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1850年ごろの「東西蝦夷地・場所」位置図

「場所(ばしょ)」とは、18〜19世紀のアイヌモシㇼ/蝦夷地(北海道島以北の地域)における日本の経済活動の拠点、もしくはエリアを意味する言葉です。

17世紀、アイヌと日本とのウイマム/交易は、日本側が蝦夷地沿岸の各地に設けた「商場(あきないば)」と呼ぶポイントで行なわれていました。当時の日本側の対アイヌ交易の公式窓口は、松前藩です。松前藩は、渡島半島南端の松前に本拠を構え、江戸幕府から唯一、蝦夷地での対アイヌ交易の特権を与えられていました。藩主や藩士たちが各商場での交易の日本側の主体(知行主 ちぎょうしゅと呼ばれました)となり、それぞれ松前から自分の商場に定期的に——1商場に夏船1艘——交易船を派遣して蝦夷地の産物を入手。それを本州島以南から松前に集まってくる業者(商人)に転売して利益をあげました。このシステムは、商場知行制(あきないばちぎょうせい)と呼ばれています。

知行は、もともとは「領主の所領支配権」を意味する用語です。ただし、松前藩の「商場知行」は「領地の支配権」ではなく、あくまで「商場でアイヌと交易する権利」を指しています 。

18世紀を迎えると、松前藩の知行主たちは次第に、その特権を手っ取り早く現金化する道をたどります。自分の商場での権益を本州島方面の商人にゆずり、かわりに商人から運上金(うんじょうきん)と呼ぶ代金を取るのです。

知行主と契約を結んだ商人は、「請負人(うけおいにん)」と呼ばれました。現代の感覚だと、業務委託契約といったら、委託する側が委託料を支払って受託者に業務を請け負わせる、というイメージが湧きますが、当時の契約はアベコベです。請負人は、知行主に毎年定額の運上金さえ支払えば、それを上回る交易・漁業の利益はすべて自分のふところに入ります。じゅうぶん商売になったのです。

互いに競合相手となった請負人たちは、自分の管轄領域にこだわり出します。ウイマムのために商場に集まってくるアイヌ集団の領域などに基づいて境界線を決め1、その内側のエリアを「場所」と呼ぶようになりました。場所請負制(ばしょうけおいせい)と称するこのシステムは、18世紀前半のうちに生じ、しだいに蝦夷地全体に広がっていった、と考えられています。

19世紀に入ると、松前藩は商場知行制を廃止しますが、場所請負制は継続します。旧知行主に代わって藩自体が各場所の請負人を入札(いれふだ)で選び、運上金を一括して集めるシステムに変えたのです2。それぞれの場所で、事実上の支配者の立場を維持した請負人たちは、当初のようなアイヌとの交易活動に飽きたらず、その場所での生産強化へと重点をシフトさせます。「場所」は、請負人たちによる過酷なアイヌ支配の温床となっていきます3

さて、このような「場所」の位置や数は、時代によって変化があったようです。『アイヌ政策史』(1942年出版、1972年に新版)を著した高倉新一郎(1902-1990)は、1952年発表の論文で、18世紀中ごろの場所数として、計73カ所の名前を挙げています。

場所の数は、十八世紀の中頃と推定される「蝦夷商賣聞書」によれば(私が見た最古のもの)、西海岸ではウスペチ・フトロ・セタナイ・スツキ・シマコマキ・スツツ・オタスツツ・イソヤ・シルベツ・ユハナイ・フルゥ・シャクタン・ビクニ・フルビラ・ヨイチ・下ヨイチ・ツネタン・シクズシ・オタルナイ・イシカリ(十三場所に分る)アツタ・マシケ・トママイ・テシオ・リシリ・ソウヤの三十八ケ場所、東海岸はトイ・シリキシナイ・コブイ・ト丶ホツケ・ウスジリ・カヤベ・オトシベ・オシヤマンベ・アブタ・ウス・エトモ・ホロベツ・シラオイ・タルマエ・マコマイ(・)シコツ(九場所に分る)・サル・ニイカプ・シビチヤリ・ミツイシ・ウラカワ・アブラコマ・トカチ・シラヌカ・クスリ・アツケシ・キリタツプの三十五カ所、計七十三カ所に及んでいる。其後クナシリ場所やシャリ場所・カラフト場所等が新に出来、其他若干のものが併合されたり分割されたりしている。

高倉新一郎「場所請負制度(1)」北海道郷土研究會『北方研究第1輯』(1952)4

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