自由学校遊 24年後期講座:先住民族の森川海に関する権利 5—アイヌ先住権を“見える化”する
1月20日(月) 第4回
「北海道の開拓/開発」と先住権
●平田 剛士(ひらた つよし)
森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト運営委員
フリーランス記者
(肩書は講座開催時のものです)
「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」副代表でありフリーランス記者の平田剛士さんに、「北海道の開拓/開発」と先住権に関してお話しいただきました。

はじめに
平田剛士です。石狩川と空知川が合流する滝川という町、アイヌ語地名だとカバト、ソラプチ、トック、ユーオペッ1と呼ばれるあたりですが、そこにかれこれ30年ほど住んでいて、今日もそこからやってまいりました。北陸富山から北海道に移住して42年目の和人入植者で、本職はフリーライターです。どうぞ最後までおつきあいいただければ幸いです。
私は2022年の初夏にスタートしました「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」に、企画段階から参加させてもらって、去年の秋ぐらいからはプロジェクトの副代表を務めています。おかげさまで、このプロジェクトには大勢のみなさまが関心を寄せてくださっていて、代表の八重樫志仁さんに代わって深くお礼を申し上げます。またこの研究プロジェクトは、当初からアメリカのThe David and Lucile Packard Foundationの資金援助をいただいており、この場を借りて深く感謝をお伝えします。
土地への承認 Land Acknowledgement
さて、まずはLand Acknowledgement(ランド・アクノレッジメント)から始めさせていただきます。ここ、札幌という場所について、みなさんの前で確認しておきたく存じます。
みんなで確かめ合いましょう。
ここヤウンモシㇼ=北海道島を含むアイヌモシㇼの大地、森と川と海、そして光と風と水は、伝統的にアイヌ民族の領分です。昔も今も、これからも、それは変わりません。ここに集まったわたしたちは、文化と歴史をつなぎ続けるすべてのアイヌのみなさんに、心から敬意を表し、感謝を捧げます。
2025年1月20日、北海道札幌市中央区南1条西5丁目 愛生舘ビルにて。
ありがとうございました。

北海道開拓/開発と先住権
先住権って一体なんなの?
さて、今夜のテーマは「北海道開拓/開発と先住権」です。講座の内容紹介文はこのように書きました。
近代以降の「北海道開拓/開発」は自然環境を改変し、そんな自然に深く根ざしてきたアイヌの暮らしにも変質を強いました。GIS(ジーアイエス/地理情報システム)を活用しつつ、損なわれた先住権の「見える化」を試みます。
近代以降の「北海道開拓/開発」は自然環境を改変し、そんな自然に深く根ざしてきたアイヌの暮らしにも変質を強いました。GIS(ジーアイエス/地理情報システム)を活用しつつ、損なわれた先住権の「見える化」を試みます。
このプロジェクトの目的を一言で言い表すと「アイヌ先住権を見える化する」こと、です。先住権って言うけど、それって一体何なのか?わたくし自身も長年、こちらヤウンモシㇼ=北海道島に住んで、取材とうそぶいて少なくないアイヌにズカズカお目にかかって、それぞれお話をうかがっておきながら、改めて「先住権って一体なんなの?」と自分に問いかけたら、実はうまく答えられない、ということに気がつきました。コロナ禍の期間中、みんな外出できなくなったので、アイヌ/非アイヌ、あちこちの分野の専門家の方たちにもお声がけしてオンラインで結んで、とくにサケにまつわるアイヌ先住権について2年ほど勉強会をやったのですが、失礼ながら、案外みんな先住権とは何なのかを、理解し切れてないな、ということも分かりました。でしたら今からでも具体的に調べて、分かりやすく世間に伝えることには意義があるよね、と小泉さん(さっぽろ自由学校「遊」)たちと相談しながら企画したのが、このプロジェクトでした。
1957年の石狩川
要するに「分かりやすく伝える」ことを目指しているのですけれど、例えば「GIS」とか「地理情報システム」とか専門用語を使っていて、まだまだ分かりにくいですよね。その反省も込めまして、今夜ご披露するのは、年末につくりましたこちらのポスターです。題して「1857年の石狩川」。

タイトルが「1857年の石狩川」ですから、きっと1857年の石狩川あたりの地図だろうな、と連想いただけると思います。北海道に土地鑑のない方にご説明すると、石狩川はヤウンモシㇼ=北海道島において、本流の長さ・流域の広さともに一番長くて一番広い川です。石狩川河口のある町は石狩市、石狩川が注ぐ先に広がる海は石狩湾、下流域から中流域にかけては石狩平野と呼ばれ、いまこの講座をお送りしている札幌も、石狩平野に含まれる豊平川扇状地に、19世紀以降に当時の日本政府の政策によって人工的に計画され、開拓・開発・建設された都市です。
見出しの文字を追ってもらうと「群れなすイトウ」「犬で四、五束のサケ」「鶴がたくさん」「狼に三度出会った」「四尺のチョウザメ」「カワウソ、ヒグマ」そんな言葉が並んでいます。魚や野生動物に関心をお持ちの方だとこれらの名前を見て、ピンとくるかもしれません。イトウ、サケ、ツル、オオカミ、チョウザメ、カワウソ、ヒグマ。―昨今、この界隈でも目撃情報が増えているヒグマを除くと、ほかはみんな、現代の石狩川の界隈ではとっくに絶滅したり、ほぼ絶滅してしまっている魚や動物たちばかりです。それが1857年の石狩川では、イトウが群れをなして泳ぎ、川沿いにツルもたくさんいて、オオカミたちがうろついて、120cmを超えるチョウザメが捕れて、カワウソも珍しくなかった、そんなことを示したポスターです。
21世紀も四半世紀をすぎた今日の我々からすると、にわかには信じがたい情報です。見出しに目を留めてくださった方に「ホントかよ」と、顔をもっとポスターに近づけてくださるのを期待しているのですが、例えばこのカワウソ情報は、パンケホロナイというアイヌ語地名の場所の記録です。説明文を読んでみます。
パンケホロナイ(パンケ幌内川)/シキウシバ
パンケホロナイ(パンケ幌内川)
安政丁巳(あんせいひのとみ)閏五月十七日(1857年7月8日)
今日はかわうそ(エシヤマニ)を三頭捕ったが、夜に入って私たちの寝ているところへ熊(カモイ)が時々来ては食糧をあさっているようだったのに、みんなよく寝入っているので一頭もとらずに惜しかったと思う。
松浦武四郎著 ; 丸山道子訳 『石狩日誌』(1973年)p492
なんともワイルドな状況です。ちなみにこれは、当時の和人が石狩川に沿って旅をしたときの記録を、本人が日記スタイルでまとめて出版した書物から引用した文章です。
チョウザメやイトウの情報も気になります。「シキウシバ」というアイヌ語地名の場所で、現在の自治体名でいうと深川市と旭川市の境目くらいです。かなりローカルな話で、地元以外の方には通じないかもしれないのですが、下流から上流に向かって、現在も神居古潭(かむいこたん)とアイヌ語地名の残る峡谷部にさしかかるあたりだと思います。読んでみます。
シキウシバ
安政丁巳(あんせいひのとみ)五月十七日(1857年6月8日)
ここから川の両岸が高く切り立った崖と、苔むした奇岩怪石があって景色のよいところで、近くの岩間には様々の珍しい草が生えている。急流が岩に当たって水しぶきを上げ、水怒り、音は谷に響き、水底には竜蛇がひそんでいるなどという風な感じのところであるが、川をさかのぼって数十日というこんな場所に、ちょうざめのいるのが不思議といえば不思議なことで、クウチンコロが川の岩の上に立って、もり(マレフ)をかまえてしばらくたたずんでいるようすであったが四尺くらいのちょうざめを一匹捕った。また三尺くらいのチライ(いとう)も捕っていた。セッカウシはおにのやがら(ぬすびとあし、ウニンテ)を五、六本採って来て「これはアイヌのさつま芋」といいながら焼いて私にすすめ、またこれを味噌汁にもしてくれた。
松浦武四郎著 ; 丸山道子訳 『石狩日誌』(1973年)pp26−27
ますます信じられない気分になりますが、決してラノベ作家の異世界旅行記ではありません。当時、現地で実際にこれを目撃し、体験した本人の文章です。
説明が後回しになりましたが、この文章は、松浦武四郎という和人の手になるものです。アイヌ史とか北海道史にご興味をお持ちの方にはお馴染みの名前かと思います。「幕末・維新を生きた旅の巨人」にして、―正確には事実ではないので本人はご不満でしょうが、「北海道の名付け親」と紹介されることも多い人物です。NHKがドラマ化したとき「嵐」の松潤が武四郎役を演じていました。
松浦武四郎による川旅の記録
ポスターのタイトルにある西暦1857年は、今から数えると168年前、和暦で言うと安政丁巳(あんせい・ひのと・み)、すなわち安政4年です。明治維新が1868年ですから、その11年前にあたります。日本史の区分では江戸時代の最終盤、いわゆる幕末期です。この年の夏至を迎えるころ、正確には太陽暦で6月3日ですが、石狩川の河口からスタートして、上流を目指してさかのぼって、空知川(そらちがわ)・雨竜川(うりゅうがわ)・忠別川(ちゅうべつがわ)といった主だった支流にも分け入って、最後は同じルートを逆に下って石狩川河口に戻ってくるまで、約4週間にわたる川旅の記録を残したのが、松浦武四郎です。武四郎は1818年生まれですから、この旅をした時は満39歳ですね。
武四郎はすでに前の年までに、蝦夷島(えぞがしま)、現在の北海道島を当時の日本人たちはそう呼んでいたのですが、武四郎はその蝦夷島の海岸沿いや、択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、また北蝦夷地(きたえぞち)と呼ばれていた樺太(からふと)島などを自費で旅して回っていて、幕府や各藩の外交関係者の間では「蝦夷地のエキスパート」として名が知られていたようです。そこでこの年、当時の和人地―現在の北海道島南西端の渡島(おしま)半島一円を江戸幕府や松前藩はこう呼んで境界線を引き、関所を設けて出入国管理をしていました―そこに江戸幕府が現地出先機関として置いていた「函館奉行所(はこだてぶぎょうしょ)」という役所から、武四郎に対して、「石狩川の上流あたりから、蝦夷地の各地につながる道筋を調べてこい」という指令がくだるんですね。武四郎は奉行所直属の「お雇い」、いま風にいうと業務委託を受けたコンサルタントという感じでしょうか、そういう幕府公認のライセンスを持って、旅費・経費も奉行所に出させて、和人地を出発して日本海経由で岩内(いわない)・余市(よいち)に立ち寄った後、石狩地方に向かいました。
武四郎は石狩川河口の町―イシカリで地元の経験豊富なアイヌ男性たち4人を案内役として雇い、アイヌたちの川舟もチャーターして、石狩川の遡行調査を敢行しました。探検を終えた武四郎は、雇い主の奉行所に7巻セットの報告書「石狩志」を納品した後、旅の3年後、1880年に、一般読者向けのイラスト入り小冊子をつくりました。それが、表紙を載せた『石狩日誌』です。このポスターは、この『石狩日誌』の中から、当時のこの界隈の魚や野生動物の生息情報が記録されている部分をピックアップして、地図に重ねて表現したものです。文章は旭川ご出身の郷土史家の丸山道子さんが1973年に自費出版された現代語訳『石狩日誌』から引用させていただきました。

GIS(地理情報システム)を活用した先住権の見える化
先ほど、本講座の内容紹介文をご覧いただきましたけど、そこに書いてた「GIS(地理情報システム)を活用した先住権の見える化」は、例えばこういうポスターみたいなものだ、というのがわたくしの理解です。プロの方がご覧になったら、出来映えはせいぜい中学生の自由研究レベルと言われるかも知れません。そこは目をつむっていただき、地図の上に168年前の記録とか、あるいは別の時代・別のジャンルのいろんな情報を、位置合わせだけ気をつけてどんどん重ね合わせて、それぞれの情報を個別に読んだり見ていたりしていただけでは気づきにくかったことを、一目見てパッと分かるようにする、つまり「見える化」する、そういう作業を、おもにコンピュータを使ってするために考案された仕組みが、地理情報システムです。英語で言うとGeographic Information System、頭文字を取ってGIS、と呼ばれています。
例えば武四郎の『石狩日誌』を読んで、「昔は石狩川にもカワウソがいたんだ」とは、誰でも気づくと思うのですが、今回、実際に地図にポイントを落としてみて、私は初めて「これってウチのすぐそばじゃん」と気がついて、びっくりしました。GIS=地理情報システムの威力は疑いないと思います。でも皆さんきっと「このポスターのどこにアイヌ先住権のことが書いてあるの?」と思われたでしょう。
もう一度、ご覧いただけるでしょうか。「犬で四、五束のサケ」のところ。1束2束の「束(そく)」は、現代でも釣人が釣った魚を数えるときに使っていて、1束は100尾を意味します。とすれば「犬で400~500尾のサケ」となります。読んでみましょう。
メム
安政丁巳(あんせいひのとみ)五月二十七日(1857年6月18日)
早朝起き出して舟のとも綱をといた。七、八丁でメムに来る。ここに人家が五軒、クウチンコロ、シュンコトイ、シリアイノ、カントキ老女、ワイランケ老女の家々があった。メムというのは曲がりくねった小川の水のわき出している所のことである。この老女たちはいずれも見事な犬を五、六匹ずつも飼っているので、どういう訳かとたずねてみると、これは鮭や鱒が川をさか上って来たのを男たちはもりを使って捕っているが、老女にはそれが出来ないので、これらの犬を使って魚を捕らせるのだという。折よく今朝は、鱒やあめ鱒が大分川を上って来ているようだったので、どういう風な具合かと見物したが、犬は川岸に隠れていて鱒が川を上って来て浅瀬にかかったところをねらって川に飛び込み、すぐに魚の頭を口にくわえて上がって来た。魚の頭の外は決して傷付けないように、実によく馴練してあった。だから犬を非常に大切にしていて、自分たちが魚を食べるときには必ず犬にも食ベさせることにしているのだというが、秋になって鮭が川を上るころになると、これらの犬の働きで一日四、五束もの漁獲をするということである。
松浦武四郎著 ; 丸山道子訳 『石狩日誌』(1973年)pp33−34
犬を飼ってる人には、驚愕の文章ではないでしょうか。武四郎も、話を聞いただけでは信じられなくて、サケの季節には早いけどサクラマスやアメマスが遡上してきていたので「実際にやって見せてくれ」とリクエストして、その目で確かめています。「1日400~500尾」のくだりは、もしかすると誇張が混じっているかも知れませんが、犬に漁業を手伝わせていたのは事実だと思われます。
もうひとつ驚愕の部分があります。それは、現在の旭川市の常盤(ときわ)公園のそばを流れる石狩川本流に、168年前の幕末当時、おばあさん一人が犬を操って1日400~500尾のサケを漁獲できるほどの大規模な野生サケの産卵場が維持されていた、という事実です。ここの人家5軒の集落=コタンは、漁村と呼んで差し支えないでしょう。
開発による石狩川の変化

こちらは同じ場所の現在の衛星写真です。現在の同じ場所に野生サケの産卵場はありません。漁村風景はありません。犬を使ってサケ漁をする技術も失われたままです。石狩川上流部、現在の旭川市をふくむ上川盆地では、もうずっとサケの個体群はほぼ絶滅状態が続いています。いつ、どうして絶滅したかは比較的はっきり分かっています。まず太平洋戦争直前の1940年に「国策パルプ」という製紙会社の工場が、まさにこの「メム」のすぐそばに建設されて、大量の汚水を石狩川に排出したため、石狩川の水質は、サケが生きられないほど悪化しました。

続いて戦後復興期の1964年、旭川の下流に位置する深川市の石狩川に花園頭首工(はなぞのとうしゅこう)という名前の水田向け灌漑(かんがい)ダムが建設されたため、サケを含む魚類はそこを境に上流と下流を行き来できなくなりました。サケは海からはるばる川をさかのぼって、生まれ故郷の産卵場に帰ってくる魚ですから、こうなるともう、それまでダムの上流側で繁殖していた個体群は死に絶えるほかありません3。国策パルプの製紙工場は現在は「日本製紙旭川工場」と名を変えて、もちろん水質基準が厳格化されて川はきれいな水が流れています。花園頭首工にはいまから25年前、西暦2000年に魚道がつきました。同時期に水産庁の機関が上流部にサケ稚魚を大量放流して再導入を試みましたが、いったん絶滅したサケ個体群の復元には至っていません。
武四郎が目撃した当時、旭川メムの漁村の皆さんは、言うまでもなく石狩川で捕れる野生サケやほかの魚類に依存しながら暮らしておられたことでしょう。でも、いま仮に国会が水産資源保護法を改正して―ラポロアイヌネイションが裁判を起こして確認を求めているような漁業権を保障して―川でサケを捕る権利を地元のアイヌ集団に認めたとしても、旭川メムの石狩川でサケを捕ることはかないません。肝心のサケがいないからです。
あるいは先ほどの記録だと、武四郎は、神居古潭に泊まった時、ガイドを務めた先住民のクウチンコロ氏が、マレㇷ゚という漁具をつかってたちどころに巨大なチョウザメやイトウを仕留めてくれた、と書き残していました。これもやっぱり、地元のアイヌたちが普段からこの場所でそうした魚を捕って暮らしていたことを示す重要な証言だと思います。でも同じ場所で、少なくともわたくしは20世紀と21世紀をまたぐ半世紀近く地元に住んでいて、イトウやチョウザメが確認されたと聞いたことがありません。
今、わたくしたちがいくら先住民族アイヌには神居古潭でイトウやチョウザメを捕る権利がある、それを認めるべきだ、と主張したとしても、その権利は絵に描いた餅にすぎません。この場所にチョウザメもイトウもいないからです。旭川メムのサケ個体群のケースほどハッキリした絶滅要因は明らかになっていないようですが、都市開発・農業開発・炭鉱開発といった開拓/開発の名目で実行された自然環境のいちじるしい改変が、これら在来の巨大魚たちの生息や繁殖を不可能にしたのであろうことは、想像に難くありません。
「植民地開発にともなう環境破壊」を石狩川で「見える化」する
最初に申し上げたように、「先住権って一体何だろう?」と、ずっと考えていて、基本はやはり2007年の「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に書いてあることかなと思い、読み返しています。実はそこには「先住民族には先住民族だけが持つ特別な権利があるのだ」といったことは、まったく書いてありません。国連宣言は決して特権の一覧表ではなく、先住民族であろうとなかろうと、21世紀の世界中のすべての生活者にとって当たり前の権利や自由、いわゆる基本的人権・基本的自由が丁寧にリスト化されているに過ぎません。それではなぜ、わざわざこんな権利宣言が必要だったのでしょう?

答えは明白で、アイヌを含む世界の先住民たちが、そんな「当たり前の権利や自由、いわゆる基本的人権・基本的自由」を、自分たちは今なお国家に制限された状態にある、と受け止めていらっしゃるからです。だとすれば、そんな「当たり前の権利や自由」のうち、国家の法律による規制はもとより、非先住民のマジョリティ―ここでは私たち和人集団のことですが―その価値観の押しつけ、一方的に従わされている法律、植民地開発にともなう環境破壊などによって、先住民族がいま制限されている全てを「先住民族の諸権利」と見なしてよいのではないかと、私は今、そんなふうに考えています。
このうち最後の「植民地開発にともなう環境破壊」というのを、石狩川の野生動物に焦点を当てて「見える化」してみたのが、このポスターでした。ここにお示しした情報から浮き彫りになってくるものが、目下私たちが先住民族アイヌから取り上げて制限し続けている諸権利、つまり先住権のひとつだと、私は思います。
先ほど「このポスターは松浦武四郎の『石狩日誌』の記述をもとに、当時のこの界隈の魚や野生動物の生息情報を地図に重ねて表したものです」と申し上げて、タイトルも「1857年の石狩川」とつけたのですが、こうやっていま現在の状況と見比べてくださった皆さんが、「これってむしろ、このすぐ後に到来する明治期以降の“北海道開拓・開発が絶滅させた石狩川個体群”とか、“開拓や開発が奪い取ったアイヌ先住権”とか、そんなタイトルをつけるべきじゃなかったの?」と感じてくださったら、製作者としては非常に嬉しいです。
武四郎の地図づくりの歴史
ついでながら、この地理情報システムGISの威力について、もう少し補足させてください。ご覧いただいているこのポスターの地図は、現在のものではありません。130年くらい前の古地図です。本当は、武四郎が石狩川を遡行した当時、168年前の地図を使いたかったのですが、当時はまだ、蝦夷地の内陸部の精密な地図は存在しませんでした。というか、こうやってあちこち蝦夷地の川を源流まで遡行しながら収集した膨大な地形情報・地名情報をもとに、巨大な蝦夷島内陸部の地図を初めて完成させたのは、武四郎その人です。地図作りの歴史も、ざっくり年表にしてみると、以下のような感じです。
こちらは18世紀の終盤1786年に、仙台藩士の息子だった林子平(はやし・しへい)という人物が、木版で出版した『三国通覧図説』という本の中に出てくる『蝦夷国全(えぞこくぜんず)』という地図です。林子平はこの時代の代表的知識人の一人ですが、彼らのヤウンモシㇼ、アイヌモシㇼに関する知識がこのレベルだったのか、あるいは本当はもっと精確な地図があったけど、今でいう安全保障上の理由などで、出版物にはこんな地図しか載せられなかった、ということかも知れません。

その36年後「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成します。20年がかりで全国を測量して回った測量隊のリーダー、伊能忠敬(いのう・ただたか)の名前をとって「伊能図」と呼ばれるものです。名前の通り、日本列島の海岸線を描いた地図ですが、私たちが思い浮かべる現代の日本地図とおおむね一致する精度の高さです。

さらに38年後、松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図(とうざいえぞさんせんちりとりしらべのず)」が幕府に献上されます。林子平の地図にせよ、伊能忠敬の地図にせよ、いまリアル図書館に出かけることもなく、こうやってネット上であれこれ古今東西の地図を吟味できるなんて、江戸時代の地図製作者にしたら、それこそ異世界と映ることでしょう。

さて武四郎のこの地図ですが、島の輪郭こそ「伊能図」を写して精確ですが、内陸部の測量の制度はそのレベルに及ばず、武四郎がここにカタカナで書き込んだ膨大なアイヌ語地名が現在の地図上でどの地点を指しているのかは、アイヌ語地名研究の分野で今でも論争のタネです。
地図を重ねて変化を浮かび上がらせる
当時のアイヌ語地名を現代に伝える、まさに宝庫といってもよい武四郎のこの地図ですが、残念ながら、地形図としてはラフすぎてGISには使いづらい代物です。そこで、このポスターでは35年ほど未来に飛んで、1890年代前半に当時の北海道庁地理課が製作した「北海道実測切図(ほっかいどうじっそくきりず)」という地形図を採用しました。この地図も、山岳地帯なんかは測量が間に合わなかったんでしょう、結構ラフなままですが、主要な河川はかなり精確に測量されていて、石狩川などは、現代の地形図とか衛星写真とかと、だいたいピッタリ重ね合わせて比較できます。

ここからがGISの本領なのですが、ピンクのラインは、現在の国土交通省が公開している最新の河川データ…といっても16年前の2009年時点の情報ですが、石狩川の流路を示しています。1890年代の地図に描かれた石狩川と、その120年後、2009年の石狩川の流路は、こんなに食い違っている、ということが一目瞭然かと思います。19世紀末の石狩川は文字通り激しく蛇行を繰り返して、現代のカヌーイストがこの時代の石狩川を下ったら「原始河川」と呼んで大興奮するに違いありません。武四郎自身もこんな風に記録しています。
ビバイ川(美唄川)
安政丁巳(あんせいひのとみ)五月十三日(1857年6月4日)
オカバイ(地名)ポロヒリ(地名)等をすぎてビバイヌタフ(美唄達布)というところに来てアイランケにまさかり一丁を持たせて上陸させ、われわれはそのまま舟で行く。ビバイ川(美唄川―幌向川から四里)に来たが、この川は第九の支流で、やはり夕張山系から流れて来る川であるという。ここを過ぎて(十七、八町)[だいたい2km弱:引用者注]行くと陸に一筋の煙の上るのが見えた。上陸してみると、もうアイランケは丸小屋を作って今夜の宿の用意をしているのであった。あまり手ぎわがよいのにびっくりして訳をきいてみると、「ここは川が大きくくびれているので、川を行くと岬の先を回るようなもので時間がかかるが、くびれたところの陸地は距離にして八十間ほど[150mくらい:引用者注]しかないので、小さな舟なら陸の上を引っぱって越してしまうのだが……」という。
松浦武四郎著 ; 丸山道子訳 『石狩日誌』(1973年)p21
こんな風に激しく蛇行する川と、護岸工事をして直線化された川と、どっちで釣りたいかといえば、だんぜん蛇行河川です。川がクネクネ曲がって流れて、水の速さを複雑に変化させながら、ところどころ川岸の崖が崩れて、生えていた木が水中に倒れ込んだり、川底の砂利が水圧を受けて深くえぐれたりしているポイントにこそ、大きな魚は居着くからです。もっと言うと、春の雪解けや夏の大雨などで洪水が起き、川が溢れて、水浸しになったり乾いたりを繰り返すような環境でしか、うまく生きられない生き物もたくさんいます。イトウはその一種です。成長すると体長1mオーバー、体重20kgオーバーに達する巨大で獰猛な肉食魚なのに、生まれたての体長数センチほどの子ども時代は、ごく浅くて流れのほとんどない水溜まりみたいな環境でひっそり過ごします。そういう場所を、たとえば治水工事をして岸辺にコンクリートブロックを敷き詰めて、洪水になってもあふれないよう、切り立った堤防を築いてしまうと、イトウの赤ちゃんは住む場所を失って、結局個体群は世代交代がうまくいかずに絶滅してしまう、というメカニズムが、生態学研究者たちによって明らかにされています。
このポスターが示しているのはあくまで状況証拠ですけれども、農地開発や都市建設のための公共事業と称して、激しく蛇行していた川を単純化する工事をやったことによって、武四郎の時代に地元のアイヌたちが頼りにしていたサケ・イトウ・チョウザメ、あるいはカワヤツメといった在来生物がどんどん減っていった可能性は高いと思います。それらの生き物は、そこで暮らしているアイヌにとっても、生活を支えてくれる大切な資源だったでしょう。当時と現在の石狩川の川筋をこうやって重ねて比べるだけでも、アイヌ先住権を妨げている原因が、いくつも浮かび上がってくる気がします。
GISは合意形成の道具だ
ちなみに、コロナ禍の最中にカムイチェプ・プロジェクト研究会のみなさんと一緒に「カムイチェㇷ゚読本」を作ったときに調べたのですが、1918年から半世紀をかけて計29カ所の蛇行部をバイパス工事して短絡した結果、石狩川本流は60kmも短くなりました。またかつては、そんな風に激しく蛇行・分岐する川筋の隙間を埋めるように、無数の小湿地や河跡湖がパッチ状に発達し、総面積6万haを超す「石狩大湿原」を形成していましたが、今、その99%は消失しています。100年にわたる開拓/開発事業が、6000万m3(両米)とも試算される膨大な客土を注ぎ込んで原野をつぶし、現在のような農地や都市に変貌させたのです。私の住んでいる滝川も、そのど真ん中に建設された町です。さらに、支流を含む石狩川流域に建設されたダムは、壁の高さが15mを越す中型以上のものに限っても88基にのぼり、これは北海道島内の全ダム(190基)の46%にあたります。
こんな地理情報システム=GISの研究者・専門家のみなさんが口を揃えて仰るのは、GISは合意形成の道具だ、ということです。今日の私のスピーチをここまで聞いてくださった皆さまも、いま、きっと頭の中でいろんな思いが渦巻いてきているのではないでしょうか。
「石狩川沿いにアイヌコタンはどこにあって、何人くらい住んでいたのか」「ツルの目撃情報は他にないのか」「カワウソが絶滅したのも河川改修のせいなのか」「明治政府はこのあたりでもオオカミを駆除したのか」「支流の空知川や雨竜川にイトウが生き残ったのはなぜなのか」「炭鉱からの廃液も生態系に影響したんじゃないか」「移住人口が増えれば生活排水も問題になったはず」「まわりの湿原を潰したり森林を切ったりした影響はどれくらいなのか」―。
GISを利用して作った一枚のポスターを眺めているうちに、「もっとこんな情報を知りたい」「それを同じ地図に重ねてみたら面白そう」、そんな風に思わせる吸引力が、GISにはあると感じています。最初は好奇心からでもよいと思います。疑問を思いついたら自分でデータを探して、この地図にどんどん重ねていけばよいのです。英語の「layer」、日本語だと「重ね着」といった意味を持つ言葉を借りて「レイヤー」と呼ぶのですが、一枚の地図の上に、薄くて向こうが透けて見える膜に、絵や文字が書いてある膜を一枚ずつ重ねていくイメージを思い浮かべてください。一番下の地図はずっと透けて見えたまま、いろんな情報をどんどん上に重ねることができます。先ほど、このポスターは中学生の自由研究レベル、と言いましたが、このポスターで重ねた薄い透明の膜=レイヤーは、たった5枚です。
- ポスターのタイトル、記事の小見出し、説明文
- 記事文章 松浦武四郎著・丸山道子訳『石狩日誌』(凍土社、1973年)
- 挿し絵 松浦武四郎『石狩日誌』,刊,万延1 [1860] 序. 国立国会図書館デジタルコレクション
- 武四郎宿泊地のピン
- 現代の流路図 国土数値情報ダウンロードサービス
この上に、別の情報源からどんどんデータを重ねていくことができます。例えば河川改修がいつどんなふうに進んだか、時間を追ってそれぞれその時代に作られた地図から川筋だけを抜き出して重ねていくと、細かな変化を追えるかも知れません。そこにサケ、カワウソ、イトウ、チョウザメの生息情報・絶滅情報を重ね合わせたら、もしかしたらもっとはっきり因果が浮かんでくるかも知れません。あるいは、自治体ごとに入植者人口とか農地面積とかの変化を追って、これも例えば10年ごとに重ねたら、また違った要因が見えてくるかも知れません。
みんなで一枚の地図を囲んで車座になって、あれこれ思いつきを口に出して、情報を持ち寄って地図に重ねてみて、改めてそこから何が読み取れるかを繰り返し議論する、これは確かに、合意形成の第一歩だと思うのです。合意形成と言うと大げさですが、これまでの歴史・経緯とか、その結果いまどうなっているのかとか、地図の上に重ねた証拠をあれこれ吟味して、みんながそれを良く分かったうえで、じゃあこれからここでどうしようか―私たちの場合に当てはめると、どうやって各地でアイヌ先住権を回復していくのか、ということですけれど、めざすゴールを定めて、作戦や計画を立てて、実際にやってみる、そういうプロセスを踏むことを、「合意形成」と言うんだと思います。
地図を使った議論の試み
いわゆる北海道開拓、それに続く開発や公共事業が、この島の自然環境をいかに改変してきたか、地図を使って議論しようという試み自体は、決して今に始まったことではありません。例えば、北海道自然保護協会の理事や会長を長く務められ、5年前に亡くなった専修大学北海道短大名誉教授の俵浩三さんは、2008年に出版なさった『北海道・緑の環境史(北海道大学出版会)』という本のなかで、「北海道開拓図」と題されたこんな古い地図を紹介されています。どのくらい古いかというと、最初に発表されたのが1941(昭和16)年だそうですから、いまから84年前です。これは、札幌の小中学校の先生で、郷土史家として「札幌市史」の編集員も務められた井黒弥太郎という人が描いた地図です。明治時代の約40年間の、いわゆる北海道開拓の進み具合を地図上で10年ごとに色分けして―モノクロ印刷の雑誌に発表されたものなので正確にはベタ塗りと網掛けの種類で区別をつけて―変化が一目で分かるように工夫してあります。

先ほど「レイヤー」とまったく同じ発想です。井黒さんの元の論文にあたってみましたら、井黒さん自身の関心は題名どおり、もっぱら「明治時代の北海道開拓はどう進展したか」という点にあったようです。ちょっとした偶然に「おお」と思ったのですが、井黒さんがこの地図を作ろうと思ったのは、明治時代の『北海道殖民状況報文・日高国』を読んだのがきっかけだった、と書いてありました。明治政府が移住・入植を促す政策をとって、どの場所でいつ開拓が始まったのか、その「状況報文」の記録から「開拓初年度」を拾って地図に落として、同じ時期同士の地点を結んで線を引いてみたら、開拓の進展を示す線、アメリカの西部開拓では「フロンティア・ライン」と呼んだそうですが、それが日高地方でうまく描けたので、がんばって全道規模でやってみたんだそうです。実は私たちも「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」の一環として、同じ『北海道殖民状況報文・日高国』の現代語訳を試みていて「この人も同じ文献を熟読してたんだな~」と、80年の時を超えてなんだか非常にシンパシーを感じました。
井黒弥太郎さんがこんなふうにもっぱら「明治時代の北海道開拓はどう進展したか」を表現したいと思ってつくった地図を、60年後の俵浩三さんは、自著で「北海道開拓の光と影」という見出しをつけたパートに引用して、この時期の開拓や開発が在来の自然環境をいかに改変してきたかを裏づけるデータのひとつとして利用なさっています。それからさらに15年後、今度は現在の私たちが、たとえば俵さんのこの『北海道・緑の環境史』を、北海道開拓/開発による自然環境改変の証拠文献、つまりデータとしてありがたく再利用させてもらう番です。「植民地開発にともなう環境破壊などによって先住民族がいま制限されているすべてを先住民族の諸権利と見なしてよいのでは」という、さきほどお話しした視点で、みたび地図の上にこれらデータを書き込んだ薄い透明の膜=レイヤーを重ねて、アイヌ先住権の見える化を試みようとしている、というわけです。
先人の成果をこんなふうに再利用させていただくにあたって、オリジナルに最大限の敬意を表すべきなのはいうまでもありません。
地図でつながる先人と私たち
先ほどの「1857年の石狩川」に戻って、この地図には5枚のレイヤーを重ねた、と申し上げましたが、実は私が自分で作文したのは一番上の1枚、タイトル、見出しと説明文だけです。松浦武四郎の「石狩日誌」のオリジナルは、現物の精密なスキャン画像を国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できますけど、幕末に毛筆の草書体で文字の書かれた木版の小冊子で、素人にはとても歯が立ちません。昭和時代にそれを解読して一字のこらず楷書体に書き起こす作業を手がける篤志家が現れ、たとえば吉田武三編『松浦武四郎紀行集』(冨山房)といった精確な翻刻本が出版されます。あるいは、現代語に訳して出版する研究者さん、ライターさんたちも登場します。前述のように、ポスターでは、旭川ご出身の郷土史家の丸山道子さんが1973年に自費出版された現代語訳『石狩日誌』の文章を引用させていただきました。さっぽろ自由学校「遊」の花崎皋平さんは、1988年に松浦武四郎の評伝『静かな大地』(岩波書店)を出しておられますが、この中にも丸山さんのお仕事への言及があります。
今日は、たった1枚のポスターではありますが、165年前の松浦武四郎の「石狩日誌」、130年前の北海道庁地理課が製作した「北海道実測切図」、52年前の丸山道子さんの現代語訳を、こんなふうに同じ一枚の地図の上に重ねて、自然環境の改変やアイヌ先住権の制限の「見える化」といった現代的な問題の解決にむけた材料として使わせてもらいました。これらの作品を残してくださった先人たちに、私は心から感謝を申し述べたいと思いますし、きっと先人たちも自分たちの残したものが、後世のわたくしたちにこんなふうに伝わっていると知ったら喜んでくれるんじゃないかな、と思います。
先人の成果を利用させていただく、といえば、私たち森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクトには、萱野茂二風谷アイヌ資料館館長の萱野志朗さんが当初から参加くださって、志朗さんが90年代から長らく発行し続けてこられた「二風谷アイヌ語教室広報紙」の記事テキストを、「先住権を見える化するのにぜひ活用してほしい」と、ご提供いただいています。志朗さんが地元の年輩のみなさんにインタビューして執筆された記事の中から、「森・川・海のアイヌ先住権」にまつわる、主に昭和前期時代の思い出話を抜き出して、デジタル地図に重ねて、そこから何が見えるのか、といったことを表現したウェブページをすでに公開しています。マウスを使ってあちこち地図を自分で動かせて楽しいので、ぜひご覧いただければと思います。
私は「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」で仕事をさせてもらってほとんど初めて、この地理情報システムに深入りしかけてるところですが、3年くらい付き合ってみて、これをどんな風に使えば、実際のコミュニティ内でうまく合意形成を図れるのか、私自身、まだつかめていません。ただ、少なくとも議論を始める最初は、「情報てんこ盛りの全部乗せ」をいきなりお見せするより、数ある情報の中から大事だと思えるもの、あるいは自分が興味を持ってぜひ知りたい、他のみなさんにもお伝えしたいと思ったものを、できるだけ厳選して、レイヤー5枚くらいのシンプルなものを、今日のようにある程度時間をかけてゆっくりご覧いただいて、集まってくださった皆さんに、同じくらいの深さで理解してもらうほうが、遠回りに見えて案外、次の議論に移りやすいんじゃないかな、とも思います。
ところで今週末(講座時)の1月25日のお昼から夕方まで、NHK札幌放送局のロビースタジオで「札幌ワイルドサーモンプロジェクト」という市民団体が主催するフォーラムが予定されています。実は今日ご披露したこのポスターは、その会場で展示するために作ったものです。サカナ好き、動物好きの人たちが集まるので、きっとじっくり見てくださる人もおられると思います。「川の環境の目標を一緒に考えよう!」というのがこのフォーラムの今年のテーマで、私の発表はこの石狩川のポスターだけですが、川の環境の目標というなら、本格的な開拓・開発を受ける以前の石狩川の姿や、先住民のみなさんがたの暮らしぶりをまず確認しとくべきでしょ、といった感じでプレゼンしてこようかと思っています。
(このイベントは終了しました)
ともあれ今夜のお話が、皆さんの好奇心を刺激して、地理情報システムを使ってアイヌ先住権の見える化を自分もやってみたい、とか、この問題の解決を目指す合意形成の議論に自分も加わってみたい、とか、そんなお気持ちにつながったとしたら、とても嬉しいです。
Q and A
- 質問1(オンライン参加者)
合意形成は、誰と誰の合意なのでしょうか。また先住権の見える化に際して、松浦武四郎は植民者の先駆け、先駆的な存在だと思いますが、その人を(講義の)中心にしたのはなぜでしょうか。 -
平田:まず誰と誰の合意形成か、という点に関してご回答します。
私はカムイチェプ・プロジェクト研究会という活動をしていました。その時にサケの生態、サケにまつわる法律、アイヌがサケをどう利用してきたか、などをそれぞれの分野の専門家に話しを聞き、海外の事例も含めて勉強しました。その時に一つ、非常に印象的だったのが、サケの川は北海道-アイヌモシリにたくさんあるけれど、それぞれに個性があるということです。同じ川はない、同じサケはいない、それぞれのサケを巡って色々な歴史が刻まれています。確かに、全体的にサケの権利を戻そうということが言えると思いますが、どのようにそれぞれのサケの川で、サケの権利をアイヌに保証していくか、は地元それぞれで相談をしていかないと前進していかないと思っています。そこで、合意形成というのは、それぞれの地元で「今、自分たちの川はこういう状況だ。過去はこうだった」という、自分たちの川の状況を地元のアイヌ、地元のアイヌでない人たち、サケに関わっている人たち、サケに関わっていない人たち、川の側に住んでいる人たち、こういう人たちとの共有や、一緒に相談することが合意形成に大事だと思っています。その時の相談の材料になるような情報を、本プロジェクトでご用意出来たらと思っています。これが、今の私なりの思いです。そして、なぜ武四郎を選んだのか、という部分ですが、武四郎はもちろん和人で侵略の片棒を担いだという側面もあり、様々な評価が出来る人だと思います。特に数年前に、北海道命名150周年というキャンペーンが北海道庁を中心に行われましたが、この時松浦武四郎は、北海道の名付け親だということで、アイコンというかマスコット的な感じで取り上げられたこともありました。更に武四郎は、アイヌ民族との人々とも友好な関係を築いたとされていているので、そういう面でもシンボル的な扱いを受け、祭り上げられた部分もあると思います。でも武四郎は恐らく、そういうことに違和感を覚えたのではないかな、と私は思っています。というのは、江戸幕府が倒れ明治政府に代わった際、武四郎は北海道の結構重要なポジションにつくのですが、自分の主張していることがことごとく(政府に)跳ね返され、何年かでその役職を辞めざるを得なくなります。なので、複雑な歴史を持っている人だと思います。それで、私も和人ですが、私にとって武四郎はルポルタージュの大先輩だと思っています。とても描写が真に迫っていて、かつ動植物に対する造詣が深く、イラストも上手なんです。こういう彼が残したものは、和人なのだけれど、我々にとっては非常に貴重な情報源として価値があるかなと思っています。確かに、その人が何をした人で、それを利用していいのかというのは、倫理問題になるのかもしれませんが、今のようなご質問を受けた際に、きちんと説得的な話が出来るような準備は、今後心がけていきたいと思いました。
質問者1:難しいポイントだなと思います。合意形成の方のお話からすると、「地域で」というコメントがありましたが、アイヌは圧倒的にマイノリティで、その地域で合意するというやり方は、今行われていることと同じでは、という気もします。合意は、どうやって合意するのでしょうか。
松浦武四郎の話では、どれだけ精密な情報を残したか、という点で資料としては貴重かもしれません。でも、先住民の権利という視点から考えますと、個人的な意見では、先住民の権利を語る際に、和人の植民者的な先駆者を用いると、和人のポジショナリティが揺らいだ話にならないか、と気になります。
司会(小泉):とても大切なポイントだと思いますが、今日の講座に八重樫さん(本プロジェクト代表)も参加されています。八重樫さん、何かコメントはありますか。
八重樫:合意形成に関して、合意はもともと、被害者はアイヌ民族で、加害者側(和人)が被害者に歩みよらないと、決して被害者・加害者という関係性の中で、合意形成というのはないのではないでしょうか。質問者さんのご指摘が、もしかすると合意形成と言いながら、和人側にアイヌを近づけていく、そういうことなのではないかと聞きながら思いました。
もう一点、武四郎をなぜ使ったかというと、アイヌ側の地図や資料がないからだと思います。アイヌが資料を残していないので、現代で、当時の状況を再現することができないので、シャモ(和人)側の資料を使わざるを得なかったということではないでしょうか。
平田:先日、カナダの先住民族ネイションでガーディアン(環境保護)として雇われて関わっているプロジェクトメンバーの一人が、アイヌ側の情報、先住民族の知、を我々(和人側)が勝手に使うことに、慎重になるべきだという指摘を受け、その通りだと思いました。印刷物になって残っている物は、和人が作ったものが入手しやすいということで、使わせてもらっています。恐らく、アイヌ民族の中で維持されてきたコミュニティならではの情報はあるし、覗いてはいけないですし、勝手に利用してはいけない(搾取しない)と思っています。
合意形成は、私の言葉の使い方が誤解を生んでしまったかもしれません。例えば、ラポロアイヌネイションの取材をさせていただいていますが、同じ海で漁をしているアイヌでない人たちと彼らが、すごく対立した関係にあるかというと全くそうではありません。対立を深めようともしていないといつもご説明くださって、それは彼らの本心だと私は思っています。
合意形成というと、どちらかの意見に寄せてなければいけない、というような感じがするかもしれませんが、私が今回申し上げたかったのは、今まで例えばサケを何匹捕るかというときに、アイヌにお伺いを立てるということはないです。サケの孵化場で、今年は何匹のサケを育てます、というときに、アイヌ側に「これでいいですか」というお伺いを立てて、許可を求めるという仕組みは全くありません。一方、アイヌ側が「この川で儀式のために何匹サケを捕りたい」となった際、まず孵化場に相談をして、役所でハンコをもらわなければいけないという仕組みはあるんです。ここは非常にアンバランスになっていて、私も非常に大きな問題だと感じています。
そういう状況からみると、アイヌとアイヌではない住民が、どちらかに「出ていけ」というのではなく、この先どんな風にここで暮らしていくのかの話し合い、お互いに理解し合うという段階すら、今はどこでも行われていないと思うので、それが実現出来ていければいいなという思いを、合意形成という言葉で表現してしまいました。
質問者1:合意形成ですと、それはもともと先住民族が持っていた権利を返すことにはならないのではないでしょうか。もともと持っていた権利を和人は返還しなければいけないのに合意をして、ある(自分たちの)取り分は取っておこう、という風に感じてしまうんです。現実的にそうするしかない、というお話なのかもしれませんが、先住民族の権利というのであれば、(和人からアイヌに)還す一方な気がします。もし合意するというのであれば、それは権利の返還ではなく、自治になるのではないかと感じました。
- 質問2 (オンライン参加者)
講義の終盤で話されていた川の環境を元に戻そう、と言うことに賛成です。出来れば他の環境もそうなれば良いと思います。質問として、一つ目は、今まで環境破壊は、アイヌになんの相談なく勝手に和人が進めていたことに疑問を覚えています。ラピダス社は、PFASが検出されている安平川から採水し、使用した水を千歳川に排水することを計画しています。そのため、その水は最終的には石狩湾に流れます。太平洋側と日本海側を人口的に繋げることになり、サケや他の生物に大きな影響が出るのは間違いないと思います。ラピダス社の半導体工場稼働による汚染は間もなく始まるので、そちらも一緒に考えていただけたらと思いました。
二つ目は、3、4年前の夏にイトウが大量死したニュースがありましたが、その影響は出ていますか? -
平田:ラピダス社のPFASの話は私たちも注目していますが、この辺りは、既に30年ほど経過していますが、千歳川放水路という計画がありました。更に遡って戦時中にも水路を掘って太平洋につなげるという、非常に狙われている場所という印象があります。今後もきちんと取り組んでいきたいと思っている事項です。
二つ目のイトウに関して、気候変動と関連しているのではないかと思いますが、川の水温が数日間上がったため、イトウが死んでしまい、何とかしなければという話にはなっている。川の水温が上がった場所は、道北天塩川や猿払川など限定的だったので、他の生息地ではあまりこういった現象は見られませんでした。ただしこのエリアは、イトウの生息が一番濃密だと言われる場所ですので、次の年の繁殖(親魚の減少)に影響があり、将来イトウの減少につながるのではないか、と言われています。ただ、地元の方が一生懸命、魚が何匹くらいいるか毎年数えるモニタリングをされています。ちゃんと見ている方がいる、ということが、絶滅につながらない何らかの対策につながるのではと思っています。
とにかく、自然環境をどう維持したり回復させるかというのは、状況を見続けることが大切で、サケにしても、誰もサケを川で捕ってはいけないという法律があり、この影響で川でサケのことを見る人が少なくなって、それが先ほどのラピダス社のような問題にもつながるのかもしれません。川に関心のある人が増えれば増えるほど、こういう問題も防げるのではないかと思っています。
- 質問3 (オンライン参加者)
武四郎の時代、和人しか資料を作ることが出来ず、それが特権だったと今の時代から解釈すると、それを可視化することで、アイヌの資料がないという事実を明らかにすることが出来るので、可視化することで、今ないものを浮き上がらせるような感覚を、このプロジェクトから感じました。とても意義があることだと思います。地図を作るということも特権であり、そういうツールを日本語として可視化している部分も目の当たりにしているような、複雑な感覚があることを、そのまま一度受け入れることから、歴史や植民地時代、今を考えることになるのかと思いました。 -
平田:自分で地図を作ってみて、この作業自体に意義があるなと思いました。作ってみる、調べてみるということは一番理解が進みますし、何が知りたいのか、大切か、が見えてきます。森川海のホームページに年表を掲載しているのですが、自分で作ってみたことで、こういう情報は残して、こちらは外す、詳しく書けば書くほど内容が詳しくなっていくのですが、情報の取捨選択から初めて年表の意味が分かったと思います。これがプロジェクトでやるべきことなのかもしれません。つまり、参加者が自分が作ったものを見せ合って、議論するということです。こういう場になればいいなとも強く感じています。
参加者の感想、コメントのまとめ
参加者の方々からは、「色々なことが頭の中を巡りますが、まず、地図をつくる目的というのを(どこで、誰が、なぜ)を改めて考えると、複雑な心境になりました。」「北海道開拓図は、和人がアイヌの大地であるヤウンモシリをすっかり塗り替えてしまったことを実に雄弁に語っていると感じました。」といった感想や「武四郎ら「開拓」や「植民」の先手となった者が残した記録が貴重だからといって、アイヌの面前で敬意や感謝を表明するのはどうなんでしょうか。」というようなご指摘もありました。
地図情報を得ること自体が権力がなければできなかったことや、和人が作った地図を使わざるを得ないことについての、森川海プロジェクトとしての立場や見方のような形を考えるべきではと、プロジェクトメンバーの新たな課題も見つかった回でした。
(まとめ:双木麻琴、七座有香)
