平田剛士 フリーランス記者
19世紀から20世紀にかけて、ヤウンモシㇼ/北海道島で起きた最大の環境変化は、「爆発的な人口増加」だったのではないでしょうか。
北海道総合政策部計画局統計課「第130回(令和5年)北海道統計書」1に収録されている北海道人口統計には、1701(元禄14)年以降、2021年までの人口が掲載されています。ただし、最初の170年間(~1871年)は、とびとびに15回分のデータしかなく、おまけに〈人口の性質、範囲、調査方法は不明〉と注釈のついた数字です。この間の最少値は1万5848人(1707(宝永4)年)、最大値は8万9901人(1871(明治4)年)です。これらの数値がどのていど正確なのかは不明ですが、この時期のヤウンモシㇼ/北海道島の人口は、おおむね数万人のレベルで推移していたと考えられます(グラフ1)。
1869(明治2)年以降は、行政機関によって毎年の人口が欠落なく記録されるようになります。本州島を本拠とする日本政府が、それまで蝦夷地・北蝦夷地と呼んでいた北隣の島々を「北海道」「樺太州」と改称して植民政策をとり始めたのがこの年です。
1869年以降に実施された主な北海道植民政策
概要欄の出典:北海道史研究協議会編『北海道史事典』(北海道出版企画センター、2016年)
政策 | 期間 | 概要 |
---|---|---|
移民仮扶助規則 | 1869~1874 | 募移農民・自移農民・募移工商・自移工商にわけて扶助を行なうことにした。特に募移農民には、入植地までの賄いのほか、家1軒、3年間の米や塩味噌料、生活用具や農具などを支給した。(p274) |
屯田兵制 | 1874〜1899 | 明治8〜明治32年の移住者は約7300戸・4万人、兵村は37村に達した。(p280) |
殖民地撰定事業 | 1886〜1890 | 広大な国有未開地を効率的に開拓者に処分して開拓を急速に推進するためには、法的整備とともに、開拓に適した未開原野の状況を調査し、入植地を事前に測量・区画して詳しい地図を作成することが必要であった。(p280) |
北海道土地払下規則 | 1886〜1897 | まず無償による貸下げを行ない、開墾されているかどうかを厳しく確認したのち、1000坪1円で売払うという手順だった。土地のごく一部に形ばかりの痕跡を残しさえすればよかった前制度の弊害をなくすため、開墾した土地以外は返地させることを徹底し、土地投機者の占有を阻止しようとしたのである。(p312) |
北海道国有未開地処分法 | 1897〜1945 | 広大な官有地の払い下げが可能になった。そして殖民地区画、屯田入植、道路開削、鉄道敷設、炭鉱開発などが進められた。……最も大きな改正点は、開墾・牧畜・植樹のための土地を、それまでの無償貸与・有償払下げから一転、無償貸与・無償付与としたことだった。……大土地経営をめざす資本家ほど利するところが大きくなった。また地積制限も大幅に緩和しており、資本力のある起業家に大地積を任せ、未開地開拓の推進役となることを期待した制度改正といえる。(p296、p312) |
政策の影響は数字の動きにくっきりと表れていて、1869(明治2)年から30年間をみると、前年人口比は平均109.7%と、非常な勢いで人の数が増えていることがわかります(グラフ2)。ちなみに、同じ期間の日本総人口(北海道を含む)の前年人口比は平均100.4%ほどです(第72回日本統計年鑑、p36〜37)。北海道人口が1902(明治35)年に初めて100万人を突破した後、200万人を超えるまでに要した時間は、わずか16年間でした。1869(明治2)年から大正11(1922)年にかけて、本州島方面からヤウンモシㇼ/北海道への移住者総数は約56万戸、204万人に達した、と推定されています。2
1930年代から1940年代にかけて、北海道人口の増加率はいったん鈍ります。アジア・太平洋戦争敗戦を経て再び増加ペースを上げ、1959年に初めて500万人を突破しますが、その後は前年比99.5~101.1%と、漸増のまま推移します(グラフ3)。
1997年に過去最高の569万8506人を記録すると減少に転じ、2021年現在の北海道人口は518万2794人です(グラフ4)。
参照文献・引用文献
- 北海道総合政策部計画局統計課「第130回(令和5年)北海道統計書」https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tuk/920hsy/152976.html 2023/08/02閲覧
同統計書収録の人口データセットには、次の注釈がついています。
(1)この表の数値中、明治2年~14年までは開拓使事業報告、同15年~18年までは函館、札幌、根室三県の報告に基づく数値である。
(2)開拓使事業報告による明治2年当時の人口には福山・江差地方(旧館藩管内)の人口が脱ろうしているとともに、アイヌの人口も調査が疎ろうのため6,643人と過少に失している模様である。(北海道庁 大正7年8月発行 北海道重要統計表)
なお、当時の福山・江差地方の人口は明治3年5月館藩届出書によると54,325人で、明治6年のアイヌ人口は開拓使事業報告によると16,272人である。資料 総務省統計局、北海道総合政策部計画局統計課
(3)昭和19年までの数値には歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島及び千島列島分の数値を含む。
(4)昭和26年以降の国勢調査年以外の年は総務省統計局推計人口である。 ↩︎ - 北海道史研究協議会編『北海道史事典』(北海道出版企画センター、2016年)p280 ↩︎