メンバー:八重樫志仁、八木亜紀子
場所:民芸喫茶ポロンノ
メンバー:飯沼佐代子、井上千晴、八木亜紀子
場所:生活記念館ポンチセ
- 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
- アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
- アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
- 掲載内容は2024年9月現在のものです。
豊かな漁場だった千代ノ浦
生まれは1944(昭和19)年。釧路市の千代ノ浦というところで育ちました。海と春採湖(はるとりこ)に挟まれた砂丘のようなところです。
父親は東部漁業組合に入っていました。あのあたりはすごく長い昆布が採れる。釧路には「昆布森」という地名もあるくらいで、漁場がすごくいいんですよ。ウニ、ニシン、アブラコとかコマイ、キュウリ(キュウリウオ)とか、とにかく色んな雑魚(ざこ)が捕れる。でもやっぱり、主な生業は昆布なんです。夏に採って組合に納める。雑魚は自分たちが食べて、5箱とか10箱とか捕れれば五十集屋(いさばや:仲買人)に売る。ハタハタもシシャモもよく捕れた。
魚は醤油味で煮て食べたり、シシャモは軽く干したりして食べました。家の前にばーっと干したシシャモは見事でしたよ。カジカやニシン、ハタハタ、コマイでオハウ(汁物)もつくりました。ハタハタの卵(子ども)のことを「ブリコ」っていうんだけど、ギンナンソウ(海藻)に産みつけたのが海が時化(しけ)た時に浜にあがってくる。それを拾い集めて、醤油と一緒に漬けて食べる。これがすごくおいしかった。最近はお目にかからなくなりました。
サケの定置網もやっていました。小林漁業部というのがあって、そこが専門に定置網をやっていました。もうひとつ、北島さんという元気なおばあちゃんがいる北島漁業部というのもありました。大きな船を持っていて、漁師を抱えて、定置網で秋味(サケ)を捕り、また、北洋漁業にも行っていました。男は船で雑魚を捕って、奥さん方と子どもたちは昆布干しです。
あと、船が着けば巻き上げと、近場の人が助け合っていました。 船は丸木舟ではなく、船大工さんにつくってもらった磯船を個々で持っていました。当時はエンジンはついていなくて、艪(ろ)でした。そのうち船外機(モーター)をつけられるようになって、千代ノ浦から弁天ヶ浜まで漁場にすることができるようになりました。近場では刺網もしたし、本当に海は豊かでした。
千代ノ浦はもう浜が波に削られてしまって、昆布を干す浜も無くなって、山あいに石を撒き散らした上に干しているくらいです。浜が少なくなったので、わざわざ昆布を山まで運んでいるんです。海岸線が侵食されて砂浜がなくなって、コンクリートの堤防ができて、景色もだいぶ変わりましたよ。
この辺のアイヌはほとんど漁師。白糠はツブ貝、ホッキ貝、カニ、タコとか今もたくさん捕れます。フォークみたいなのを海にざぶんと落として引っ張る「ホッキ引き」で捕っていた。夜なべして漁をやるんだ。白糠は今も水揚げが維持されているのは、漁場がいいからなんだね。
子ども時代の思い出 学校・炭鉱・春採湖
子どもの頃好きだったのは、やっぱり秋味(サケ)かな。この辺りは海で秋味を捕ります。沿岸の定置網か遠洋のサケ・マス漁。あと、子どもの頃の好物はサンマ!当時はトラックに山盛りにして運んでいて、肥料にするくらい捕れた。阿寒川にはシシャモとサケがのぼって来る。市のシシャモの孵化場があって、採卵しています。シシャモやサケが川を上るのはいいよね、黒々として、すごいよね。昔は刺網ですごく大きな、食べ応えのあるシシャモが捕れましたよ。もう今はそういうシシャモは食べられなくなりました。
小学校は家から歩いて30分くらいのところに釧路東栄小学校というのがあって通っていました。5年生の時に春採湖のそばに柏木小学校というのができて、小学6年生から移動しました。第一期生が俺たちなの。中学校は弥生中学校というのが弁天ケ浜の高台にあった学校に通いました。当時は「モデルスクール」なんて呼ばれる鉄筋コンクリートの立派な学校でした。
その先に弁天ケ浜の灯台があって、その下を石炭を運ぶ太平洋炭鉱の臨港鉄道が走っていたんだ。今は廃線になっちゃったけど、昔は太平洋炭鉱の有名なズリ山(炭鉱坑内から出る岩石などを集めてできた人口の山)があった。冬場は兄貴と鉄道のふちにいって貨車から落ちる石炭をほうきと塵取りをもって集めて、ソリに乗せて持ち帰ってストーブに入れて使ったね。フジキ式の粉炭ストーブだったよ。
とにかく子どもたちが多かったから、ビー玉、パッチ(めんこ)、タスキ(タッチ)とか、和人の子も一緒にみんなで遊んだね。アイヌ差別はなかったわけではないけど、僕はこんな顔だからいじめられなかった。兄貴の友だちはいじめられたから、強くなるために釧路の講道館に通って柔道を習っていました。
僕は高校を卒業してから家を離れたので、18歳くらいまでは千代ノ浦にいました。高校時代までは小学校時代から昆布干しも刺網も手伝いました。親が放っておかないからね。春採湖にはフナとかワカサギは少しはいたけど、漁をするほどではないわけ。子どもが遊びで捕る程度。春採湖は冬になると凍るので、子どもの頃は靴に昔式のバンドをつけて、よくスケートしました。
18歳で家を出てサラリーマンになりました。工業高校を卒業してボイラーの資格を持っていたので、中斜里にあるホクレンの製糖工場に技術者として就職しました。ビートを砕いてグラニュー糖をつくる工場です。十勝には大きな製糖工場がたくさんあります。先輩たちもそういうところに配属されていました。斜里は広い平野でビートを作っている農家も多くて、作付面積が大きく、安定した生産ができたようです。
お母さん(床タミさん)の思い出
おふくろ(床タミ)は白糠出身のアイヌで、おやじ(床助太郎)も千代ノ浦のあたりの出身のアイヌ系です。祖父母は僕が物心つく頃にはもういなかったです。白糠のおふくろのおばあちゃんが、唇の先に少し入れ墨(シヌイェ)をしていました。
厚内や白糠にアイヌ系の網元はけっこうありましたよ。母親の弟も白糠で漁師をやっていました。僕は小さい頃は体が弱い子だったんだけど、秋味(サケ)のめふん(血合いの塩漬け)とかチタタプ(肉や魚を細かく刻んで食べるアイヌ料理)とか白子とか筋子とか食べさせてもらって、体が丈夫になりました。
おふくろが小さい頃は困窮していて、その頃が一番苦労したと聞いています。おばあちゃんは7人の子どもをたった一人で育てたといいます。おじいちゃんはジョン・バチェラー3に引き抜かれて札幌に連れていかれて、測量士になり、ほとんど帰ってこなかったそうです。おばあちゃんは山に行って山菜採ったり、働いたり、とくにかく苦労したらしい。そうやって、うちのおふくろときょうだいの面倒をみたんだね。
そのおふくろも、7歳から番屋の飯炊き奉公もして働き詰め。今だったら考えられないよね。「タミは何でもできるから、うちに来ないか。養子にならないか」とあちこちから引き抜きがあったらしい。
おばあちゃんが3人目の旦那と一緒になった時にやっと少し学校に行かせてもらったと、『久摺(クスリ)第1集』に書いてあるよ。おふくろは、おばあちゃんから色んなことを習ったんだって。着物を仕立てるのも刺繍をしたりするのも上手だったね。釧路に来てからおやじと結婚してからは、おやじが目が悪かったから一緒に船に乗って「船頭」として漁をしていたね。
おふくろのもうひとつすごいのは、近所の人の手首や首なんかの「筋違え」を直していたこと。「痛いとこ触ってもダメだ」って言って、別のところをなでたりさすったりして「ほら、はいった」と直すんだ。「どうしてかっちゃん(お母さん)はそういうことができるの?」って聞いたことがあるんだけど、「子どもの頃からやってるからね」って言ってた。
おふくろにはトゥス(占い、呪術)っていうか、人を見る目、そういう感覚もあったのかなと思う。千代ノ浦には「千里(ちさと)のババ」と呼ばれていた人もいて、「具合悪いなら、“かみさま”にみてもらえばいいべや」と言ってトゥスの人にみてもらうとすっきりする。そういうことがあった。
おふくろがアイヌのメノコブリ(主に高齢の女性が行う習慣)っていうのかな、小さな儀式をしているのは見たことがある。小さな火鉢に刻みタバコを入れて、心の中で何か言っていた。占いのようなことをしては、「よし」、「行ってこい」、「がんばれよ!」とか言っていたね。
おふくろは着物をたくさん作っていて、家族や孫が着る着物も作ってくれました。コタンの行事のために頼まれて、トノト(お酒)をつくるのも見たことがあります。火の神様に供物をやったり、トノトをつくったりするのは女性たちがやっていました。うちにもシントコ(行器・ほかい)がありました。
おやじは一切アイヌ的なことはしなかったです。うちにはヌサ(祭壇)は無かったし、カムイノミ(儀式)もしないし、見たことはない。
20代からはじめた「アイヌのこと」
「アイヌのこと」は、そうですね…、釧路にいたときはチカップ美恵子さんがいたから見聞きはしていました。20代の頃にホクレンを辞めて釧路に帰ってきた頃に、ペウレ・ウタリの会4があって入会したんだ。会報を読んだり、会合で集まったりと、自分より若いか同じ年くらいのアイヌが参加していた。
当時は釧路市立博物館の澤四郎さんによく面倒をみてもらい、相談にも乗ってもらいました。澤さんは釧路の埋蔵文化に詳しく、貝塚の研究もしていました。今の釧路市立博物館には踊りで参加したり、兄貴(床ヌブリ)5のレリーフが飾ってあったりしますよ。
22歳の頃に阿寒に来て、それから兄貴のところに弟子入りして木彫りを覚えたの。熊の木彫りからはじめて、ペンダントとか髪留めとか、いろいろ作りました。1970年代で、加藤登紀子の「知床旅情」が大ヒットして「知床ブーム」がはじまり、阿寒にどっと観光客が来るようになった。
そこで稼いで、春にお見合いして、冬に結婚したの。阿寒のコタンには浦河までアイヌのシントコとかトゥキ(うつわ)とかパスイ(棒酒箸)なんかの古物を買いつけに行っていた人がいて、その人が「浦河にこういう人がいるからどうだ」って(妻を)紹介してくれたんです。浦河とか日高には古物を持っている人がけっこういたのかな。だから、浦河の道具もけっこうこっち(阿寒)にあって、イトッパ(家紋)がついた盃を持っている人もいますよ。
はじめは、ほかの人の店先を借りて木彫りをやっていました。そのうち、前田さん(前田一歩園財団)6の許可をもらって、まだ店を構えていない人のために小さい店を7、8軒まとめて建てることになったの。大工さんの手間賃はみんなで払いました。小さい店がくっついているものだから、昔はそこを「ハモニカ長屋」なんて言っていました。そこで自分の店を持って、木彫りをやり、民芸品を扱っていました。
「チキサニ」から「ポロンノ」へ
そのうち、今の店(ポロンノ)がある場所が売りに出た。一店まるごと買う余裕はなかったところに「半分ずつ誰かと入らないか」という話があって、一大決心をしてお金を借りて入ることにしました。
店の名前は「民芸の店 チキサニ」とにしました。チキサニというのはハルニレ(春楡)のアイヌ語です。店名の下に小さく「ハルニレ」と書いた看板を自分でつくって、床も自分で敷き直しました。ハルニレというのは、アイヌにとっては火の神様とつながりのある木なんです。あと、『コタンの口笛』という映画にもなった小説があるんだけど、子どもがハルニレの木に登る場面があって、「ハルニレには子どもを育てる力があるんだな、魅力的な木だな」とすごく印象に残ったんです。僕にはハルニレの木に切り離せない思いがある。
はじめは民芸品だけ扱っていました。アイヌコタンの商店街では、みんな店先に立って「いらっしゃい」ってお客さんを呼び込むのだけれど、うちはそういうことをするのが得意じゃない。妻と相談して「コーヒーを出せばお客さんが入ってくるんじゃない?」ってことになった。店の奥のスペースに自分でカウンターをつくって、そこでコーヒーを出して、店の前半分は民芸品を置いていました。そして、「お客さんにゆっくりしてもらうには軽食もあった方がいいね」と、妻の出身の浦河で有名なコンブシト(昆布の団子)とイモシト(いも団子)を出すことにしました。釧路ではコンブシトは食べたことがなかったけれど、浦河ではイチャルパ(先祖供養の儀式)には必ず出る。食べたらおいしくてびっくりしました。
そのうちに民芸品が頭打ちになってきたので、思い切って民芸品は全部やめて、飲食だけの店にすることにしたんです。
テーブルや椅子は息子につくってもらって、その時に店名を「民芸喫茶 ポロンノ」に変えました。ポロンノはアイヌ語で「大きい、たくさん」という意味。お客さんがたくさん来る店になったらいいと思ってつけました。
ご飯ものやサケや鹿のオハウ(汁物)、めふん(サケの血合いの塩漬け)なんかのアイヌ料理を出しました。当時はアイヌ料理を出している店はありませんでしたよ。
このところ鹿が増えすぎているけど、鹿肉はもっと利用した方がいいと思います。ポロンノでも扱ってますが、阿寒の飲食店でも大々的に打ち出すようになってきました。
そうそう、今、ウポポイから頼まれて「ふんだりけったりクマ神様」という人形劇の練習をしているんですよ(2024年10月18日~11月10日に開催された「阿寒湖アイヌコタン 伝統ト革新展」で上演)。しばらくやっていなかったのを、コタンのみんなが集まって練習してるの。金成マツ7のウエペケㇾ(伝承、昔話)を元にした、いろんな神様が出てくる面白いお話なんです。以前には人形劇ではなくて、お芝居にしてパリ公演もしたことがありますよ。
コタンでは木彫りやシアター、ツアーなど、いろいろなことにみんなで一緒に取り組んで仕事にしてきました。そういう意味では、阿寒のみんなでやってきたことは自負できます。
(まとめ:八木亜紀子)
森歩きコースツアーに参加しました!
2024年9月の2回目の聞き取りの際には、床さんのガイドで阿寒湖周辺の森歩きコースツアー(阿寒アイヌ工芸協同組合主催)に参加しました。アイヌの着物をまとった床さんに迎えられたわたしたちは、散策用の棒、ムックリ(口琴)、「Anytime, Ainutime」と書かれたアクセサリーを身につけて阿寒湖アイヌシアター 「イコㇿ」を出発。森を歩いて様々な樹木を見ながら、アイヌの生活とどのように結びついていたかを教えていただきました。途中、ムックリの体験もして90分のツアーはあっという間に終了しました。(井上千晴)
- チカップ美恵子(1948年-2010年):アイヌ文様刺繡家、文筆家。「チカップ」とは、アイヌ語の名詞「cikap」で「鳥」という意味。山本多助エカシは伯父。1985年、アイヌ民族が死滅したことを宣告する書物「アイヌ民族誌」にに自分の写真が無断で掲載されていることを知り、著者を東京地裁に提訴(アイヌ肖像権訴訟)。1988年に和解した。 ↩︎
- 山本多助(1904年 – 93年):アイヌの文化伝承者・著述家。若い頃より民族文化に関心を持ち、古老の聞き取りに取り組んだ。 ↩︎
- ジョン・バチェラー/John Batchelor(1854年-1944年):イギリス人の聖公会宣教師。半世紀以上にわたって、アイヌへの伝道、アイヌ文化およびアイヌ語の研究、困窮するアイヌの救済に尽力した。 ↩︎
- ペウレ・ウタリの会:ペウレはアイヌ語で「若い」、ウタリは「同朋」という意味。1964年に阿寒湖アイヌコタンでアイヌ民族と和人の親睦団体として発足し、活動を続けている。 ↩︎
- 床ヌブリ(1937年-2014年):木彫作家。1968(昭和43)年の阿寒アイヌ文化保存会結成時より参加し、ユカラの劇化に取り組んだ。 ↩︎
- 前田一歩園:「阿寒前田一歩園」は初代園主・前田正名が手がけた事業体のひとつ。1906(明治39)年に国有未開地の払い下げを受けて、牧場として拓いたのがはじまり。現在は一般財団法人前田一歩園財団として森林保全事業、自然普及事業、土地貸付事業、温泉事業などに取り組んでいる。阿寒湖アイヌコタンは、3代目園主・前田光子氏が厳しい生活を強いられてきたアイヌ民族の生活を守るため私有地を無償で貸与したのがはじまり。 ↩︎
- 金成マツ(1875年~1961年):北海道幌別郡幌別村(現:登別市)出身のアイヌ口承文芸伝承者。言語学者の金田一京助が「私が逢ったアイヌの最後の最大の叙事詩人」と評したモナシノウクを母に持ち、受け継いだユカㇻ(英雄叙事詩)などをノート約160冊にローマ字で筆録した。『アイヌ神謡集』を編訳した知里幸恵は姪で養女、アイヌ語研究者の知里真志保は甥にあたる。1956年に無形文化財保持者に指定され紫綬褒章を受章。 ↩︎