐの。それから南側・西側。根本は必ず剝がないで下から50㎝は残して剥いでた。
剥いだ皮は、横糸にする方は一週間沼にさらすの。すると、柔らかくなって、中の皮と外の皮ってはがれて、きれいな白色になるの。だけどそれを1週間以上10日くらいさらすと今度はどろどろに溶けてしまう。だから、その具合を見に行くのも子どもの仕事だった。そして横糸は赤茶色で色も違うからやり方も違うの。子どもの頃は五右衛門風呂だったから、お風呂に入った後に火を焚いて灰を入れて、一晩中、柔らかくなるまで姉とわたしと交代で火を番をしたの。時々窯から上げて触って、柔らかくなったかどうかみる。柔らかくなったらもう火消して寝るんだけど、眠くてたまらなかった。
中学生くらいの時には、皮を採るところから織るところまで、全部できるようになったの。
アットゥシに救われた子ども時代
わたしたちきょうだいはね、アットゥシのおかげで餓死しないで生きてこられたの。
わたしが中学2年の時にお母さんが白内障を診てもらいに苫小牧の病院に行ったら、そのまま入院になってしまって、1か月帰ってこないことがあったの。家にはわたしと妹と弟の3人しかいない。学校に行く定期券も買えないし、ノートも買えない。1日、2日どうしようかと悩んで、わたしが何とかしなきゃ!って決めたの。それで、お母さんが置いて行ったアットゥシの機織り機がそのままあったから、これだ!ってわたしが織ることにした。
学校から帰ってきて、夜中の2時、3時まで織った。アットゥシ2メートル織ったら「買ってもらえる?」って、貝澤ハギさん(元「二風谷アットゥシ織生産組合」副組合長)のところに持っていった。そしたら気持ちよく買ってくれたの。布って端がきれいじゃないといけないと思うんだけど、子どもが織ったものだからさ、端っこががたがただったかなと思うんだ。それでもハギさんは今のお金にしたら2、3万円の値打ちで買ってくれた。
それで中学校へ行く定期券買って、学校行けるようにしたの。弟や妹にも足りない教材とか買ってやったの。そしたら弟と妹が「牛乳が飲みたい」って。当時は一升瓶100円で売ってたの。それから「パンも食べたい」って。だからお店に行って、一斤買ってストーブの上で焼いて食べたの。妹と弟はマーガリン塗って、牛乳と一緒に食べてすごく喜んでたね。でもお金はすぐになくなるから、次の日からまたすぐに織り始めた。
そうやってるうちにトラックの運転手をやってた兄が帰ってきたの。事情を話したら「俺が母ちゃん帰ってくるまでいるから、ひろこ寝れ」って言って、しばらくいてくれたの。ほんとうにあのアットゥシがなかったらどうなっていたか。アイヌでよかったかもしれない。アットゥシのおかげで生きて来られた。
前に、グアテマラ(中南米)に越田清和さん(元さっぽろ自由学校「遊」理事)たちと行ったことがあるんだけど、家の外で先住民族がアットゥシみたいのを織ってたの。ヤシの木の皮で繊維を作って機織りをしていんだけど、まるでアイヌとおんなじ。やってみたいって言って、やらせてもらった。みんなわたしができないと思ってるのに、出来るもんだから、もうびっくりしてるの。アイヌでよかった~って思った。
そのあとにインドにも行ったの。先住民族って同じところがいっぱいある。ヤシの葉っぱで建てたチセがあって、中に炉口があってアイヌと同じお祈りをするの。びっくりした。すごいなと思った。
世界って歩くもんだなって思った。やっぱり歩かないと分からない。いろんな経験させてもらった。これはアイヌだからできたんだね。わたしは45、6歳まではアイヌは大っ嫌いだったよ。でも、こういうことやるようになってからアイヌでよかったと思うようになったよ。アイヌでなかったらこんなふうには、世界に行かれないものね。
食べ物、山菜
お米は田んぼで作ってた。おかずはほとんど山菜。春先に採って、干して保存するの。馬小屋の2階にプクサ(行者ニンニク)とニリンソウを、蓆(むしろ)を敷いてばーっと干して一冬食べる分保存する。山菜はお母さんが採ったのを、わたしらが袋に入れて背負って帰ってきて、広げて干していく。そしたらその間にまたお母さんが採ってくるから、また干して…。お母さんは毎日のように採りに行ってた。一冬10人で食べるんだから、それはもうたくさん。
山菜は家の周りになんでも生えているからさ。食べるときにプクサ(行者ニンニク)とってきて、ミツバとってきて、ニリンソウとってね。食べる分だけ。フキは採ったら塩漬けにしておく。今のアイヌ人は食べないかもしれないけど、アマニュウ、アイヌ語では「チュヘ」っていう山菜もあるの。ゴーヤみたいにちょっと苦みがあって体にいいから、それも別に塩漬けにして。それがすっごいおいしいの。エゾニュウとアマニュウとあってね、エゾニュウはすごいでっかくて硬いの。でもアマニュウはそんなに背がおっきくはならない。ちょっと硬めになった時にそれを切って塩漬けにするんだけど、春先はそれを生のままおやつで食べてた。甘いからアマニュウっていうの。でも今ね、アマニュウがなくなってきた。除草剤だとかさ、草刈りして野原がないから。
魚はね、もう手づかみで捕れるくらいいっぱいいたのよ!ザルで、ドジョウとか、カジカを捕って、すぐストーブの上で焼いて、カリカリにして。豚を飼ってたから、豚の餌を炊くのに、いつもストーブにでっかい大鍋掛けてたの。その鍋の横に、カジカとかドジョウを置いて焼いてカリカリにしたらおいしいの。ザリガニもカワエビも捕って食べたからね。
食材の保存は室(むろ/ものを保存するために作った部屋)でやってた。2mくらい穴掘って、そこに階段つけてね。子どもがたくさんいたから何でも箱で買ってきて全部室に入れてた。調味料が足りないときは遠く離れた隣の家まで借りに行ってた。それが普通だった。そうやって隣近所で助け合ってた。だから今でもたまに二風谷に帰るとみんな「裕子、ヘェー(知人同士で使うあいさつ)」って気軽に挨拶してくれるよ。
イタチや鹿、鶏のおはなし
冬はイタチを捕ってその毛皮を売るの。兄貴たちの小遣い稼ぎはイタチ捕り。鉄砲なんか使わないで、罠で獲ってたね。
子どものころは、アイヌの人の家には必ずこういう太い棒があって(写真)、玄関に置いてるの。昔は鍵とかないから、これで突っ張って鍵閉めてたの。それで、鹿とか熊とかが来ると、これを持って走って行く。鹿の前に行って、脳天をカーンと叩くと一撃で倒れる。倒れたら、お母さんが「さあ、刃物持ってこーい!」って言ってすぐ動脈を切って血を流すの。体中に血が回ると臭くて食べれないから。母は強しだね。
鹿はよく出て、家の前にも来たんだよ。獲ったらお母さんが解体して、肉は食べる。皮はなめして敷物にする。肉はただ焼いて、塩ふって食べるだけ。豚も飼ってて、屠殺場に持っていくと、足は必ず1本もらってくる。鹿はとれたらみんなにお裾分け。だから豚の足も鹿の足も家にあるのは一本だけ。絶対、一軒で全部食べなかった。
当時は冷蔵庫がないから、冬は冷蔵庫のように押し入れみたいな大きな引き出しがあって、半分は食器棚。半分はそういう鹿の肉とか豚の足をとか生モノをぶら下げて、保存するの。食べたいときはそこに行って、包丁で好きなだけ切って、ストーブで焼いて塩ふって食べた。美味しかったよ。夏は山から湧き水が流れてきているからホースを引いてきて、ビニール袋に入れて穴を掘ってそこに漬けていた。
野菜もいっぱいあるでしょ。山菜を干したのを水に浸しとくとまた戻るから、おひたしにしたりみそ汁に入れたり、ご飯を作ったり。みそ汁の味噌はお母さんのお手製だったの。具はじゃがいもや山菜。特に春先や夏は山菜がメインで、夕食近くなると家の近くから採ってきた。
納豆も作ってたの。大豆を炊いたのを袋に入れて小分けして藁をかけて、馬糞を置いとくと温かいから発酵するのさ。こんなんだから、食べるものに困ったことはないし、全然不便だって思ったことないの。
鶏も飼ってたの。馬小屋の中に放し飼いにして、産んだ卵を姉と二人で競争して探すの。見つけた人だけ弁当に卵焼きが入る。当時は、卵なんて贅沢で食べられる家なんてない。お弁当に卵焼きなんてね、シャモ(和人)のにしか入ってないの。だから、卵焼き持ってったときは、弁当をみんなの前に広げて。ないときは、おかずはお漬物しかないから、その時はお弁当を隠すようにして食べてた。
馬も飼ってた。ある日、飼ってた馬が逃げたことがあった。お母さんが山に探しに言ったら、かさかさ音がしたの。馬の名前が「しげ」っていうから「しげ」って呼んだら、馬じゃなくて熊が出てきたんだって。お母さんはとっさに太い木に登ったの。そしたら熊も登ってきたんだって。お尻が引っかかれるところまできて「ああ、もうこれで熊に殺される。死ぬんだ」と思ったらおしっこちびったの。それが熊の目に入ったか口に入ったかして、泡食って逃げたらしい。家に帰ってきたらさ、しげが玄関で鳴いたんだよね(笑)。
熊のはなし
山裾に家があるから、熊も鹿も自由に通って、春先とか秋には、夜9時か10時くらいになると、熊は毎日来た。お母さんは子どもたちを寝かせてからアットゥシ織りをやる。すると、聞こえるんだね、熊が来てるのが。熊が来たら家の周りに植えてるスイカもキュウリも野菜も大根も全部熊に食べられちゃう。だから、お母さんが大鍋持ってカンカンカンって鳴らして走るんだ。「コラー!」とか叫んでるの。
でも、わたしは熊が来てるなんて全然知らなくて、いつも「不思議だな」って思ってたの。9時までに寝ないと怒られる。なんで時間が分かるかというと、夜になるとフクロウが山から降りてきて、家のそばにある大きな木の上にとまって「ホーッホーッ」っておっきな声で鳴くの。それが、怖くて。お母さんは「早く寝ないと、ホチコク(アオバズク)来るぞ」って言うの。そしたら、わたしら子どもは怖がってすぐ布団に走ってくしょ。
だから、寝てからお母さんが鍋持って走って行ってるの、何をしてるっかっちゅうのはわからない。中学生になるとちょっとは遅く寝てもよくなるから、「お母さんいっつもなんで鍋持って走っていってるの」って兄貴に聞いたの。兄貴は家の2階から見てたらしくて、「お前たちに言うと怖がるから言わなかったけど、熊が野菜食べに来て、みんなの食べる分が無くなるから、夜になったらお母さんは鍋持ってカンカン音立ててああやって走るんだ」って教えてくれたの。
ところでシマフクロウって、「コタンコロカムイ」って呼ばれてる。「村を守る神様」っていう意味だけど、ほんとなんだなぁと思った。夜中になると山から降りてくるの。コタンコロカムイは昼間は見えないけど、やっぱり村が心配で見に来るフクロウがいるの。うちのおばあさんがそれを歌と踊りにした山道家伝承のアイヌの歌と踊りがあるの。
(まとめ:川合蘭、八木亜紀子)