メンバー:小笠原小夜、八木亜紀子
場所:旭川のカフェと古賀さんのご自宅
メンバー:飯沼佐代子、坂本有希、八木亜紀子
場所:古賀さんのご自宅(我孫子)
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
旭川の近文アイヌ部落(近文コタン)で生まれ育つ
生まれは1944(昭和19)年2月なので、今年(2024年)で80歳になります。旧姓は伊藤です。旭川の近文(ちかぶみ)アイヌ部落(近文コタン)で生まれ、1967年に23歳で結婚して千葉県に行くまで近文で暮らしていました。部落の南側の道路、バス通りのある錦町というところで、今の北門町(ほくもんちょう)にある川村カ子トアイヌ記念館の近くです。
あの頃の部落はすごく軒数が多くて、びっしり家がありましたよ。それぞれの家が広い田畑と家屋を持っていました。1967(昭和42)年のわたしの結婚式の万歳三唱は、川村カ子ト(かねと)さんがやってくれたんです。
伊藤トキアーシ(祖父)と伊藤パシノマ(祖母)がわたしの父方のおじいさんとおばあさんです。おばあさんは口と手にびっしり、立派な入れ墨(シヌイエ/パーナイ)が入っていました。母方のおばあさんも入れ墨をしていたけど、唇の上と下だけ。入れ墨したけど、禁止されてしまったから途中までになったみたいだね…。
家は田んぼと畑をやっている農家でした。畑では、スイカ、カボチャ、ジャガイモ、トウモロコシ、キュウリ、トマト、ウリみたいなメロンみたいなカンロなんかをやっていました。収穫があると弟と一緒にリヤカーを押して農協に納める手伝いをしました。
仕事が終わると川(石狩川)の下で遊ばせてくれてね。遊びというか…、川でドジョウやフナを捕ったんです。わたしがザルを持って、弟が魚を追い込んで捕まえるんです。捕れたドジョウやフナは人が食べるわけじゃなくて、鶏のエサにしました。土の上に生魚をばーっと撒くとぴょんぴょん跳ねるんですけど、それを鶏が食べるんですよね。鶏は卵と肉用です。ほかには豚も飼っていました。春先に子豚を2・3頭買って、12月に売るんです。アヒルもいて、ウサギも飼ってました。ウサギは毛皮を座布団にしたりチョッキにしたりして、肉は食べました。解体はおばあさんがやってくれました。
鹿は、子どもの頃は全然いなかったです。見なかったし、食べたこともないです。今は家の周りにもたくさんいるけどね。
たくさんの和人の子が近文コタンで育った
伊藤トキアーシとパシノマの間には子どもが3人いたけど、みんな病弱で3歳になるまでに死んでしまって、伊藤の家には子がなかったそうです。
わたしの父は秋田県から来た和人の子なんだけど、毛布に包まれて伊藤の家の物置に捨てられていたところを養子にして育てられたんだそうです。小さい頃からアイヌの家で育ったから、父は和人だけどアイヌ語が話せるようになっちゃった。
部落には、和人が置いていった子どもを育てているアイヌの家は何軒もありましたよ。本当かどうかわかりませんが、父親から「近文コタンでアイヌが育てた和人の子は71人いる」と聞いたことがあります。
開拓民は大正の終わりから昭和の初めに入ってきて、新潟や富山、千葉、秋田県からが多かったと思います。だいたい農家の次男や三男坊ですよ。今いる人たちはその3代目くらいになると思う。冬の間は田畑の仕事はできないから、みんな本州に出稼ぎに行く。炭鉱で働いている人は、九州や四国から来た人が多かったみたいです。「アイヌは冬に強いから」なんて言って、アイヌの家に子どもを置いて行ったんです。
先祖は丸瀬布に由来を持つ川村モノクテ
母方の祖先は丸瀬布(まるせっぷ)に由来があり、狩りや漁をしながらチセ(家)を建てて、丸瀬布から名寄、美瑛、札幌、旭川など各地を移動して暮らしていたそうです。当時は一か所に落ち着くということはなく、子どもたちが独り立ちできるようになると、チセのあるところにそれぞれ住まわせたと聞いています。だから、今も親戚があちこちに住んでいます。
母のシオミは親戚だった伊藤の家の養女になり父と結婚したのですが、それは和人の子(父)にだけ家を継がせないようにするためだったようです。母は結核を患ってわたしが5歳の時に死んでしまいました。病気がうつるといけないから、最期は別室に寝かされてかわいそうでした。当時は、部落の中にも結核で死ぬ人がけっこういましたね。母が死んでから30日後に後妻さんが来ました。
そんなこともあって、わたしはずっとおばあさんと一緒の部屋に寝て過ごしていました。アイヌ語はおばあさんたちが使っているのは聞いたことがあります。わたしは全然アイヌ語は話せないのだけれど「ユエ!(うるさい)」という言葉は分かって使うと、「そんな言葉は使うものではない」と叱られたことは覚えています。
おばあさんとお友だちが歌っていたアイヌの歌は耳が覚えていて、忘れていても聞くと思い出しますよ。「ヤイサマネ~」とか「ピㇼカ、ピㇼカ、タントシㇼピㇼカ」とかね。
おばあさんがゴザを編んだり、刺繍したりするのを見ていて、真似してみたこともあったけど、父から「やめなさい」って言われてやらなくなりました。
父は和人の子だからほかの人から「ニセアイヌ」なんて言われていじめられたこともあったようです。だからわたしにも「アイヌのことはやるな」って言ったのだと思います。
熊のこと・山菜のこと
父は農業が暇なときは、馬橇(ばそり)で配達の仕事をしていました。旭川は自衛隊の基地もあったし、本州から来た人がたくさんいたから、いろいろ届け物が多かったと思います。
近文のアイヌ部落は、あちこちのコタンから強制移住させられてできた部落なんですよ。戦後は自衛隊が入ってきました。永山町のあたりに屯田兵や開拓民が入ってきて、アイヌが近文に集められたそうです。自衛隊と屯田兵と飛行場があったから、旭川の町は早くから拓けたんですよね。
おじいさん(伊藤トキアーシ)は永山町の出身です。昔は鉄砲で熊やウサギも捕っていたようです。本(図録『藤戸竹喜の世界』)には、藤戸竹喜(木彫り職人)のお父さんと熊と一緒に写った写真が載っています。親熊は撃たれて肉になって、子熊は檻に入れて育てていました。子熊って、子犬みたいですごくかわいいの。昔は各家で子熊を1頭飼っていたようだから、ずいぶんたくさん熊を獲っていたのね。
わたしが中学2年生の時(1957年)に層雲峡で熊送りのお祭り(イオマンテ)があって、みんなでお団子なんかをつくってバスで行ったこともあります。
子どもの頃、おばあさんが「食べたいな」っていうので、山菜を取りに行ったこともあります。行者ニンニク、ヤチブキ、ニリンソウ、ウド、フキノトウなんかを採りました。オニグルミとか、アカシアの花も食べましたね。子どもの頃はフキノトウは苦くて好きではなかったけど、アカシアの花は天ぷらにすると甘くておいしかったです。山菜採りでダニも家に持って帰ってしまって、怒られたこともありました。
魚は魚屋さんが売りに来ていて、15丁目の市場で買っていました。サケは全然食べませんでした。近文コタンの方まではのぼってこないから。嵐山の下にあるカムイコタンのあたりはサケものぼってきているようですよ。
50代になってはじめた「アイヌプリ」
子育てがひと段落した頃、孫を連れて旭川に行ったのだけれど、秋葉 實(あきば みのる)さんという丸瀬布の郷土研究をしたり、アイヌの家系図を作ったりしている立派な方とお話したの。
実は、わたしの祖先には、お墓から骨を研究のために掘り出されてしまって、どこにあるのかも分からないし、戻って来ていない人がいます。それを聞いて秋葉さんは「お墓で手を合わせるだけが供養ではないよ。先祖や孫のために、先祖の由来のものを作ってあげるのも供養だと思ってなにかやってみなさい」と言ってくれたんです。
それで、1990年代だから、だいたい24年前(55歳の頃)に中井百合子ちゃん(文化伝承者)たちと生活館に行くようになりました。それが「アイヌのこと」をやるスタートでした。それまでは和人の友だちの方が多かったです。刺繍をしたり着物を作ったり。山にオヒョウの木の皮を剥ぎに行って、重しをつけて川の中でふやかす。3か月くらいかかるかな。すごく手間がかかってめんどくさいんだけど、それでゴザを編んだりしてね。
孫3人も一緒に「アイヌのこと」をやるようになったの。うち一人は札幌でアイヌ若者委員会に参加して、鵡川出身のアイヌの青年と結婚しました。阿寒の藤戸竹喜さんのお店(熊の家 藤戸)で夏休みにアルバイトして、アイヌ語弁論大会「イタカンロー」(アイヌ民族文化財団主催)に4回出た孫もいますよ。
先祖のお墓のこと
わたしのおじいさんが亡くなった時は土葬にしました。まだ小さな子どもの頃のことなので葬式の記憶はないです。おばあさんの方が長生きしたんだけど、その時はもう土葬は禁止だったから、普通に火葬にしましたよ。
おばあさんは最期は倒れて、今でいう「介護」が必要になったのね。その時に、近所のちょっと若いおばあさんたちが4、5人交代でやってきて、おむつを替えたり面倒をみたりしてくれたの。
アイヌコタンでは、誰かが寝込んだりすると親戚でなくても近所の人が世話をしに来るということはよくありました。わたしも10代の頃におばさんたちと母方のおばあさん(川村コシクマッテ)の介護に美瑛まで毎週末通ったことがあります。
以前に近所で火事が出た時に1か月か2か月かくらい住まわせてやったことのあるおばあさんがいたんだけど、その人は本当に毎日やってきて、わたしのおばあさんの面倒をみてくれました。
わたしの結婚式にはそのおばあさんも来てくれたんですよ。1人暮らしで、ばっちり入れ墨が入っていた。多分、入れ墨していた最後の人じゃないかな。家で住まわせていた時によくアイヌの歌をうたってました。お墓は今は「アイヌ墓地」とは言わなくなって、「近文墓地」というけど、そのおばあさんもそこにいるから、行くと手を合わせますよ。
いろいろ大変なこともあったけど、わたしを守ってくれた先祖はみんなお墓の中にいるの。だから、お墓に行くとたくさん話をしました。
アイヌの墓標は木でできていて「クワ」というのだけれど、倒れたり朽ちたりしても、起こしたり新しくしてはいけないと言われています。でも、わたしは墓標が茶色く小さくなっているのを見て気になって、新しくしたの。
おばあさんは「人の器は決まっているんだ、変な欲を出すんじゃないよ」と教えてくれました。「クワ」を新しくしたことで周りの人から怒られけど、わたしには大事なことだったの。
(まとめ:小笠原小夜、八木亜紀子)