瀧澤 正
明治初期、開拓使はそれまで北海道の海浜を支配していた場所請負制を廃止した。続く海浜・漁業をめぐる混乱の中で、アイヌはどう生きようとしたか、その姿を探ります。(2024年6月28日、さっぽろ自由学校「遊」での講演から。)
たきざわ・ただし 1943年、北海道岩内町生まれ。山形大学文理学部卒業後、北海道で高校教員となる。2009年、北海道大学大学院文学研究科歴史地域文化学後期博士課程(日本史学)単位取得退学。博士(文学)。構成作品に『おれのウチャシクマ あるアイヌの戦後史』(小川隆吉著、2015年、寿郎社)。
明治初期――日本政府がアイヌ先住権を抹消した時代
今日のテーマは、「漁場改正」のなかでアイヌはどう生きたか――。この「漁場改正」が実施された明治初期というのは、先住民族アイヌが主権をはじめ、伝統的に有していた諸権利をまったく抹消されてしまって、経済的にも社会的にも非常に苦しい状態になる、その始まりの時期にあたるんですよね。この連続講座は「森・川・海のアイヌ先住権」がメインテーマですので、そこから外れないように気を付けながら、お話ししたいと思います。
「漁場改正」は、1876(明治9)年、開拓長官だった黒田清隆(1840 – 1900年)が、北海道海浜の土地所有がなかなか進展しないことに業を煮やして、その促進を号令した文書で、その命令を受けたのは、北海道現地の開拓使です。
その前後10年ほどの間で、アイヌはどのように生き抜こうとしたか、その具体像の一端を、きょうはお話ししたいと思います。
とはいえ、やはりそれ以前、江戸時代末期のアイヌのおかれた状況もある程度、知っておいたほうがよいでしょう。これがその後の権利(侵害)に深くかかわってきます。
江戸期の「場所」=地元アイヌの伝統的占有領域
こちらは18世紀末ごろの蝦夷地(えぞち)における「場所(ばしょ)」の位置図です。ご覧のように、現在の北海道島の海岸に、当時はくまなく「場所」が置かれていたことが分かります。これらの拠点でいわゆる「場所請負制(ばしょうけおいせい)」が展開され、和人経営者が先住民族アイヌから(生産物や労働力を)搾取したわけです。
ここでいう「場所」とは、松前藩が、一定のアイヌ集団とその集団が占有する漁猟場を指定して、それぞれ有力な家臣に割り当てた、一種の支配権のことです。1630年ごろにこのシステムができた当初は「商場(あきないば)」と称し、藩主が、コメに代わる「知行(ちぎょう、収益のこと)」としてそれを家臣に分け与えるシステムなので、後に「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」と名づけられました。当時の松前藩が蝦夷地に張り付いて生き残るための、これが基礎構造だったと言えると思います。
注目すべきは、この商場知行制が、アイヌをその土地に緊縛して生産に従事させる機能を果たした、という点です。蝦夷地に限らず、支配者が人民を土地に縛り付けて搾取するのが、江戸幕府自身の基本構造でしたから、商場知行制はそれを松前藩が蝦夷地に適用したシステムだった、と言えるかもしれません。
この制度のもと、アイヌたちは「場所」外へ自由に移動することができなくなりました。徳川家康・江戸幕府初代将軍が松前藩主に発給した「黒印状(こくいんじょう)」(1604年)には、アイヌに移動の自由を保障する内容の条項がありましたが、商場知行制が導入されると、それはもはや不可能となります。松前藩が成立する以前(~17世紀)、アイヌは自ら生産物を携えて今の青森県などに交易に出かけていましたが、そうした自由も封じられました。
1720年代になると、日本では「享保(きょうほう)の改革」の時代ですが、松前藩の上級武士たちは特定の商人たちから「運上金(うんじょうきん)」と呼ぶお金を取って、代わりに「商場=場所」の利権を彼らに渡し始めます。場所請負制の始まりです。
経営権を丸ごと委譲された商人たちの「商行為」は、やがて掠奪(りゃくだつ)と呼ぶべきものに変わっていきました。
ところでこの時、アイヌ側は和人側と生産物の価格について交渉したでしょうか? 僕は、アイヌは価格交渉をしなかった、と考えています。アイヌの価値観では、交易は「お金儲けのための行為」ではなかった。アイヌにとっての「交易」とは、あくまで物々交換であって、江戸時代末期にいたっても、その考え方は変わらなかったんじゃないでしょうか。江戸末期の「場所」では、一部のアイヌは労働者として働きますが、給料は貨幣ではなく、賃金に相当するモノで支払われています。ここにも物々交換を重視する姿勢が読み取れます。
さて、「アイヌの先住権」と聞いて、みなさんは何をイメージなさるでしょう? 僕は、この「場所」こそアイヌの先住権の実証的根拠そのものだ、と考えています。少なくとも松前藩は、アイヌの人たちが伝統的に占有していた漁猟領域を、ひとかたまりの「場所」と称して、自分たち(松前藩)の生きる土台にしたわけです。とすれば、逆説的ですが、この「場所」の位置や規模こそが、当時のアイヌの人たちの先住権の実態を示していると考えていいんじゃないか、と思うのです。
ここまでをまとめると、商場知行制から場所請負制へと変貌しつつ、北海道アイヌとの交易の主体が、松前藩上級武士から商人に転換してきたというのが、この時代の姿だったというわけです。
北海道を私有地化せよ――開拓使の本命業務
次に開拓使の時代がやってきます。開拓使は1872(明治5)年、北海道の土地をいったん全部「官有地」にして、それをしかるべき相手に貸す、もしくは売りさばく、という政策を取りました。これが開拓使の北海道における「本命の仕事」だったと言っていいでしょう。これを実行するために開拓使が講じたのが「北海道土地売貸規則(ほっかいどうとちばいたいきそく)」と「地所規則(ちしょきそく、じしょきそく)」でした。2つ並べて同時に布達されています。北海道土地売貸規則に何が書かれているかというと……。
北海道土地売貸規則 1872(明治5)年

国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-10-12)
原文 | 現代語訳 |
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第一条 原野山林等一切ノ土地官属及従前拝借ノ分目下私有タラシムル地ヲ除ノ外都テ売下地券ヲ渡永ク私有地ニ申付ル事 | 第1条 「官属」の土地・すでに(人民に)レンタル中の土地・すでに私有済みの土地を除いて、原野・山林などを含むすべての土地を売却して地券を渡し、永久に私有地とする。(他の条文を読む) |
〈原野山林等一切ノ土地〉というのは、「北海道の全部の土地」と考えてよいでしょう。もちろんもともとはアイヌの土地なんですけど……。次の〈官属〉は、開拓使の役所が使うために占有している土地のこと。役人の住まい、役所の事務所の建つ土地なんかは「官属」です。続く〈従前拝借ノ分〉は、「これまでお前たちに貸していた分」「お前たちが借りていた分」という意味。「土地は国のもの」という前提で、それを「お前たち人民に貸してやっている」という書き方になっていますね。で、それら以外の土地をすべて〈売り下す〉と言っています。これが開拓使の本命です。そして、土地を売り下した相手には〈地券を渡す〉。地券は、土地所有者であることの証明書です。本州方面の地租改正(1871年~)に合わせたやり方で、北海道土地売貸規則によって北海道における地租改正が始まった、と言えるでしょうし、北海道における土地所有制の始まりを宣言するものでもあった、と言えると思います。
この土地売貸規則は「太政官布告(だじょうかんふこく)」、つまり全国民に向けて発せられたものです。以降(本州島以南から)北海道に移民を呼び寄せることになる、その最初の宣言文だったと考えていいと思いますね。
じゃあ、その土地売貸規則にまるでつけ加えられたように発布された地所規則とは何だったのか。これまで歴史学研究者たちの多くは、「政府は北海道土地売貸規則・地所規則を規定し、北海道の土地を切り売りした」と、ふたつをワンセットにしてあっさり記述してきました。でも僕に言わせると、北海道地所規則は決して従属的なものではない。1872(明治5)年現在、現に北海道に住んでいる人民、まず第一にアイヌ、ついで場所請負制の下で働いていた漁民たちとその指導者たち――和人です――、そうした北海道現住の人民に土地を分け与えるために作られた法律なんです。
開拓使が想定した「アイヌ共同体の土地所有」
アイヌに言及があるのはその第7条です。
北海道地所規則 1872(明治5)年

国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-10-12)
原文 | 現代語訳 |
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第七条 山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改メ是又地券ヲ渡爾後十五年間除租地代ハ上条ニ準スヘシ尤深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑ク此限ニ非サル事 | 第7条 これまでアイヌが漁猟や伐木を仕切ってきた山林・川・沢などの土地も、新たに区分けして個人所有者を決めるか、あるいは「村請け」にして、同じように(「私有地」として)地券を発行し、15年間免税とする。「私有地」とした後は地代納付は不要である。ただし、山の奥深く、地勢のはっきりしない谷、人跡未踏のエリアについては、土地の所有者確定作業はしばらく留保する。(他の条文を読む) |
この第7条はまず、これまで先住民(アイヌ)は土地を種類で区分したり、「誰それの土地」といったふうに切り分けていなかったから、その区分を立てなさい、と言っています。ここでいう「持主」とは、現にその場所で「漁労・伐木」している人、つまりアイヌたち個々人を指しています。ただし、アイヌは従来(個人・個人ではなく)共同体がそのエリアを占有してきたわけですから、実際にはこの方法はほとんど成り立ちません。和人ふうの「持主」というあり方をアイヌに押しつけているわけです。
土地所有権者として「村請(むらうけ)」という言葉も出てきます。本州以南にあって江戸幕府支配下の農民たちは、村ごとに共同体として年貢を上納してきたわけですが、それが村請け制(村全体をその土地所有権者とみなすやり方)です。明治政府が断行した地租改正は、本州以南では旧来の村請け制を全廃しました。北海道でその村請けにあたるものとして、太政官はアイヌ共同体を想定していただろうと、僕は解釈しています。
ただし、この「村請」の意味について、たとえば高倉新一郎・北海道大学名誉教授(1902-1990)の解釈は、僕とは違って、「アイヌの土地を区分して、すべて和人に下付した」と解説しています。また、それ以降の北海道史研究者のみなさんもだいたい、その解釈を支持しています。北海道地所規則第7条にいう「村請」が、アイヌの共同体をも対象にしていた、との見方は、わたくし瀧澤正の固有のものです。
話を戻すと、地所規則第7条は、そうして個人所有や「村請け」にした土地は15年間は税金は取らず、地代も取らない、つまり現に北海道にいる人にはタダで土地をやる、といっているわけですね。
ここでもういちど先ほどの地図をご覧ください。第7条にある〈従来土人等漁猟伐木仕来シ地(これまでアイヌが漁猟や伐木を仕切ってきた土地)〉とは、先ほど申し上げたアイヌ共同体が、文字どおり共同で所有し、そこを流れている川で魚を捕り、そこに含まれる山林で狩猟をする、そういう領域のことを指していると考えられます。かつて松前藩は商場知行制を敷いたさいに、そうしたアイヌ共同体の領域をひとつの単位と見なして、それぞれに「商場(あきないば)」を設定しました。後にそれが場所請負制に移行すると、それぞれの土地がそっくり各場所に割り当てられました。この地図に記された「場所」が、アイヌ共同体の領域――北海道地所規則第7条がいう〈従来土人等漁猟伐木仕来シ地〉――に当たる、というのが僕の考えです。
アイヌが権利を剥奪された瞬間
さて、北海道現地の開拓使はこの北海道地所規則第7条を実施すべく、施行規則案をつくって東京の黒田清隆・開拓次官に提案しますが、認められないまま4年が過ぎます。開拓使が「もう返事を待てない、実施します」と迫ると、黒田長官はようやく「すべて北海道土地売貸規則第1条に従え」との命令を下しました。北海道地所規則第7条は無効、というわけです。これが、明治期の法律において、アイヌが権利を剥奪された瞬間ではなかったか、と僕は思います。
さて、明治7(1874)年11月7日付の太政官布告第120号で、「地所名称区別」が改正されます。地租改正をやろうとしたら、いろいろ難しい問題が出てきたものだから、とやかく言われそうなところはいったん全部「官有地」にしちゃおう、そういう布告です。官有地には「第1種」から「第3種」まであって、そのうち第3種はこんなふうに定義されました。
明治7年11月7日太政官布告第120号(改正地所名称区別)から
第三種 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス唯人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時ハ其間借地料及ヒ区入費ヲ賦スヘシ
一 山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサルモノ
一 鉄道線路敷地
一 電信架線柱敷地
一 燈明台敷地
一 各所ノ旧跡名区及ヒ公園等民有地ニアラサルモノ
一 人民所有ノ権理ヲ失セシ土地
一 民有地ニアラサル堂宇敷地及ヒ墳墓地
一 行刑場
現時点で私有地になっていない場所は、山だろうが川だろうが、全部「官有地」、つまり国有地だと言っています。アイヌから所有権を奪ったうえ、アイヌたちが現在も住んでいる場所も全部、官有地に繰り入れた、ということです。さらに、〈人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時ハ其間借地料及ヒ区入費ヲ賦ス〉、欲しい人には切り売りもするし貸しもする、と書いてあります。アイヌが現に住んでいる場所でも、原則として全て官有地だから、どんどん入植してくる和人たちに(開拓使は)売ったり貸したりできる、という規則です。これが、これ以降のアイヌの人たちの生活を苦しめることになります。
同じ時期、開拓使は河川でのサケ・マス漁にも強い規制をかけ始めます。開拓使は1877(明治10)年、北海道の全ての支川(支流)を禁漁対象にします(開拓使乙第30号布達)。さらに追い打ちをかけるように、 1878(明治11)年、札幌郡内で「飯料取(はんりょうとり)」を含む全てのサケ・マス漁を禁じます(開拓使甲第43号布達)。場所請負制の時代から、漁場で働くアイヌたちは、出荷ノルマとは別に、自分たちの食料にする限りにおいて自由にサケ・マスを捕ることを許されていて、それを「飯料取り」と呼んでいたのですが、開拓使はこれすら禁じました。主食であったサケ・マスを捕れなくなったアイヌはいよいよ困窮してしまいます。「明治10年」前後は、アイヌに対して最も強い重圧がかかった時期だと思いますが、これ以降、アイヌたちは従来通りに飯料取りをしただけでも「密漁者」とみなされるようになりました。
この時代、政権はまずこんなふうに土地制度の方面から、アイヌの生活をじわじわと追い詰め出したわけです。おまけにどうやら、僕も開拓使文書の全てをチェックしたわけではありませんが、開拓使はこれらの政策をアイヌ側に告知していなかったようです。官僚は知っているし、入植した和人たちはそれぞれ郡役所の役人たちから聞かされていただろうけれども、最もその影響を受けるであろう肝心のアイヌの人たちには知らされていなかったという感じがします。だとすれば、これは今後も残る大きな問題じゃないか、というふうに思います。
アイヌの権利が消滅すること――日本政府に奪われることと言い換えてもよいですが――、それが当の本人たちに明確に知らされないまま、本人たちが認知しないまま、執行されていく、そういう時代がやって来たわけです。
ポスト場所請負制時代の4つの選択肢
アイヌの人たちの生活がこんなふうにギリギリと締め上げられるなか、ただ場所請負制だけは廃止されました(1869=明治2年)。高倉名誉教授などはこれを評して「アイヌは場所請負制の束縛から解放された」といった文章を残してらっしゃる(たとえば高倉『アイヌ政策史』日本評論社、1942年、p406-など)。でも果たしてこれは「解放」と言えるのか? 逆に「アイヌの人々を近代化の荒波の中に裸のまま放り出した」と批判的に表現する研究者たちもいます。
場所請負制は、それまで200年間も、蝦夷地=北海道に取り憑いて、もはや物流に欠かせないシステムだったわけですよね。場所請負制の下で商人たちはアイヌの漁獲物を商業ルートに乗せてもいたし、本州方面からの必需品をアイヌに供給する役割も果たしていました。これが急に消滅したわけですから、それによって物流の途絶える地域もいっぱい出てきました。これもまた新たな困難としてアイヌの人たちにのしかかってきた。
こうした制約をこうむりながら、アイヌの人たちはどのように暮らしを立てようとしたのでしょうか。僕は4つの選択肢があったと考えています。
1つは、土地の私有が少しずつ始まる中で、自分も土地を所有して漁業を続ける、という道です。北海道の土地の私有化は、まず海産干場(かいさんかんば)と呼ぶ種別の土地から始まったと考えられます。漁業を営むのに使う用地として海岸沿いに設定される土地で、北海道に特有の土地種別です。
2つ目は、海産干場の私有は無理でも、まだ他の人が私有していない海産干場(「官有地第3種」に含まれる)を、政府に借地料を支払って借りて、そこで漁業をする、という選択肢。
3つ目は、「漁場持(ぎょばもち)」の雇用に応じて漁場で働く道。この道を選んだ場合は、江戸期の場所請負制とあまり変わらない、厳しい労働環境を覚悟しなければならなかったでしょう。漁場持ち制は1876(明治9)年まで続きますが、この道をたどった人は、もはや上昇のチャンスをつかむことはできなかったと思います。自分で土地を持つ将来の可能性も失い、ずっと「雇い漁民」のままです。
そして4つ目は、“法の隙間”で漁業を続ける道。たとえば「官有地第3種」と言われても、海面は切り分けられません。規則によって海岸の土地が「海産漁場」に設定され、漁民はその前浜に面した海域で魚を捕ることになりますが、別の場所から水上をやってくる他の人たちを排除することはできません。とりわけ、ニシン漁の盛んだった日本海側では、アイヌの操る小さな舟が、漁場持ち配下の大きな漁船のまわりで刺し網漁をしていましたが、違法漁業(密漁)とはされませんでした。たとえば余市アイヌには、役所から「網持ち土人」と呼ばれる漁民たちがいて、ニシン漁で暮らしを立てていました。詩人・違星北斗のお兄さんもその一人だったでしょう。
いっぽう、先ほども述べたように、河川での漁には厳格な規制が講じられ、開拓使は各河川に監視人を配置して密漁者を取り締まっています。その報告書を読んだことがありますが、たとえば根室県では、「こんな大森林にたった2人の監視人では目が届かない。人員を増やしてほしい」といった現場官吏からの上申書が提出されたりしています。一遍の法規では、アイヌの事実上の権利行使はなかなか制圧できなかったことが想像されます。
漁場を確保したオホーツクのアイヌ漁業者たち
以上、この時代のアイヌの漁民たちのたどったであろう4つの選択肢を挙げました。今度はその具体例を地方ごとに追ってみましょう。
オホーツク地方の有力な場所請負業者に「藤野家」があります。紋別(もんべつ)場所から常呂(ところ)・網走(あばしり)・斜里(しゃり)場所まで、広大な範囲を支配していました。藤野家は、場所請負制廃止後(明治2=1869年)も「漁場持ち」の認可を受けて営業を続けていましたが、不漁が続いた1876(明治9)年、藤野伊兵衛の決断で全ての漁場経営から撤退してしまいます。困惑したのはハシゴを外された雇い漁民たちです。表1は当時のアイヌ漁民の人数です。これだけのアイヌ漁民が藤野漁場持ちのもとで給料を得ていました。
紋別郡・常呂郡 | 斜里郡 | 網走郡 | |
アイヌ漁民数 | 495 | 200 | 300 |
うち藤野雇用 | 170 | 80 | 100 |
おそらく漁師たちは和人であれアイヌであれ危機感を抱いたことでしょう。ちょうど鱒(マス)漁期が目前に迫っていて、これを逃せば稼ぎを失ってしまいます。そこで一人の和人を総代に、開拓使に対してこんな請願が出されています。
別紙の漁場当分私共始め古民四郡寄留人一同に拝借仰付けられたく……
「私共」と自称する和人たち(「寄留人」)は、すでに海岸のいくばくかの土地を国から「下付」されていたと思います。「古民」はアイヌを指す言葉です。同じ時期、道内で「自分も漁場を持ちたい」と希望するアイヌが開拓使に海産干場の割り渡しを申請した書類が残っていますが、それを見ると、「古民※※※」と署名している人が少なくありません。和人と区別して「古民」を自称したのだと思います。上の請願は、そんな自分たちにこの漁場を貸してほしいという内容で、その後、彼らは無事にこの夏のマス漁に参入できました。
その人たちがその後どうなったのか、完全には追跡できていませんが、藤野家撤退から3年後の「地券調査録」をチェックしてみました(表2)。
斜里 | 網走 | 常呂 | 紋別 | |
漁場(海産干場)数 | 9 | 12 | 4 | 28 |
うちアイヌ名 | 1 | 7 | 0 | 20 |
場所請負人/漁場持ちによる支配が消えて、これだけの個人が漁場(海産干場)を得たわけです。ただし、和人もアイヌも、すべて「(国からの)貸地」です。アイヌ名が多いのは紋別ですが、ある意味、紋別のアイヌ集団は意識が高かった、と言えるかも知れません。書類づくりは和人に代筆させたにせよ、「漁場願い」の文書を開拓使に正式に提出した人が多かった。その申請書には名前のほか、所有漁船の有無、所有する漁船の種類、網の数、漁場で働く人数まで細かく記載されています。役所はそれを認めて漁場を貸し下しています。
もしかするとその中には、2019年に紋別市の藻鼈川で、先住権を主張してあえて許可申請せずにサケを捕って送検された紋別アイヌ協会の畠山敏会長のご先祖もおられたかも知れません。

日高のアイヌ漁民に土地所有者が多かった理由
今度は日高の例です。この地方は、すでに江戸期から昆布の大産地として知られていました。1890(明治23)年時点のアイヌの戸数と漁場所持数をみてみましょう(表3)。
静内 | 三石 | 浦河 | 様似 | 幌泉 | |
アイヌ戸数 | 286 | 67 | 151 | 56 | 29 |
漁場所持 | 195 | 62 | 147 | 54 | 16 |
「漁場所持」は、地券調査録に登録された借地(海産干場)の数ですが、他の地方に比べてかなり多い、という印象を受けました。昆布漁はちょっと特殊で、1人ないし2人乗りの小舟で水上から海底の昆布を収穫し、舟に満載して浜に戻ったら、地面に広げて天日に干します。そのために使う土地が「干場」です。後年、この時期の記録を調べたある行政史研究者が「不思議なことに日高地方ではアイヌ戸数が増えている」と述べたことがありましたが、それはこのような特殊な生産基盤のため、他の地域より生活が楽だったからでしょうか。
また、表3に示した漁場所持数は大半が「貸地」ですが、様似(さまに)だけは例外です。様似で商売をしていた「矢本蔵五郎商店」に、「土人(=アイヌ)勘定帳」という記録が残されていて、それに読むと、1879(明治12)年の時点で14人のアイヌが地券を取得していたことが分かりました。貸地ではなく、所有地です。他の地域でこうした事実が確認されたことはなく、特筆すべき特徴だと思います。
また、1877(明治10)年の様似郡の記録をみると、昆布収穫実績を持つ漁師が48名いたことが分かります。このうち昆布採り舟「持符(モチㇷ゚=小さな・舟)」の所有者は37人です。モチㇷ゚はアイヌ特有の手造りの小型の舟です。モチㇷ゚のない残る10人あまりの人は、ほかの人の舟に乗り組んだり、素潜りで収穫に臨んでいた人もいたかもしれません。
漁業交流の伝統を維持しようとした余市・忍路アイヌ
次は日本海側の余市(よいち)の例です。19世紀中ごろの余市沿岸は、ニシン、サケ、アワビ、ナマコの好漁場として知られていました。この地方はアイヌ人口が多く、日本海岸では最大規模のアイヌ集団が形成されていたようです。余市場所を請け負っていたのは林家で、記録によれば、その漁場に雇用されていたアイヌは152人、和人の雇い漁民は102人でした。
その余市場所で1858(安政5)年、いよいよ明治維新(1868年)が近づいてきたころですが、江戸幕府の出張所(「余市御用所」)に対し、地元・上余市(かみよいち)在住の「惣乙名(そうおとな)名代イコンキリほか5名」が、連名でこんな願書を出した記録が残っています。
……総べて秋味漁業の儀は忍路・余市申し合わせ相稼ぎ候儀と相聞き申し候、既に漁業取りかかり候節は余市場所へ忍路土人罷り越し網下ろし祝儀仕り、夫れより漁業に取りかかり申し候、且つ又忍路土人飯料ノ儀は余市川漁業仕り仕来りに御座候……(通辞和文訳)
【現代語訳】
……余市場所(漁場)での秋味(サケ)漁業に際して、これまでも忍路アイヌと余市アイヌが互いに申し合わせて、同じ漁場でいっしょに働いて収入を得てきました。漁業シーズンを迎えたら、余市場所に忍路アイヌが集まって、網下ろしのお祝い(宴会)を開いてから、漁業に取りかかる決まりです。また、忍路アイヌは余市アイヌと同じように、飯料(給与)として余市川でサケを捕ってもよいことになっています。……
忍路(おしょろ)は、余市から東に8kmほど離れた地区の名前です。余市アイヌと忍路アイヌ、ふたつの異なるアイヌ集団が、林家支配下の余市場所で漁業に従事しながら、飯料取りの場面では余市川を共有してサケ漁をしていた様子がうかがえます。
この状況が明治維新を経てどう変わったでしょうか。余市アイヌたちは、林家から漁網の借り受けてサケ漁・ニシン漁を続けることになりました。それまでの習慣、自分たちが魚を捕る権利を持続するために、場所請負人→漁場持ちの林家と交渉して、そのような漁業が成り立ったんだと思います。そんな「網持ち」の一人が違星北斗のお兄さんだったんじゃないでしょうか。
十勝川アイヌ漁民の集団闘争
最後に十勝地方を見ましょう。ここでは、十勝川のサケ漁場をめぐって先住民たちが開拓使に対して激しい集団闘争を繰り広げていたことが知られています。幕末期、十勝地方全域で場所経営を請け負っていたのは杉浦嘉七という商人ですが、明治維新後の場所請負制廃止に伴って「漁場持」に転じた後、1875(明治8)年、請け負いを放棄します。杉浦はその際、支配下にあった漁場と漁具をすべて、十勝一円のアイヌたちに渡しました。アイヌたちは共同組合をつくって漁業を継続し、大漁にも恵まれて早くも1879(明治12)年、杉浦家から受け取った漁具代金2万5900円を償還したうえ、5万3800円の蓄えを得ます。その後は不漁で金額は3万4261円まで目減りしますが、現在の貨幣価値に換算すればそれでも何億円という大金です。この金をなくさないように、あるいは利殖を図るために、アイヌ漁民たちは1886(明治19)年、北海道庁理事官にこの資金の運用を依頼します。理事官はこの金を北海道製麻会社や札幌製糖会社(いずれも国策会社)に投資しますが、ことごとく失敗し、元金もふくめ、アイヌに戻った金はありませんでした。
おまけに、アイヌたちの十勝川漁場の権利も、地元郡長(役人)などの策謀によって次々に和人入植者の名義に書き替えられてしまいます。「権利の名義書き換え」は十勝地方だけでなく、まるで嵐のように当時のアイヌたちを苦しめました。借地に対しても奸計による名義書き換えが横行し、「自分の土地がいつの間にか和人のものになっていた」というケースが続発したのです。
そんななか、十勝のアイヌたちは立派だったと思いますね。泣き寝入りせずに郡役所に請願をくり返し、ついに十勝郡など4つの郡役所に「古民財産管理法」をつくらせることに成功します(1893年)。郡長による財産管理の基本部分こそくつがえせなかったものの、帳簿規則を定め、アイヌ権利者への報告を義務化させるなどしました。十勝川河口の大津に和人協力者もいて、ここで大勢が集会を開いた、という記録が残っています。翌1894年、中川郡のアイヌ135戸が官から共有財産を取り戻して「財産保管組合」をつくったのも画期的だったと思います。
北海道庁幹部たちによる一連の汚職事件はやがて帝国議会で問題視されます。議会答弁のために北海道庁が作成した弁明書が残されていて、『北海道土人陳述書』(1895年)というタイトルなのですが、それを読んでみると、役所の弁明ばかりで、アイヌ自身の訴えはほんのわずかしか書かれていません。にもかかわらず、十勝地方のみならず北海道各地での道庁役人による不祥事がいくつも指摘されています。ちなみにこの『北海道土人陳述書』、人知れず失われてしまいそうだったのが、ある古書販売会でだれかが見つけて、北海道大学附属図書館の蔵書となり、それを井上勝生名誉教授が翻刻したものを、私たちは読むことができます。当時の道庁がどんなやり方でアイヌの権利や財産をかすめ取っていたのか、またその責任の追及からどんなふうに逃れたのか、それを教えてくれる貴重な史料です。
明治初期の絵地図に見るアイヌ先住権
こちらは、開拓使が1872(明治5)年に作成した様似郡の絵地図です。江戸期の記録や、現地での聞き取りを元につくったものでしょう。注目したいのは「場所」の記載です。さきほども述べましたが、和人経営者がそれぞれ自分の支配するエリアの海岸に設定した「場所」は、もともと地元のアイヌたちが伝統的に漁業を営んできた範囲にだいたい合致していたと考えられます。逆説的ですが、この地図に描かれた「様似場所」の範囲が、この地域のアイヌ集団の先住権の及ぶエリアを示しているんじゃないか、と思います。

大ざっぱな絵地図ですが、いろいろ興味深い点が見つかります。まず、様似川や海辺川(うんべがわ)の川筋にそってアイヌたちの集落があったことが分かります。当時の様似で最大のコタン(集落)は様似川沿いにあったヲコタヌシで、松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」(1859年)にもこの地名があります。いっぽう、海岸に並んで描かれた家屋は、果たしてアイヌの家だったのかどうか。18世紀はじめころの記録には「アイヌたちは夏~秋の漁期が終わると、地元に帰って舟の建造にあたった」とあります。それが場所請負制の下でのアイヌたちの労働パターンの原形だったんだと思います。絵地図に見える海岸線の家々は、昆布漁の季節にだけ使われた昆布小屋かもしれません。
様似郡内の地券録を調べると、アイヌが取得した海産干場(海岸沿いに設定)の名義人住所はすべて元の住所、つまり川筋のコタンの住所が書かれています。漁場近くの海岸ではなく、みんな川沿いのコタンに住んでいたんだと思います。
さて、僕のお話はひとまずここまでにして、ご質問があればお受けします。
Q & A
フロア
瀧澤さんは、アイヌ先住権の及ぶ範囲が、「(松前藩が設定した)場所」と重なるのではないか、とお話しでした。自分はこれまで、江戸期の「場所」は海岸沿いに設定されていた、というイメージを持っていたのですが、内陸部はどんな扱いだったのでしょうか。
瀧澤
北海道地所規則第7条に書いてある〈山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地(これまでアイヌが漁猟や伐木を仕切ってきた山林・川・沢などの土地)〉というのは、この地図で見るように、川筋に沿って人家がありましたし、また川から離れた山林は狩猟の場でしたから、それら内陸を含んでいるんです。川の上流でも、海からさかのぼってくるサケを捕ることができました。松前藩が設定した「場所」の事務所は、確かに海岸に建てられていましたが、沿岸から離れた内陸部も含め、地元のアイヌたちが「仕来(しきたり)シ地」の全てを「場所」に含めてよい、と僕は思います。また、様似場所のように広大なエリアを擁した「場所」の場合、松前藩は、同じ川筋でも下流部は家臣Aの領分、上流部は家臣Bの領分、というふうに分割して「預け地」を設定しています。余談ながら、シャクシャインの戦争(1669年)に先だって、静内地方では隣り合うアイヌ集団同士の対立が起こりますが、もしかすると松前藩がこんなふうに分割支配制を敷いていたせいで誘発された対立だったのかも知れません。
ちょっとつけ加えると、この北海道地所規則第7条には、ほかにも興味深い点がいろいろあります。法律には〈従来土人等漁猟伐木仕来シ地〉と書かれているわけですが、現場で実際にその境界線を定めなければならなくなった役人たちは、困ったと思うんですよね。海岸については、松前藩が「場所」を設定した時に、場合によっては境界争いを経るなどして、すでに確定していたので、まあ問題は少なかったでしょう。でも内陸は違います。アイヌの村(コタン)ごとに土地を「村請け」にするといったって、境界はあいまいです。じっさい、「どうやって測量したらよいのか」と、釧路地方の郡役所が開拓使にあてて出した質問書が残っています。それに対する札幌本庁の大判官の返答は「間縄を渡して計れ」でした。現場は途方に暮れたでしょうね。
ただ、1876(明治9)年まで開拓使札幌在勤大判官を務めたこの松本十郎(1839-1916年)という人物は、「アイヌに土地を所有させるべきだ」という信念を持っていたと思います。規則にある「村請け」を、アイヌのコタンごとに範囲を決める、と解釈して施行規則を設け、実行させています。このやり方なら現場も理解できたかも知れません。
フロア
瀧澤さんのお話に「場所」という言葉が何度も出てきました。僕はこれまで、「場所」を「アイヌのイウォㇿ(漁猟場)の産物の集積・交換地」というイメージで捉えていたのですが、瀧澤さんのお考えとはちょっとズレているかも知れません。「場所」について、改めてどんなふうに定義したらよいでしょうか。
瀧澤
「場所」をどう定義するか、いろいろな考え方があると思います。たとえばシャクシャイン戦争(1669年)のころ、蝦夷地のどの地方にどんなアイヌのリーダーが住んでいたかを記録した『津軽一統志』(1731年編)という資料には、「商場(あきないば)」という言葉が出てきます。アイヌとの交易地点を指していて、当時はまだ「場所」とは呼んでいなかったことが分かります。松前藩主が家臣たちに知行(ちぎょう=収益)としてその地域のアイヌとの交易権を与える「商場知行制」というシステムは、当然ながら、その地域のアイヌ集団の狩猟/漁猟地域を前提にしていた、と考えられます。ただし、松前藩や江戸幕府がそのエリア全体を行政的に支配するところまでは及ばず、そこはアイヌの伝統的なやり方、アイヌのルールに任せて、アイヌの生活には干渉しないできたエリア――それを1872(明治5)年の北海道地所規則第7条は〈山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地〉と表現した――つまり地点ではなく一定の領域を含む、と考えてよいのではないでしょうか。
フロア
「知行」の内容や影響が、内陸のアイヌの生活にまで及ぶ/及ばないの違いがけっこう重要かもしれません。
瀧澤
松前藩自身は、そこまで意識していなかったと思います。家臣たちがそれぞれアイヌとうまく交易して、収入を得てくれればそれでよかった。商場知行制は、アイヌたちに地元の「場所」外への自由な移動を制限しましたが、それも、松前藩が家臣たちに対して(ほかの家臣と争いにならないよう)交易範囲を限定するのが主目的だったようです。「場所」とは何か、という議論をする時、僕は「アイヌ先住権の視点から問題を探ることが重要だ」と思っているので、いま述べたような考えにいたっています。
フロア
もうひとつ、明治初期には土地売貸規則・地所規則から始まって、アイヌ民族に対して飯料取りを禁じたり川でサケを捕るなと禁止したり、さまざまな法令がつくられたわけですが、これらの法令について、瀧澤さんは「政府は実はアイヌに告知していなかったんじゃないか」とお話しでした。確かに、これらの法令にアイヌがこんな反応をした、といった記録類を見たことがありません。瀧澤さんが「政府はそもそもアイヌに告知してなかった」と確信するにいたった経緯を教えてください。
瀧澤
教員退職後に大学院に入り直して、7年にわたって開拓使文書を読み込みました。とりわけ地所規則・土地売貸規則がどんな経緯で作られたのか、経緯を記した書類を探したのですが、見つけることができませんでした。アイヌに対して「この内容を通辞(通訳)を通してコタンごとに伝達せよ」くらいの開拓使の命令書が残っていてもよさそうなものですが、それも見つかりませんでした。「当時の日本政府はアイヌを無視した」という結論にたどりついた次第です。
フロア
北海道博物館の大坂拓です。瀧澤さんは「北海道地所規則第7条にいう村請がアイヌの共同体をも対象にしていた、という自分の解釈は、従来の研究者の説とは異なっている」とおっしゃいました。でも、僕も開拓使文書をいろいろ見てきた経験から、おおむね瀧澤さんの説が正しいのではないか、という文章を書きました。その後、静岡大学の橋本誠一教授(法律学)が、法学史の観点から開拓使文書を見直して、基本的に瀧澤さんの見解を追認されています。この数年で急速に「瀧澤さんの考えのほうが正しい」というふうに変わってきています。開拓使文書は大量に残されていますが、かつては歴史学者の間に「もうこの史料から新しい発見や展開はないのでは?」という雰囲気がありました。しかし瀧澤さんの研究をきっかけに、従来のたとえば高倉新一郎のような政策理解は間違っていたということが分かって、いま急速にいろいろな再検討が行なわれるようになっています。そういう状況にあるということを、コメントとして申し上げました。
大坂拓「北海道地券発行条例によるアイヌ民族「住居ノ地所」の官有地第三種編入について : 札幌県作成「官有地調」の検討を中心として」
橋本誠一「明治初期におけるアイヌ民族の土地所有に関する研究覚書」
橋本誠一「北海道地券発行条例の制定過程 : アイヌの土地所有を中心に」
オンライン
アイヌの権利の制限について、アイヌに対して事前告知はなかったんじゃないか、とのご説明でしたが、だとすると、それを知らないままふだん通りに生活して、官憲に逮捕されて初めて新しい法令を知る、といったことが起きていたんでしょうか。
瀧澤
その通りです。ただその後、「支川でのサケマス漁禁止」などの達(たっし)が出ますが、そのさいにはあらかじめ告知があったようです。僕が先ほど言ったのは、土地所有に関する初期の法令のケースで、僕の見た範囲では、官がアイヌ側に告知した形跡は見つかりませんでした。
オンライン
先住民がもともと利用していたことが明らかなのに、それを制限するのに告知すらなかったのは非常に問題だったと思います。150年前の政府のやったことではありますが……。
フロア
僕は「明治時代になってアイヌの権利は全部奪われた」といったイメージを漠然と抱いていたのですが、案外、自分で漁場を持って漁業を営んでいたアイヌもいたんだと知りました。でも十勝川沿岸のようにいつのまにか(和人)名義に変えられてしまった……。明らかに理不尽ですよね。
瀧澤
不当な名義の書き換えなど、権利侵害の事例をひとつひとつ追求していけば(権利回復は)あり得ると思うんですよね。僕自身、様似在住のアイヌから「先祖の土地がいつのまにか和人の名義に変えられていた。どうすれば取り戻せるだろうか」と相談を受けたことがあります。「証拠書類が残っていませんか」と聞いたら、「そんなものはない」と。まあ、それが普通ですよね。個別の権利回復を図るにはどうしても証拠書類が必要ですが、残念ながらなかなか保持されていません。先ほど紹介した矢本家文書に、「アイヌ12人分の地券が送られてきたので、矢本家で預かっておく」という文書がありました。これらの地券がその後どうなったのか……? 矢本家からの借金を返せなかった人が、担保に預けた地券の名義を書き替えた、といったこともあったかも知れません。様似町郷土館にアイヌ名が記載された地券の現物が保存されています。調査してみる価値はあると思います。
フロア
日本政府がアイヌを先住民族と認めて、アイヌ文化の発信や理解は進んできたと思うのですが、きょうのお話にあったような過去の不正義に対して、私たちは何ができるのか――公式の謝罪とか補償とか……。お考えがあれば教えてください。
瀧澤
北海道にはその前例がないんです。1889(明治22)年制定の北海道旧土人保護法にはアイヌ共有財産の管理規定が盛り込まれていました。個人の財産とは別に、アイヌ(の村)の共有財産と位置づけたお金や不動産のことで、北海道長官がその管理にあたると定めていました。1997年の旧土法廃止にあたって、管理を引き継いでいた北海道知事が、このアイヌ共有財産を処分することになりました。当初は海産干場などの地目だった不動産も、いつの間にか現金化されていて、合わせて120万円あまりを申請者に返還する、と公告されましたが、一人のアイヌ――小川隆吉氏――が「それはおかしい、ちょっと待て」とストップをかけようとした。現金化の経緯すら明らかにしないまま処分するのは不当だ、と主張して裁判を起こしたのです。僕は原告を支援して、それぞれの共有財産について由来書類をそろえて高裁に証人出廷し、これらの土地がどういう経緯で現金化されたのか、被告=北海道庁に逐一説明させようと試みたのですが……。道庁は法廷に姿を見せませんでした。代わりに法務局訟務官という肩書きの人たちが4人くらい来て、僕は攻撃されました。「史料の使い方が悪い」「説明が不十分」とか……。1~2カ所、うまく答えることが出来ない部分があったのですが、最高裁まで行って、けっきょく原告の訴えは却下されました。こんなふうに、(アイヌの訴えに対して)国は総力を挙げて反論してきます。
フロア
「過去の不正義を認めて、未来に進むんだ」という姿勢が、日本政府には欠けています……。
オンライン
十勝川でサケ漁をしていた当時のアイヌたちが組合を作ったというのもすごいことです。紹介してもらった史料を詳しく読んでみたいし、十勝川の漁場に当時何人くらいのアイヌが住んでいたのかも知りたい。
瀧澤
当時の十勝の郡役所が定めた「古民財産法」の文書は、帯広でも現物がアーカイブされています。1870年代の当時、どの郡でも「地券録」「貸地録」といった台帳をつくっていて、現在は全道の分が北海道文書館(江別市)に所蔵されています。
フロア
普通の人は、それはちょっと読みにくい……。
「海産干場」って、具体的にはどんな土地のことですか?
瀧澤
北海道の土地を個人所有化する時、たとえば宅地なら「家屋とその周辺の土地」といったふうに比較的容易に設定できますが、海岸だけはそうはいきませんでした。蝦夷地(北海道)の海岸部では、ちょうど本州以南でコメがそうだったように、水揚げされる水産物は年貢(税収)そのものでしたから、生産者・生産地の名前を確定しておく必要がありました。そこで開拓使ははじめ、水揚げ地を「漁場」「昆布場」を呼んでいましたが、新たに土地私有化を図るために地券を発行するに際して(1872年、土地売貸規則)、「海産干場」と名前を付け直しました。その海産干場の地券を得るには、そこで漁業を営むことが前提でした。ただ、その漁場の周辺にはその他にも大勢、漁業者がいたわけですよね。実際、地券はないけれど昆布とりで生計を立てていた人がたくさんいました。海産干場の地券を取得した人だけが排他的にその漁場を独占した、ということではなかったようです。様似地方の当時の「海産干場」について面積も調べましたが、1カ所あたり100坪(330.0m2)くらいで、昆布を干したほか、舟を陸揚げしたり網を保管したり、倉庫を建てたりする用地として利用されていたようです。
瀧澤
最後に付け加えさせてください。多くの法学者や歴史学者によって「所有権の理論」が講じられて、現在では「その土地を最初に耕して畑にした者に、投下した労働の対価として土地の所有権が認められる」とする考え方が主流です。でも、それはあくまで近代の考え方であって、その視点に立っている限りは、なかなか先住権の問題を付加しにくい面があると思います。とりわけアイヌの場合、農耕ではなく狩猟・漁猟を基本とする生活でしたから、狩猟・漁猟の権利、またその人たちが占有していた土地に対する権利を、どんなふうに現代の「所有権の論理」に接合していくか――。僕も長いこと考えていますが、その方法がなかなか分からなくて、難しさを感じています。これから新しい理論がつくられるべきだと思います。
2024年6月28日、さっぽろ自由学校「遊」講座「先住民族の森川海に関する権利4ー海とアイヌ民族」での瀧澤正さんの講演から。構成:平田剛士/森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト
