平田剛士 フリーランス記者
「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」副代表でウラカウンクルの八重樫志仁さんが2月、「これ、どう思います?」と、和人の私に一冊の本を開いて見せてくれました。ページには、こう書いてあります。
〈忠類地域には、アイヌのみなさんの集落跡は発見されていないんだ。/アイヌのみなさんは、鎌倉時代には蝦夷地で狩猟生活をしていたようなんだ。地域内にアイヌ語の地名が残っていることから、先人のみなさんが開拓に足を踏み入れる前から、アイヌのみなさんはこの地域を往来していたんだね。〉(p7、引用A)
一読「むっ?」と違和感を覚えました。
八重樫さんの手から受け取って確かめた表紙タイトルは『忠類地域読本/TAKE PRIDE~ふるさと忠類の現在・過去・未来~』。A4判、全90ページ弱、コート紙にフルカラー印刷。発行元は幕別町、監修「忠類地域住民会議」、編集「忠類地域読本編集委員会」、令和5(2023)年6月30日発行、と奥付にあります。初版から1年足らずの新しい本です。
忠類(ちゅうるい)は、北海道島・十勝平野の南西部、北緯42.56度、東経143.30度あたりに位置するエリアで、2006年に北隣の幕別町(まくべつちょう)と合併するまでは、忠類村という単独自治体でした。帯広・広尾自動車道の忠類インターチェンジ近くの国道236号沿いに「道の駅」があり、この本はそこで330円で販売されていた、とのこと。ネットを検索したら、幕別町役場のホームページにPDF版が公開されていました。
冒頭の「発刊のことば」にこうあります。
〈……幕別町と合併後、忠類小学校で使用されていた社会科読本「ちゅうるい」が廃止され、社会科読本が「まくべつ」に統一されました。これにより、忠類地域の記述が少なくなり……郷土学習の教材となる図書の刊行が一層望まれ……発刊の日を迎えることができました。〉(忠類地域住民会議委員長 森徹)
町村合併をきっかけに、地元小学校の社会科の授業で使うことを想定して新たにつくった「副読本」というわけです。先に引用した文体が「―なんだ。」「―だね。」とくだけた調子なのは、小学生読者を意識してのことでしょう。
でも「むっ?」と感じたのはそこじゃありません。違うページも読んでみましょう。
(第1章冒頭)
〈プロローグⅠ むかしむかし大むかし、海へと連なる丘の一つにナウマン象の群れが暮らしていました。……その後この象の群れがどのように暮らしていったかは知ることができません。/そして、いくたびもいくたびも星はめぐり、風が吹き抜けていきました。〉(p1)
(第2章冒頭)
〈プロローグⅡ 日が暮れかけた柏林に、斧をふるって木を伐る一人のの男の姿がありました。/木を伐り倒し、馬を使って根をおこし、土を耕す暮らしがもう三年も続いています。……「俺にはもう帰るところがない。俺にはここしかないんだ」……そして、いくたびもいくたびも星はめぐり、風が吹き抜けていきました。〉(p8)
違和感は高まりました。忠類村内(当時)で見つかったナウマンゾウ化石は、およそ12万年前の地層から発掘されました。いっぽう「もう帰るところがない」とつぶやく男性は、前後の記述から、西暦1890~1900年ごろ、この近くに最初に入植した和人がモチーフだろうと見当がつきます。ⅠとⅡを続けて読むと、ナウマンゾウの時代から1890年ごろまでの間、つまりおよそ12万年間、この地域の歴史は空白だった、と暗示を受けます。全4章のすべての冒頭に同じように置かれた「フィクション」(各1ページ)はこの後、「プロローグⅢ」「エピローグ」と続きますが、前者は帯広在住とおぼしき男性観光客の独白、後者は〈忠類に移住してきて50年〉の男性による回想です。先住民は、語り手としても登場人物としても、一人も現れません。
巻末の「ふるさと忠類の年表」(p78~)は、もっと露骨です。上(過去)から順に書き写してみます。
約12万年前 | ナウマン象が生息していた。(前期旧石器時代) |
約3万年前 | 人が石器を使って生活していた。(後期旧石器時代) |
約1万年前 | 人が土器を焼いて生活に使っていた。(縄文時代) |
江戸時代 | 幕府が蝦夷地を治めるようになる。(1855 安政2) |
松浦武四郎が十勝を探検する。(1858 安政5) | |
明治 | 蝦夷から北海道になる。(明治2) |
十勝に7郡51村がおかれる。(明治2) | |
手宮~札幌間に鉄道が開通する。(明治13) | |
生花苗に牧場がつくられる。(明治19) | |
大津~芽室間に道路ができる。(明治26) | |
日清戦争がおきる。(明治27) | |
群馬県人の岡田新三郎が丸山付近を開拓する。(明治27) | |
岡田新三郎により丸山山頂に丸山神社が創建される。(明治27) | |
新潟県人の鈴木久太郎ら7人が下東縁付近を開拓する。(明治30) | |
(以下略) |
「約1万年前」と「1855 安政2」の間が、やっぱり空白です。
八重樫さんに促されて最初に読んだ引用Aの載ったページが、この本でほとんど唯一、アイヌに触れたページでした(p7、コラム記事「簡単アイヌ語講座」)。その貴重な(?)一文にして、〈アイヌのみなさん〉と書きぶりこそていねいですが、「アイヌの往来はあったが、和人が入植する前に先住していた物的証拠はない」と念を押すような記述です。また引用Aは、「アイヌのみなさん」を「先人のみなさん」とはっきり対置させています。つまり書き手は、想定する読み手(地元の小学生たち)に、アイヌは「先人」に含みません、と明言しています。
表紙に「TAKE PRIDE」(“誇りを持て”といった意味でしょう)と大きな文字をかかげているわりに、この本の作り手たちは、どうやら他者のプライドに無頓着なようです。地元民ではない八重樫さんですが、アイヌのアイデンティティを持つ一人として、民族の歴史を無視され、おそらく侮辱を受けたような感情を抱いて、でもそれを和人と共有できるか確かめたくて、私に「どう思います?」と問うたのでしょう。私は、先住民族と100%一致できる自信はないものの、「この歴史の描き方はダメ」と答えるのに躊躇はありませんでした。
それにしても残念なのは、2020年代もなかばに差しかかろうといういま、よりによって幕別町が、これを町内の小学生向けの副読本として新たに発行したことです。
〈北海道地域史の基本的性格を『開拓』とし、『開拓の進展』=北海道の発展……とする見方〉1は、少なくとも1970年代には「開拓史観」「拓殖史観」と批判的に呼ばれて、以降の歴史学者たちに自省を促し、アイヌ・女性・囚人・土工夫・強制連行外国人など、旧史観が無視してきた「民衆史」「人権史」の掘り起こしに向かわせました。おかげで現代では、「開拓史観」「拓殖史観」は一部レイシスト(人種主義者)のヘイトスピーチくらいにしか見られなくなっています。歴史学のこうした成果を明らかに反映させて、2019年に成立したアイヌ施策推進法はアイヌを〈日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族〉と明記しました(第1条)。
「よりによって」と書いたのは、幕別町には古くから「幕別アイヌ協会」が存在し、幕別町はアイヌ施策推進法にもとづく交付金を受けて「幕別町アイヌ施策推進地域計画」(2022~2027年)事業に取り組んでもいる自治体だからです。もし発行前に、アイヌ町民や役場の計画担当職員がチェックを入れていたら、こんな古くさい「開拓史観本」を幕別町は発行せずにすんだかもしれません。
いえ、アイヌや担当職員でなくても、一読「むっ?」と気づいた人は多かったはずです。でも「オカシイ」と声を上げる人はいなかった……。
それが残念です。
参照文献
- 海保嶺夫「北海道の『開拓』と経営」『岩波講座日本歴史16 近代3』岩波書店、1976年、p180 ↩︎