メンバー:八重樫志仁、八木亜紀子
同席:床みどりさん(友人)、下倉絵美さん(友人の娘さん)
場所:Cafe&Gallery KARIP
https://karip.life/
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
屈斜路コタンでの暮らし-なりわいとアイヌ語
生まれは1931(昭和6)年、屈斜路(くっしゃろ)コタンです。両親は早くに亡くなったので、わたしはおばさんのところに預けられて育ちました。子どもの頃は幸せに暮らしてましたよ。
わたしたちの頃はもうアイヌの習慣とか言葉とかは「一切ダメ」だったから、暮らしぶりといったら今とあんまり変わらないです。屈斜路湖の周りは森林が多いから造材が早く始まっていて、早く拓けましたよ。本州から働く人たちが早々と来ていたから、「アイヌのこと」とかはね…。
上の世代の人たちは、学校でアイヌ語を話すと体罰くらったこともあったと聞いています。わたしらはアイヌ語を使うにしても、教えてもらってないから使えないですよ。 女の人の中には口を染めていた(入れ墨をした)人がいました。2人か3人いたかな。口の周りにうっすらと入れ墨(シヌイェ)を入れてね。口染めたおばあさんはアイヌ語はできたけど、教えるのもダメだから。「アイヌ語を教えると、エムシコロベ(刀を持つもの=巡査)が逮捕に来るぞ」って言って、絶対教えてくれなかった。年寄り同志では使っていたと思うよ。
弟子さんのお話を聞いてみよう「おばあさんたちは(アイヌ語は)できたけど教えてもだめ。話すと巡査が来るっていうことで、ぜったい教えてくれなかった」
おばあさんの弟のオンチャマ(おじさん)は「本当のアイヌ」っていうのかな。屈斜路湖ではウグイを捕って回って焼き干しとかやっていた。それで、秋になると美幌の方から人が米を背負って歩いてやってきて、魚と物々交換していたんだね。オンチャマはアイヌ語をよく話す人で、来るとサコロベ(英雄叙事詩)をやるので、楽しみだったね。すっごくいい声でね。
美幌の人が来たっていうとサコロベをやる。一晩中やるから薪運んだり、ランプ用意したりして。わたしは意味もよく分からないけどこっそり聞いていました。だけど、近所の人は全然集まってこない。美幌の人だけ。うちの親も近所の人も全然聞きには来ない。弟子屈まで映画は観に行ったりするのにね。 屈斜路コタンでも聞いたことある人はわたしくらいじゃないかな。7・8年続いてたんじゃないかな。
造材に従事していたアイヌー朝鮮人労働者・開拓者
屈斜路湖の温泉(池の湯)のあたりにマッチ工場があったらしいですよ。小さい頃は「工場(こうば)」って呼んでいました。朝鮮の人たちを連れてきてそこで働かせてました。道路工事をやらせたり、いろいろやらせてたみたいですよ。うちのおばさんが飯場でご飯炊きしていたんだけど、「あの人たちは可哀そうだ。道路のフキをとってご飯に入れたりしていて、野菜を食べさせてあげたい」とよく言ってました。昭和6年くらいの頃かな。
その頃、おばさんは開拓者の子どもをもらって育てていた。そこにわたしが来たから、その子がわたしの兄さんになったの。その兄さんは、美幌に出てお酒をつくる奉公に出ていたみたいだよ。10歳くらい離れていたし、お盆や正月に帰ってくるくらいだからあんまり覚えていないね。その兄さんは早くに死んだの。複雑だよ、わたしらの頃は。
その頃は開拓者の子どもを引き取って育てているアイヌがたくさんいました。開拓に入ったけど、すぐに食べ物ができなかったり、寒かったりしたから、和人はアイヌにはいっぱい世話になったはずですよ。アイヌは子どもを大事にしてくれるからって置いていったんだ。
開拓者は冬は造材やって、あとは開墾やってたね。アイヌは時期・時期によって採れるもの・食べるものは決まっていたけど、開拓者は畑でなかなか作物が採れない時があるから大変だったと思います。採れるようになると「アイヌは嫌だ」って言って勝手だよね。
弟子さんのお話を聞いてみよう「その頃は開拓者の子どもを引き取って育てているアイヌがたくさんいましたよ」
わたしたちアイヌはずっと米の飯を食べていたけど、開拓者の子たちはお弁当を食べる時は頭から風呂敷をかぶって隠して見られないようにして食べていたよ。イモとかカボチャとか、そばの団子とか食べてたんだろうね。普段すごく仲のいい友達だったのに、お弁当の時だけは拒否される。先生が「今は非常時(戦争中)なんだから普通に食べなさい」って言っていたけど、6年生の最後まで風呂敷被っていましたよ。
屈斜路の場合は、全部山だから仕事はどこでもあるし、造材があるから(現金収入があって)、アイヌは米を買って食べられた。だけど終戦になったら、山だって閉鎖されるし、米だって配給になったから逆転したよ。
屈斜路湖のウグイ、秋味(サケ)、山菜、キノコ採り
屈斜路コタンは大きな方で20~30軒ほどの家がありました。やっぱり造材が盛んだったし、飯場もあったし。造材の現場ではアイヌの男もたくさん働いていましたよ。屈斜路湖にはアイヌ学校もあって、わたしはこんな感じだから(笑)、みんな友だちでした。
うちのばあさんとか、近所のばあさんは屈斜路湖に丸木舟出して刺し網で秋味(サケ)を捕ってたね。その舟に乗りたいって言ったけどなかなか乗せてくれない。おばさんたちだけで行けば、湖の上だから誰にも怒られないからアイヌ語で話せるわけだ。そういうことがあったみたいですよ。
弟子さんのお話を聞いてみよう「お友だち同士で2人だけで行けばね、湖の上だから誰にも怒られないでアイヌ語つかえる」
おじいさんは船頭さんと呼ばれてて、弟子屈釧路川を丸木舟で渡っていたの。丸木舟で川を渡るってすごいことですよ。おじいさんは川で魚も捕ってましたよ。川をせき止めてウライ(やな・仕掛け)でサケを捕ってました。イトウもいたみたいですよ。秋味(サケ)の3倍くらいある大きいやつ。
ばあさんたちは朝、網上げにいくからね。わたしは体が弱かったから、ウグイの刺身をつくって食べさせてくれたよ。小さい頃よく聞いた話だけど「この子、20歳まで生きればいいな」と言われてたんだって。どっこい90まで生きてるよ(笑)。学校行く前に刺身食べてご飯食べて。
山菜も採りました。キノコは4種類くらいしか食べない。マイタケ、シイタケ、ナラタケ(ボリボリ)、ムキタケだね。マツタケもあったけど、当時はそんなの蹴っ飛ばしてたね(笑)。 おばさんが山歩きが好きでね。わたしも必ず連れていかれたの。それで、なんでもいいから紐を腰に一本しばって行くの。熊が出た時に、「熊に会ったら紐を投げろよー!」と言われていました。熊は蛇が苦手だから、困っているうちに逃げるのさ。
熊とイオマンテの思い出
子どもの頃に湖に洗濯に行った帰りに「もうもう」って鳴く声が聞こえたから、家に帰ってから「あんなとこに牛いたわ」っておばさんに言ったら「あれは熊だよ。カムイだよ」って驚かれたね。
コタンには熊撃ちもいました。熊と取っ組み合いして勝ったという人もいたし。熊の肉も食べました。だけど、わたしは嫌いだった。熊の肉を食べると大変なんだ。熊はカムイ(神様)だから、肉を食べたお茶碗とかは流しの中に投げてはおけない。洗った水はヌサ(祭壇)に投げる、手に付いたら紙で拭いて焼いてしまう。「しきたり」っていうのはめんどくさいよ。
戦争の前までは熊を飼ってたね。熊を獲るときに穴の中で「子っこ」のいるのを獲って、木でつくった檻に子熊を入れて2年育てて、必ず冬にイオマンテをする。その頃は食料がそんなにないから、みんな米や豆を背負って、あちこちからアイヌが来る。みんなで炊いて食べて、1週間くらいやるんだ。熊を獲った時も、イオマンテの時もみんな涙を流していたよ。なんだろうね、感極まってしまうのかね。
弟子さんが子どもの頃のイオマンテ(熊送り)のお話を聞いてみよう
その頃は本当に熊っていったら神様だと思ってたよ。この間、このあたりで熊が2頭捕れたと聞いたけど(人を恐れない熊が阿寒湖温泉の周囲を徘徊した)、カムイノミ(儀式)をしなきゃいけないと思ったよ。「ばあさんは黙ってろ」って言われるだろうけど、それでもやっぱりドキンとしたよ。誰か送ってあげないとね…。
昔のコタンではカムイノミやって、解体して、参加した人みんなに肉を渡してくれる。子どもたちには3個か5個串に刺してくれる。出てこられない年寄りの分は取り分けて、あとはみんなで食べたよ。
おばさんもわたしも女だからカムイノミはできないけど、火の神様にたばこや米をやったり、お祈りしたりはできる。森に入るときは必ず山にあいさつして。熊はいったん寝たらなかなか起きない。夜行性だから人が山に入るときは寝てる。あいさつというか、声出して、熊だって人間に会いたくないから逃げていく。
今でもやっているよ。「ありがとうございました、山菜採らせてもらいました」って言って、キャラメル1個でもいいから、置いて帰っていくの。
薪集めのこと 子どもでも枝1本でも採ったら盗伐に
冬、3月過ぎは子どもたちは朝がっちりしばれた雪の上を歩いて枯れ木、薪(まき)をとりに行った。必ず枯れ木だけ採るの。生木を倒すことはダメ。早く薪を集めたくて生木を伐ったことがあるんだけど「お国の山」みたいだったから、子どもであっても盗伐になるわけ。怒られた。
薪は鉄板ストーブに入れてた。どんなに暑い夏でもストーブで料理していた。囲炉裏っていうのは無かったね。一年中、ストーブ焚いてたね。
すっかりその習慣がついていたんだけど、阿寒湖に来たら全部、前田一歩園の土地なんだ。枯れ木も採ってはダメなんだ。あとから聞いた話だけど、日本政府が地図の上に丸描いて「ここ全部、前田お前にあげる」ってやったらしい。失礼だよね。わたしらが弟子屈にいたころ、今の摩周駅のあたりに親類がいたんだけど、鉄道作るからって屈斜路に移住させられたわけ。あんな広いところにさ、どこにだって鉄道を引けるのに、人が住んでいるところは開墾しなくていいからって、わざわざ人間を動かしてさ。
弟子さんのお話を聞いてみよう「こうやって地図の上に丸描いて、ここ全部、前田お前にあげるって。あれもしないで…それも失礼だよね。弟子屈にあった弟子の一族の村をね、屈斜路に移しちゃったの」
屈斜路湖の思い出―氷・温泉・小動物・カエデの樹液採り
多少は農業もやっていて、たまに手伝ってました。夏は朝から晩まで鬼ごっこやったり遊んでました。屈斜路湖は遠浅だから泳いでましたよ。学校で船に乗っけられてずっと沖まで連れていかれてぼんぼん湖に投げられるの。それで出発したところまで帰っておいで、と言われて泳いでさ。あんなこと今したら大変だよ(笑)。
冬は湖が凍って、氷の山ができるわけ。今だと御神渡り(おみわたり)っていうみたいですね。温泉に洗濯ものを持って行って洗うんだけど、氷を渡って子どもが歩くのは大変なわけ。お風呂もそこで入ったね。ばあさんたちは上から下まで着物着て露天風呂に入るの。あの頃は温泉の近くに蛇もたくさんいた。アイヌの人は蛇怖がるよね。
屈斜路湖は昔は砂浜があったよ。昔は氷が貼るのがいまより1か月くらい早かったよ。子どもの頃は氷がはる「からーん」という音で目が覚めるくらい。
白鳥もたくさんいてね。白鳥に乗りたくてねー。
鳥は捕っていないし食べてない。フクロウって神様だっていうから食べないし。カラスは食べないし。スズメとかカケスはざるで捕ろうとしたけど、ひとつも取れなかった。その遊びは面白かったね。カケスはギイギイいってうるさいよ。おじいさんはウサギと木ネズミ(リス)をよく捕ってたよ。皮をはいで売って、肉は焼いて食べる。おいしかったよ。皮をぴんと張っておじさんたちはどこかに売りに行っていたみたい。
イタヤの木とか白樺の樹液をとって食べたね。それがなかなか取れないの。斜めに傷入れて、柾(マサ)っていう屋根をふく薄い板を挟んでやるんだ。行く時はちゃんと置いていくんだけど、日中になって雪が解けたら入れ物がかしがっちゃって(傾いてしまって)ダメ。だけど、樹液のついた氷が甘いんだよね。真冬は雪が堅いからだめでやっぱり3月くらいだね。
ガマとか手仕事はうちのばあさんがよくやってたよ。頭に乗せて荷物背負うやつ(アイヌ語でタラ:荷縄)はよくやってた。オヒョウの皮でね。糸にするのもすごく早かった。冬はそういう仕事ばっかりやってたね。昭和の6年から10年の頃だけど、うちのばあさんくらいでほかにやっている人はいなかったね。そんなことやるより買った方が早いもんね。
男の人は山の仕事が多かったね。造材会社に雇われて、屈斜路湖の中島あたりでたくさん木を切って、湖にたくさん材を置いておいて、夏になったらいかだにしてどっこいさこらさと岸まで運ぶの。周り中木材があったから、覚えている限りでは造材しか仕事がなかったね。中島から馬を載せる時は松明(たいまつ)が2つ、人が乗るときは1つなんだ。その時に「トまわし音頭」を歌ったんだって(トはアイヌ語で湖の意味)。
シカはわたしは知らない。いなかったよ。ここに来て10年か20年くらい経ってから初めて見て驚いたね。昔はいたんだけど、大雪が降って全滅したという話は聞いたことがあります。鹿肉も食べたことはないです。
昔の暮らしぶりとアイヌ料理
その頃はアイヌの着物はもうないの。わたしだってあんまりアイヌの着物知らないよ。
おばさんの家は板張りだったけど、節ばっかりの木で、何年か経つと節が抜けてくるのさ。だから涼しかったね(笑)。板は一枚だし、節は抜けるしで、寒かったね。紙を貼ってたけど風が吹くとせっかく貼った紙がふわーっと剥がれて。うんと寒い日に紙を貼るとしばれてぱらっと剥がれちゃうの。冬はうちのおばさんは編み物する人だったから、上から下までぜんぶ編んでくれた。ほかの人も縫物とかしたり、だべったりしてね。
子どもの頃は屈斜路湖にはジャガイモもカボチャも多いからシト(団子)はよく食べた。イモをしばらかして(凍らせて)団子にして食べてました。11月くらいになったら並べて水かけてきれいにして、5月になったら食べる。あと、春になったら開拓民が畑に残しているのをことわって拾って食べたりしました。団子にする材料はたくさんありました。
トゥレプ(オオウバユリ)はあんまり食べたことはないです。阿寒に来てから保存会で知りました。子どもの頃は米がたくさんあったからね。オハウ(汁物)はそこらへんの山菜全部入れて。夏5月から11月頃まで山菜があるから、コゴミとかフキとか干しておいて。キノコもやっぱり乾燥。ストーブの上に棚をつくっておいて、干した。子どもの仕事は薪とりで大変だったよ。
差別と戦争のこと
豚も飼っていて、モツも食べましたよ。その頃学校に行ったら「モツ食べるのはアイヌと朝鮮人だけ」なんて言われたよ。今は、アイヌが食べる分もないくらいだよ(笑)。
学校までは歩いて1時間くらいかかったんだけど、冬は氷の上を歩いていくから半分の時間で行けたの。でも、吹雪の時は真っ白で怖かったね。ミツウマ印のゴム長靴を履いていました。上の方に毛がついてるのを馬鹿にされて、悔しかったからナイフで切ってやったんだ。馬鹿にしたのはアイヌだよ。アイヌの子は米食べてたから体力があって、頭もいいし、走るのも早かったし、裕福だったから、屈斜路湖では尊敬されていたと思うよ。差別なんてなかったよ。
何年か前に台湾に行った時に、台湾の(先住民族の)ルカイ族が差別されているのを見て腹が立ったの。だから、「みんなはアイヌの女の人が開拓者の子どもを育てたことを知ってますか」って新聞に投書したの。当時は総理大臣が「日本は単一民族だ」なんて言うから、腹が立ってやってやったよ。
沖縄の「南北之塔」も何度か行ったことがあります。あれを立てた弟子豊治(てし・とよじ)さんはわたしのいとこです。南北の塔の裏の方に穴(洞窟)があって、靴やらなにやらいろんなものが散らばっていたそうです。屈斜路コタンからは沖縄戦にも、戦争にもアイヌがだいぶ兵隊になって行きました。帰ってきたのは弟子さんだけで、ほかはみんな死んでしまった。だから「南北之塔」を建てたんだ。
(まとめ:八木亜紀子)
後日談
弟子シギ子さんは聞き取りの後に逝去され、残念ながら再聞き取りをすることができませんでした。そのため、ご友人の床みどりさんと下倉絵美さんに本原稿をご確認いただいたり、弟子さんにまつわるお話を聞かせていただいたりとご協力いただきました。
弟子さんは第二次大戦後に日本人が中国に置き去りにした中国残留孤児の境遇と、アイヌに育てられた和人の子どもたちの境遇を重ね合わせて気にかけていたそうです。中国残留孤児のこと、台湾の先住民族との交流、「単一民族発言」があって、「みんなはアイヌの女の人が開拓者の子どもを育てたことを知ってますか」との新聞への投書につながったようです。
ご著書の絵本『ポンぺからのおくりもの』は、アザラシのポンペ(小さき者)とアイヌの少女レラ(風)が友情をはぐくむ物語です。突然の別れののち、ポンぺはレラへの恩返しに、自分の「着物」をあたたかい靴にしてプレゼントします。
「あとがき」を一部抜粋し、創作の背景をご紹介します。
-私は、阿寒湖アイヌコタンにある、アイヌ生活記念館に夏だけ働いております。ここでは、アイヌ民族が昔から使っていた道具の説明をします。たとえば、魚の皮、トドの皮、アザラシの皮、鹿の皮、ぶどうの蔓などで作った靴の説明をします。(中略)スキー板の裏に貼ってある皮とか、アザラシの皮の靴を指差して「これ、殺して作ったの?」「かわいそう…」と言って、子どもさんが涙目で私をうらめしそうに見られるときには、本当に困ってしまいます。(中略)ある日思い立って、「ばあちゃんが弱い子をいじめたりしなかったので、アザラシさんからのプレゼントなのよ。あなたたちも良い子にしていたら、サンタさんからプレゼンをもらうでしょ?」と言ったら、ある子は「ばあちゃん、良い子にしてたんだね」と安心したような顔をしたので、その後アザラシのプレゼントになり、この本の誕生となりました。-
弟子シギ子さん、ご協力くださった床みどりさん、下倉絵美さんに心より感謝いたします。ありがとうございました。
(聞き取りメンバー一同)