宇仁義和
うに・よしかず 東京農業大学(オホーツクキャンパス)教授。
https://dbs.nodai.ac.jp/html/16_ja.html
こんにちは、東京農業大学の宇仁です。大学の本拠は東京ですが、生物産業学部が網走市内にあって、1学年400名弱の学生が学んでいます。私はそこで、博物館の専門職員――つまり学芸員の養成課程の講義を担当しています。また東京農大に務める前は、斜里町立知床博物館で働いていました。網走や斜里などオホーツク海の沿岸では、日常的に野生のアザラシやクジラを見かけます。博物館時代は、海岸に漂着した海獣の死体を回収して標本にする、なんていう経験もして、次第に海の哺乳類に興味を抱くようになりました。
いくつか資料をお持ちしましたので、最初にご紹介しておきます。
- アイヌ工芸品展「アトゥイ」図録(2022年)
- 知床博物館特別展「知床の海獣狩猟」図録(1988年)
- 児島恭子「北方交易とラッコ」(1999年、木下耕甫編『白い国の詩』517、東北電力株式会社地域交流部、p4-13)
- 大塚和義編『太平洋沿岸の北方先住民の交易と工芸』(思文閣出版、2003年)
多様な海生哺乳類たち
さて、きょうは「海生哺乳類」とか「海獣」とかの言葉が出てきますが、ほぼ同じ意味で使われている、と考えてよいと思います。ただし研究者によっては「海獣の中に鯨類(げいるい)は含めない」という見解もありますので、ちょっとご注意ください。また、私たち人間は「海の哺乳類」とひとくくりにしていますが、実はこんなに多系統です。

生物分類学では、クジラの仲間の祖先が偶蹄目(ウシの仲間)から枝分かれしてきたと考えられるのに対して、アシカやアザラシといった鰭脚(ききゃく、ひれあし)類の祖先種は、食肉目(イヌの仲間)から進化してきたと考えられています。また、ラッコとホッキョクグマは、鰭脚ではなく“普通の”足をしてますけれど、海獣の仲間として扱われています。
哺乳類の進化の系統樹を時間軸に合わせて描いてみると、かなり初期の段階で、その後ユーラシア大陸でしか見られなくなるグループと、アフリカ大陸にしか見られなくなるグループに枝分かれしていたことが分かるのですが、クジラ類、鰭脚類、またラッコやホッキョクグマの祖先種がいずれもユーラシア・グループに属しているのに対し、マナティやジュゴンはアフリカ・グループの祖先種から進化してきた、という違いもあります。
海獣の種数も確認しておきましょう。まず、クジラ類は世界中で約90種にのぼります。アザラシの仲間は18種、アシカの仲間は15種です。ちなみに、アザラシの仲間は陸上では寝そべっていますが、アシカの仲間は大きな前脚を支えに上半身を立てることができます。それによってアザラシ類とアシカ類をはっきり区別できます。また海中を泳ぐ際、アシカの仲間が前脚のヒレを羽ばたくよう動かして進むのに対し、アザラシ類は後肢を左右に振りながら泳ぐ、という違いもあります。
海獣たちのネーミング
根室海峡などのラッコから、沖縄近海のジュゴンまで、南北に細長い日本列島の沿岸や近海では、これら多種多様な海生哺乳類の分類群のうちの大半を見ることができます。世界中を見渡しても、けっこう珍しいエリアだといえます。
そのおかげで日本語(地方語を含む)には、海生哺乳類のすべてのグループに、それぞれ固有の名前があります。たとえば、ジュゴンは琉球地方で「ザン」「海馬(けーば)」と呼ばれていました。ニホンアシカ(絶滅種)は「葦鹿」「海鹿」「海驢」、オットセイは「膃肭獣」などと表記されてきました。オットセイには「ウネウ」「オオネップ」といった呼び方もありますし、ラッコは「臘虎」「猟虎」「海獺」などと漢字を当てていました。ただし「アザラシ」だけは、どこの地域でついた名前なのか、語源が不明です。
これに対して、たとえばヨーロッパにはアシカ類を指す固有語がありません。北大西洋にアザラシ類はいますが、アシカ類は生息していません。だからアザラシ類とアシカ類を区別せずにまとめて「シール seal」と呼んでいます。
山スキーをする人には、シールは馴染み深い言葉でしょう。斜面を登る際、スキー板の裏にこれを貼ると、一方向にしか滑らなくなって歩きやすい。つまり「seal」は「アザラシの毛皮」という意味も含むし、さらに「アザラシ狩りをする」という動詞としても使われます。18~19世紀、良質な毛皮を求めてヨーロッパから狩猟者たちが北太平洋に到来しますが、彼らのいう「sealing」はアザラシ猟というよりアシカの仲間のオットセイ猟だったでしょう。アザラシ類と区別して呼び分ける際に使われるアシカ類の英語名称は、「Eared seal=耳のあるアザラシ」です。
日本に住んでいる私たちも、オットセイやアシカをそんなにしょっちゅう見ているわけではありませんが、沿岸や近海に生息するこれらの海獣に親しみを感じる素地はあったんじゃないでしょうか。だからそれぞれの特徴を細かく見分けて、個別の名前で呼び分けることできたんだと思います。ちなみに、日本列島でアザラシ類が見られるのは北海道だけ、と思われがちですけど、実は九州や山陰地方の海岸にもたまにゴマフアザラシが漂着することがあります。朝鮮半島の西にある渤海湾や黄海、ウラジオストクに近いピョートル大帝湾に、現在もゴマフアザラシの小さな個体群がみられます。九州や山陰地方で見つかる漂着個体は、それら大陸沿岸の生息地から流されてきた可能性が高いと思います。
アイヌのラッコ猟
それではアイヌ民族の海獣猟、まずラッコ猟についてお話を進めましょう。
最初に紹介した文献のうち、日本史研究者の児島恭子さんの「北方交易とラッコ」(1999年)に、豊富な写真資料とともに、詳しい解説があります。それによると、早くも中世の(日本の)文献にラッコが登場します。たとえば室町時代、1474年ごろに作られた文明本『節用集』(せつようしゅう)という一種の国語事典に、「獺虎」の見出しがあります。100%の断言はできませんが、説明文を読む限り、正しくラッコを指していると思います。
また1603年ごろ、イエズス会が長崎で発行した『日葡(にっぽ)辞書』には、「Raccono cauano yóna fitogia. ラッコの皮のような人じゃ」という日本語の文例が採録されています。日葡辞書は、当時の日本語の発音をローマ字で記し、ポルトガル語の解釈を添えたものです。この文例は「あの人は容易に誰の意見にも傾き、どちらの側にもなびく人である」という意味だ、とポルトガル語で説明されています。つまり、この当時すでに「ラッコ」の名前は広く日本中で知られていたし、ラッコの毛皮に関する知識もある程度は常識化していたんだと思います。
17世紀、江戸時代を迎えると、ラッコ貿易に関して個別具体的な人名や数量、価格などの記録が残されるようになります。そうした記録からは、幕府が商人同士の直接取引を禁じていたにもかかわらず、それを破って利益を上げるヤミ取引があったことが分かりますし、アイヌの口承文芸からは、危険なラッコ猟で命を落とす猟師たちのいたことが分かります。
言い忘れていましたが、ラッコはアイヌ語起源の名前です。ついでにいうとトナカイもアイヌ語です。これら動物の種名はヨーロッパから学んだのですか? と聞かれることがありますが、そうではありません。アイヌの言葉をアイヌから学んで、そのまま日本語(和名)として使うようになった命名例です。
本州以南の住民たちがアイヌ文化について具体的に詳しく知るようになるのは、ようやく近代の初期、幕末から明治維新(1868年)を経て新政府が成立する前後からでしょう。いま私たちが「昔のアイヌの姿を描いた絵」と聞いて思い浮かべるような有名な作品が描かれ出すのが江戸時代後半ですが、知識が普及するのはこのころでしょう。その近代初期、それまでの時代と何が大きく変わったかと言えば、それは、日本列島近海(太平洋西岸域)に“外国船”がたくさんやってくるようになったことです。明治政府はラッコをはじめ海獣の毛皮がお金になると気づいて、開拓使(1869年8月ー1882年2月)に命じて択捉島でラッコ猟業を直営し始めます。野生のラッコを捕獲し、毛皮をとって輸出する新産業を興そうとしたのです。これにはロシアに対する「北方警備」強化の意味合いもあったでしょう。
大蔵省が1885年にまとめた「開拓使事業報告 第3編 (物産)」という公文書に、開拓使によるラッコ猟の経過について、まあまあ詳しい記録が載っています。そこには「択捉島土人ヲ雇ヒ臘虎猟ヲ試ム」と書かれています。開拓使の官吏たちが自分でラッコを捕獲していたわけではもちろんなくて、この「土人」がアイヌを指すとすれば、開拓使のこの事業で実際にラッコの銃猟に携わっていたのは択捉(エトロフ)島在住のアイヌ民族だったことになります。
すでに江戸期以前から中部千島や北千島に居住していた千島アイヌはラッコ猟をして、千島列島間の交易を担っていました。近代に移って、択捉島と得撫(ウルップ)島の間に日ロ国境線が引かれ、日本政府に支配されるようになるなど、形態は異なりますが、アイヌは引き続きラッコ猟に従事していたということです。
こちらは「開拓使事業報告」に掲載された「択捉臘虎猟場図」です。島の沖合に描かれた小さな黒点がラッコの猟場を表しています。これによると、ラッコは主に太平洋、島の南側や西側の海に分布していたようです。

開拓使のラッコ猟業は、開拓使廃止後の3県1局時代(1883年1月ー1886年1月)には農商務省に引き継がれます。ラッコに関する当時の文献を調べていると、択捉島でのラッコ猟の様子を描いたイラストが見つかりますが、「これは分かりやすい図だな」と思ったものは、だいたい外国の文献の挿し絵を丸写しにしている場合がほとんどです。この絵もそうです。択捉島のラッコ猟が実際にこんなだったかどうかは分かりません。

時間をちょっと戻しますが、1875年に日本政府とロシア政府との間で樺太・千島交換条約(樺太島全域をロシア領、千島列島全域を日本領とする取り決め)が交わされ、日本が新たに領土化した北千島の島々に、開拓使は調査隊を派遣しています。調査隊は、博物館的な言い方をすると「貴重な資料」を多数収集して戻りました。たぶんそのせいもあって、新領土=千島国(ちしまのくに)の特産物として、ラッコにスポットライトが当たったんだと思います。政府・内務省主催の「第1回内国勧業博覧会」(1877年、東京・上野)に合わせて制作された『大日本物産図会 』というパンフレットには、北海道を紹介する錦絵2点が掲載され、1枚は「函館氷輸出之図」、残る1点がこの「千島国海獺採之図」(三代歌川広重作)でした。「海獺」はラッコのことです。猟師が手にしている猟具は……槍(やり)に見えますね、実際には銛(もり)だったはずですけれど……。

またこの絵は、千島アイヌのラッコ猟と、(アリューシャン列島の先住民)アリュート(アレウト)が行なっていたラッコ猟とを、混同しているかも知れません。というのも、ここに描かれている3人乗りのカヤックは、アリュートがラッコ猟に用いていた舟に酷似しているからです。ちなみにこのカヤックは、もともとは2人乗りだったのが、キリスト教布教のロシア人宣教師を乗せるために真ん中に座席を増やして新たに開発したもの、と言われています。開拓使の調査隊はこのアリュートの3人乗りカヤックを日本に持ち帰っています。現物は現在、函館市の北方民族資料館に収蔵されています。
20世紀初頭、北太平洋の海獣類は乱獲にさらされて絶滅の恐れが生じたために、(関係国のロシア、日本、アメリカ、イギリス(カナダ)は)1911年に「膃肭獣(オットセイ)保護条約」を結んで、オットセイの海上捕獲とラッコの公海での捕獲を禁止しました。オットセイの猟場は陸上(繁殖場)のみとされ、ラッコはそれぞれ自国の領海内でしか狩猟できなくなりました。これを受けて日本の農林省は、中部千島で「毛皮獣増殖事業」を始めます。日本政府はすでに現地の先住民に移住を強制して、中部千島は無人になっていました。事業は政府直轄の国営事業でしたが、この当時、1920年代の終わりから1940年代にかけての資料はほとんど残されていません。ただ、スウェーデンの探検家ステン・ベルクマン(Sten Bergman、1895-1975)がちょうどこの時期にこの地方を訪れていて、鮮明な写真を著書『極東の千島列島』に残しています。新知(シムシル)島では放牧されたトナカイ(移入動物)が撮影されていますし、またこちら、松輪(マツワ)島でのラッコの皮の乾燥風景を撮影した写真は、後年あちこちの文献に引用されて、よく知られています。

中部千島での毛皮獣増殖事業で、現地の管理人を務めていたのはアイヌでした。有名な植物学者、舘脇操(1899-1976)の遺したエッセイ集『北方植物の旅』(1971年)は、舘脇が調査旅行で訪れた中部千島で知り合った人のエピソードを相手の個人名入りで紹介しています。それによれば、「■■出身のアイヌが、その離れ小島にずーっと夫婦で住んで、キツネやトナカイなど毛皮獣の増殖の仕事をしている、そこに時おり官吏が出張で調査に来る」――といった具合に、日本政府に雇われたアイヌが、無人島に定住しながらこの仕事をしていたことが分かります。
アイヌのアザラシ猟

次にアザラシ猟についてご紹介しましょう。ご覧いただいている写真はアジア・太平洋戦争後のアザラシの革製品と、それを製作する道具類です。左側は遠軽毛皮(えんがるもうひ)社のもので、アザラシの毛皮を、ハガネ製の特製パンチで型どおりに打ち抜き、縫い合わせてオガクズを詰めると、こんな人形ができあがります。1970年代ごろ、北海道土産として販売成績がとてもよかったそうです。右は現在の日本ムートン、その前の名称は日露毛皮で、当時は新日本海獣といいましたが、そこが製造していたオットセイとゴマフアザラシの毛皮製品です。
近世から近代初期にかけて使われていた狩猟道具は、各地の博物館に比較的たくさん保存されています。10年前にアメリカ・ワシントンDCにあるアメリカ国立自然史博物館を訪ねたら、北太平洋の海獣猟の展示コーナーに、アザラシを捕らえる二叉の銛が飾ってあって、説明文に「網走で収集した」と書いてありました。ほぼ同じ形の猟具が、網走の道立北方民族博物館に展示されています。オホーツク沿岸のアイヌたちは、銃猟が普及する以前は、こうした猟具でアザラシを突いて、肉を食べたり皮や脂を利用したりしていたのでしょう。

余談ですけれど、私が務めていた知床博物館には、シカの左下顎に銛先が突き刺さった状態で掘り出された遺物まであります。どうやってこの位置にこんな角度で突き刺したのか、想像をかき立てられます。
斜里アイヌのアザラシ猟については、作家の更科源蔵(1904-1985)が編纂にあたった『斜里町史』(1955年)に、昔ながらの技術や文化を引き継いでいる人たちから聞き取った記録が掲載されています。また、その証言をもとに、アイヌの人たちがかつてのアザラシ猟を再現したようすを撮影したフィルムが作られて、NHKが制作した「ユーカラの世界」(1963~1964年放送)という番組で放映されるなどしました。NHKにはもっとほかの映像もたくさん残っているようですが、現在のところ、一般の人がそれを視聴するのは難しい状況です。
このように、アイヌがアザラシを食べ物としていたこと、また毛皮を製品化して利用していたことは間違いありません。ただし、それ以上具体的なこと、どの部位をどんなふうに料理していたのか、といったことは私は知りません。そういえば以前、イタリア・ポンペイ遺跡の展示物を見たことがあります。西暦79年のヴェスヴィオ山噴火で壊滅したことで知られる町ですが、火砕流の灰の下から炭化したパンが出土したそうです。2000年前の住民も現代人と同じようにパンを焼いて食べていたことが分かったわけですが、これは例外です。アイヌ民族の伝統的なアザラシ利用に関しては、毛皮製品にしても、おもに消耗品として利用していたせいなのか、遺物は多くありません。
いっぽう、アイヌの人たちが、自家消費以外に、かなり以前からアザラシ類を交易品として流通させていたのは確かです。最初にご紹介した『太平洋沿岸の北方先住民の交易と工芸』の中で、天理大学の藤田明良さんが「都にやって来た海獣皮」という論文を書かれているのですが、日本史でいう平安時代(8世紀末~12世紀末)や鎌倉時代(12世紀末~14世紀なかば)の文献を丹念に探すと、いろんな書物に、アシカやアザラシなどの毛皮を使っているらしい製品が記録されています。

たとえば京都の醍醐寺に残されている「調馬図」という、1600年ごろに描かれたとされる屏風絵には、青っぽくて斑点模様のある、おそらくゴマフアザラシのものとみられる毛皮を使った馬具が見えます。また「平治物語絵巻(六波羅行幸巻)」(13世紀)のヒトコマには、ヒョウ柄の鞍が描かれています。これはヒョウそのものではなく、ワモンアザラシやゼニガタアザラシの毛皮だと考えられます。当時の日本の武家社会にすでに、北方産の海獣類の毛皮を用いたファッションが流行していたわけです。
こうした海獣類を捕獲していたのがアイヌなのか、中国経由の記録もあるので実際に捕まえたのは大陸の人たちかも知れませんが、その毛皮が商品として、アイヌとの交易によって、日本の「都」にまで流通していたのは間違いありません。
アイヌのオットセイ猟
さて、アシカ類については私は勉強不足なのですけど、ちょっと珍しい写真をご覧ください。「雪の斜面を登ろうと奮闘するオットセイ」です。

択捉島に、ちょっとした伝説がありまして……。オホーツク海側の海岸が流氷に閉ざされた時に、海に戻れなくなったオットセイたちが、なんと山を越えて島の反対側の太平洋まで行くことがある、というのです。ホントかどうか分からないのですけれど、実際に知床半島・斜里町ウトロの近くで撮影したこの個体は、海沿いの道路を渡って、雪山を登ろうとしていました。ちょっと登ってはずり落ちる、というのを繰り返していたので、知床博物館の職員が保護して、無事に放獣することができました。こういう姿を見て、「オットセイは山を越えて島を横断する」というお話が生まれたのかも知れません。
アイヌ民族によるオットセイ猟のようすを描いた絵画作品に、秦檍麿(1760-1808)筆の『蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)』(1800年)があります。

いくつか写本を見比べると、微妙に異なっているんですね。道立北方民族博物館に収蔵されているのと同じ、先端が二叉になった銛が、別の写本では、まるでサケ漁のマレㇰのような形状に描かれていたりします。この『蝦夷島奇観』には、オットセイの生殖器のイラストも載っています。当時、輸出先の日本で、精力強壮剤として最も珍重されたのがオットセイの生殖器でした。
アイヌは捕鯨をしていたか?

こちらは「噴火湾の鯨祭 昭和13年6月2日」とキャプションのつけられた有名な写真です。考古学者の名取武光が『噴火湾アイヌの捕鯨』(北方文化出版社、1945年)という本に掲載した写真で、図録『アトゥイ』にも掲載されています。名取によれば、ここに写っているクジラの骨は、儀式の11年前に近くに漂着したクジラの頭骨だそうです。また、このクジラはアイヌ語で言う「クツタルフンベ」、ナガスクジラの仲間のいずれかである、と名取は解説していますが、頭骨のサイズや形状からみて、正解はミンククジラでしょう。
また名取はこの本で、噴火湾のアイヌたちがどんなクジラを利用していたかを考察するのに、古老たちから聞き取ったクジラのアイヌ語名をリストアップしています。
アイヌ語名 | 名取武光による和名(1945) | 宇仁和義による和名(2024) |
---|---|---|
ノコルフンベ | ミンククジラ | ミンククジラ |
シノコルフンベ | イワシクジラ | ミンククジラ |
オアシペウシフンベ | ナガスクジラ | ミンククジラ |
クツタルフンベ | ナガスクジラ属 | ミンククジラ |
オケクシュフンベ | ナガスクジラ属 | ミンククジラ |
オシャカンゲフンベ | コククジラ | コククジラ |
ヤキフンベ | マッコウクジラ | マッコウクジラ |
改めて調べ直してみると、名取の同定は間違いが含まれると言わざるを得ません。正しいのはオシャカンゲフンベ(コククジラ)、ヤキフンベ(マッコウクジラ)、ノコルフンベ(ミンククジラ)だけで、残る4つのアイヌ語名(シノコルフンベ、オアシペウシフンベ、クツタルフンベ、オケクシュフンベ)は、いずれもミンククジラを指している、と考えるのが妥当だと思います。
「なんだ、アイヌは思ったよりクジラを知らなかったんだ」と言いたいわけではありません。クジラの種類を知らなかったのはむしろ本州島以南の和人捕鯨者たちです。じつはミンククジラを認識していた日本列島住民は、20世紀になるまでアイヌ民族だけと考えられるのです。というのも、日本が近代捕鯨に乗り出した明治時代の終わりごろ、外国の研究者が来日して、各地でミンククジラの情報を集めようとしたことがあったのですが、「そんなクジラは知らない」と言われるばかりだった、という記録が残っているからです。
ミンククジラは、特徴的な白黒のツートンカラーの胸びれを持っていて、水上からも見分けやすい種です。なのに情報がなかったのは、和人の捕鯨者たちがこのクジラを別のクジラと区別できていなかったせい、もしかしたら見たことがなかったからとしか考えられません。
本州島以南の捕鯨の発祥の地は和歌山県太地町(たいじちょう)だとされます。その太地には「六鯨(ろくげい)」という言葉があって、セミクジラ、シロナガスクジラ、ザトウクジラ、カツオクジラ、コククジラ、マッコウクジラの計6種が「正統」とされ、それ以外のクジラ類はザコ扱いされてきました。太地町に伝わる手描きの分類図には、ミンククジラは出てきません。仮に現場で見かけても、無理やり「六鯨」に当てはめて、ナガスクジラの子どもだ、などと同定していた可能性もあります。
でもアイヌ民族はちゃんとミンククジラを見分けて、固有の名前をつけていました。同じミンククジラに何種類ものアイヌ語名がついているのも不思議ではありません。一つの生物種に名前を一つだけ与えるのは、近代生物学の概念に過ぎません。今でも私たちは、同一種をいろんな名前で呼んでますよね。産地ごとに松葉ガニ、越前ガニと呼び分けているカニは、生物学的にはズワイガニという種名(和名)のカニです。大きさや脂のノリで呼び名の変わる「出世魚」もいます。
動物の名前は、外部形態の特徴を捉えてつけられる場合が多いと考えられます。たとえば、ミンククジラを指してアイヌが名付けたであろう「シノコルフンベ」は、名取の聞き取りによれば、「側面は斑状に乱れてゐる」クジラだといいます。ミンククジラの体表にもともと斑点はありませんが、場合によっては、まるで「乱れた斑点」があるように見えた可能性はあります。
「Cookie-cutter shark」の英名を持つダルマザメは、恐ろしい口をしていて、噛みついた獲物の体から、本当にクッキーのような丸い形に肉を食いちぎっていくサメです。クジラ類の体にまん丸な傷跡が残っていたら、ダルマザメに襲われた証拠です。「Cookie-cutter shark」で検索すると恐ろしい画像がたくさん出てきます。
いっぽう、ミンククジラは海洋を大きく回遊しながら一生を送りますが、海水温の好みの違いなどによっていくつかの個体群に分かれて暮らしていると考えられています。ダルマザメに遭遇しやすいルートを回遊する個体群には、ダルマザメの丸い嚙み跡をいくつもつけられた個体がいます。
もしかするとアイヌは、そんな個体群に属する“乱れた斑点のある”クジラたちを「シノコルフンベ」と呼んだのかも知れません。
また、名取の聞き取りによれば、アイヌの人たちはオシャカンゲフンベ(コククジラ)について、「皺積がない」「体にカキ殻が沢山附着」「危険な鯨」「海底の泥や砂を掻き揚げる如くに、一町四方も米の磨ぎ汁のやうに、白く濁らせる」と説明していますが、この観察眼はとても正確です。
コククジラは、(商業捕鯨のせいで)1900年代の初めころに早くも数が減って、現在も希少種のままです。日本でも観察記録はわずかですが、例外的に詳しく観察していたのが噴火湾のアイヌたちだった、と言えると思います。
さらにヤキフンベ=マッコウクジラ。他のクジラに比べて巨体ですし、形態も異なります。鼻の孔(噴気孔)が体の前方にあって、沖で潮を吹いている姿を陸から見ても判別可能ですので、アイヌは当然、呼び分けていたと思います。
このように、アイヌ民族が近海のクジラ類を詳しく観察して、正確に種類を判別していたのは間違いありません。ただし、アイヌ民族が伝統的に「捕鯨」をしてきたとは考えにくい、と私は思っています。
その理由を挙げると……。まず考古学的な証拠がありません。和人と接触する以前の北海道・千島諸島の先住民遺跡から、古い鯨骨がまとまった状態で出土したとか、クジラ猟に欠かせない大型の銛先が見つかった、といった例がないのです。また、捕鯨のためには、大勢の人たちを動員・組織して大きな労働力を発揮する必要があったと考えられますが、少なくとも和人との接触以降のアイヌ社会はそうした条件を満たしていなかったのではないでしょうか。
世界中の先住民捕鯨をみると、獲物が大きいだけに、自家消費だけでは肉を処理しきれず、自分たちの鯨肉を別の物資と交換してくれる外部の相手を想定している場合もあります。そのさい、交換相手になり得るのは、近接地に住んでいながら互いに手に入る資源は異なっている、という人たちですが、そのような関係にあったアイヌコタンは知られていません。
クジラは巨大な海洋性動物で、捕まえるには危険がともないますし、捕まえるのにも、捕まえた後の処理にも非常な労力を要します。その点、ここ北海道は、サケやシカといった手ごろな自然資源に非常に恵まれています。私が思うに、アイヌ民族にはわざわざ苦労して海に出てクジラを捕りにいく動機が薄かったのではないでしょうか。「アイヌは捕鯨していなかった」と私が考える、それが一番の理由です。
アイヌはシャチを食べたのか
先ほど引いた『斜里町史』は、第4章を「斜里アイヌ」の解説にあてていて、シャチについても記述しています。シャチはアイヌ語で「レプンカムイ」と呼びますが、どうやら斜里アイヌはこのレプンカムイを食用にもしていたようです。執筆した更科源蔵の聞き取りによれば、アイヌにとってレプンカムイは大切な「海の大神」なんだけど、シマフクロウ(コタンコㇿカムイ)やヒグマ(キムンカムイ)に対してするような儀式はない、と。ただ、流氷に挟まれて浜に打ち上げられたシャチを見つけたような場合は〈食べられるやうであれば肉や脂を切り取って、鯱神の幣をあげておくるだけ〉(p200)と更科は説明しています。
シャチが氷に挟まれる事故はそれほど珍しくありません。知床では今年2月、前回は2005年2月、実際に流氷に閉ざされて衰弱したシャチたちが海岸に座礁したことがあります。

たまたま現場に居合わせたアメリカ人研究者は「これまで世界中で2例しか記録のない世紀の発見」と興奮していましたが、ちゃんと調べたら、北海道島や千島列島南側のオホーツク海沿岸に限っても、10年に1回くらいの頻度で起きていることが分かりました。

座礁したシャチを、海の幸としてありがたくいただくのは、何もアイヌに限りません。この写真は、斜里町の前浜で、おそらく1930~40年代に撮影されたものです。生け捕りにしたシャチをソリに乗せて運び終わったところで記念写真を撮ったんでしょう。みんなニコニコしてますね。氷に挟まれて陸に押しやられてきたシャチを地元の住民が生け捕りにして、その肉を食べる、あるいは出荷することは、北海道沿岸部では1970年代まで実際にあったのです。
継承されたアイヌの知識
さて、アイヌの知識と近世の和人知識人との関係はどのようなものだったのでしょうか。江戸幕府が編纂した1644年の「正保日本総図」の中の蝦夷地は、松前周辺を除けば、ほとんど何の情報もないまま描かれていることが分かります。千島諸島は文字通り「1000の島」、サハリン島との境目もあいまいです。国後島と択捉島だけが妙にハッキリ描いてあったり……。

いま私が住んでいる網走地方は、かつて松前藩が本拠とした渡島半島部からみると蝦夷が島=北海道島の反対側に位置していて、当時の日本人たちには、現在よりもなお「とっても遠い場所」だったと思います。それも影響しているんでしょう、この地方についての文書記録は、北海道の他の地方に比べてもわずかしかありません。まとまった記録が現れ出すのはようやく18世紀末以降で、しっかりしたものといえば、田沼意次の命を受けた探検隊の報告書(1780年代~)が最初の文献といっていいでしょう。
ただ、知床岬が蝦夷地の「さいはて」だという感覚は、江戸期の日本人たちも認識していて、幕府が1799年、松前藩に「東蝦夷地」の上知(じょうち、幕府の直轄地にすることを命じた時、知床岬を東西蝦夷地の境界線の東の起点にしました。
江戸時代、松前藩が島の沿岸各所においた生産・出荷拠点である「場所」の開設時期を調べてみると、——
1630年 アッケシ
1685年 ソウヤ
1701年 ネモロ
1752年 樺太
1754年 クナシリ
1790年 シャリ
——といった順番です。南方の日本人たちには、蝦夷地のうちでも、シャリ(斜里)は一番遠くて行きづらい場所だったんだと思います。当時の交通手段は帆船ですが、太平洋回りだと知床岬が難所でしたし、日本海から宗谷岬を回って沿岸を南下するルートも、神威岬が難所だったかも知れません。西蝦夷地の北部沿岸には拠点としてめぼしいところがなかったんでしょうね。ともあれ江戸期の日本人たちはすでに「知床はさいはて」という感覚を持っていたと思います。
事情はヨーロッパ人たちも同じでした。たとえばドイツ人地理学者のヨハン・ホーマン(Johann Baptiste Homann 1664-1724)が1720年に制作した世界地図を見ると、カムチャツカ半島やクリル諸島北部はかなり精確なのに、蝦夷地のあたりはあいまいです。とりわけオホーツク海を囲むエリアは、当時のヨーロッパ社会には本当に「辺境」と映っていたのでしょう。
同じことは、こんな事例からもうかがえます。ヨーロッパ発祥の近代生物学のコミュニティは、生物を分類するために「学名」を使っています。その命名は「リンネの二名法」というルールに基づいていますが、それが最初に使われ出したのは1758年でした。それを念頭に、北海道島産や本州島産の哺乳類の学名がいつ付いたかを調べてみると、こんなふうになります。
1758年 ヒグマ Ursus arctos (Linnaeus, 1758)
1758年 エゾリス Sciurus vulgaris Linnaeus, 1758
1758年 エゾモモンガ Pteromys volans (Linnaeus, 1758)
1758年 ユキウサギ Lepus timidus Linnaeus, 1758
1758年 ラッコ Enhydra lutris (Linnaeus, 1758)
1758年 ゼニガタアザラシ Phoca vitulina Linnaeus, 1758
1811年 ゴマフアザラシ Phoca largha Pallas, 1811
1838年 ニホンジカ Cervus nippon Temminck, 1838
1844年 ニホンリス Sciurus lis Temminck, 1844
1844年 ニホンモモンガ Pteromys momonga Temminck, 1844
1845年 カモシカ Capricornis crispus (Temminkck, 1845)
1845年 ニホンノウサギ Lepus brachyurus Temminck, 1845
ヒグマ、エゾリス、エゾモモンガ、ユキウサギ、そして海獣のゼニガタアザラシやラッコは、最も早く1758年に学名が付いています。これら陸生哺乳類やゼニガタアザラシはヨーロッパにも分布していますし、北太平洋でしか見られないラッコも、17世紀の終わりごろロシア帝国の探検家アトラソフによって発見されて、早くからヨーロッパ人たちに知られていました。
いっぽう、ゴマフアザラシの学名が付いたのは19世紀になってからでした。記載したのはペーター・ジーモン・パラス(Peter Simon Pallas、1741-1811)というドイツ人博物学者で、この人物はアホウドリの学名命名者でもあります。余談ですが、彼がアホウドリを新種として記載する時に用いた標本はカムチャツカ半島東岸沖で捕獲した個体でしたので、アホウドリの「基産地」は今でもこの場所とされています。アホウドリは亜熱帯の海洋島で繁殖しているイメージがあるので、もちろん主な採餌範囲はベーリング海なのですけど、ちょっと意外な気がしますね。ゴマフアザラシに話を戻すと、パラスが報告するまで、ヨーロッパではこのアザラシは知られていませんでした。というのも、分布回遊域がユーラシア大陸北東部沿岸やベーリング海沿岸に限られていたからです。
日本の本州島産の哺乳類に学名が付いたのは、さらに遅れて1830年代以降です。これらの種は、長崎に滞在していたドイツ人医師・博物学者のシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796-1866)が収集し、オランダ・ライデン自然史博物館に標本を届けて初めて学名が与えられました。当時の日本はいわゆる鎖国政策をとっていたせいもあり、ヨーロッパからはまさに極東――非常に遠い国だったことがうかがえます。
前置きが長くなりましたが、当時のヨーロッパ人、あるいは江戸・京都の日本人たちからみて非常に遠くに位置していたこの地域について、もっとも深い知識を持っていたのは先住民族アイヌだったでしょう。
生物や自然に関する知識は、大きく「科学知」と「生活知」に分けることができますが、その中間に「産物知」というカテゴリーを設けることができるかも知れません。薬学とか本草学といったジャンルを含むイメージです。当時の日本人の「産物知」は、19世紀を迎え、経験にもとづくアイヌの知識や知恵が伝わることで、豊かに広がったと思います。
当時の代表的な情報源が、松浦武四郎(1818-1888)が木版で著した『知床日誌』(1863年)です。知床周辺でみられるアザラシを「産物」としてイラスト入りで詳しく紹介していて、たとえばゼニガタアザラシについて「シトカラ=本当のアザラシと呼ぶ」「鼈甲斑(べっこうはん)」「釧路あたりの毛皮が高級」などと説明しています。「ルヲ丶」はクラカケアザラシを指している思われますが、このイラストだと体表の模様がおかしいし、アシカみたいに前肢で上半身を立てていますね。こんなふうにちょっといい加減なところもありますが、面白い絵で、うまく描いていると思います。

シトカラについて、武四郎は「アッケシ、クシロの品よろし」と記述しています。現在の地名でいう厚岸や釧路あたりで捕れるゼニガタアザラシの鼈甲斑の毛皮が上級品だ、というわけです。これは現在のゼニガタアザラシの分布エリアとも重なりますが、このころすでに、こうした毛皮需要に応えるために、この地域でアイヌによるゼニガタアザラシ猟が行なわれていたことをも示していると思います。
道東のゼニガタアザラシは昭和時代に激減しますが、それ以前の近世から高い捕獲圧を受け続けて、個体数を抑えられていた可能性が高いと思います。いま、道東などでアザラシによる漁業被害が深刻化していますよね。武四郎のこの記録は、20世紀末に希少種保護対策として捕獲をやめた結果、個体数が増加に転じたために生じている事態だということを示す、傍証になるかも知れません。
海生哺乳類の捕獲と権利
先ほども述べましたが、アイヌによる組織的な捕鯨、あるいは海獣狩猟は、おそらくなかったのではないか、と僕は考えています。18世紀末の『夷諺俗話』(いげんぞくわ、串原正峰著、1793年)という書物に、アザラシ猟の最中に起きた大量遭難事故が記録されていますが、これが「アイヌは組織的なアザラシ猟をしていた」ことの証拠になるかどうか、僕には分かりません。
多くの歴史史料に残されているのは、もっぱらアイヌたちの漁場労働、「場所」に動員された労働者としての姿ばかりです。ただ、近世の場所請負制度のもとで「場所」が稼働していたのは夏から秋にかけてで、それ以外の期間にアイヌが個人的に、いわゆる「自分稼ぎ」としてアザラシ猟をしていたのは確かです。もっとも、この「自分稼ぎ」がどの程度まで個々人の自由裁量に任されていたのか、域外に出る場合は雇主=親方に届けが必要だったり、収獲の一部を上納するノルマが課せられたりしたケースもあったようで、その実態の評価をめぐっては、今も研究者たちの論争が続いています。
さて時代が近代に移って、蝦夷地が日本に「内国化」され「北海道」と名付けられた後、日本の狩猟関連の法律でアイヌに特別な権利を付与した例を、僕は知りません。先住民と入植者を区別せず、同じ権利しか認めてこなかったと思います。
そんな中、例外的に先住民固有の権利を明記した条約があります。さきほどちょっと触れた、膃肭獣(おっとせい)保護条約(1911年締結)です。ラッコとオットセイについて公海での捕獲を禁止し、ラッコは自国の領海内、オットセイは繁殖場でのみ、狩猟可能とした取り決めですが、その第4条は〈「アイノ」人「アリュート」人その他の土人(先住民)が……従来慣行の方法に従い、銃器を使用することなくしてオットセイの海上猟獲を行なう場合につき、本条約の規定を適用せざることをを約す〉と、先住民への適用除外を明言しています。この条約は、世界初の漁業条約、世界初の野生動物保護条約としても知られていますが、こんなふうに先住民条項を明記した点も画期的だったと思います。

ところが現実には、この条約の恩恵を受けたアイヌ民族はいませんでした。すでに1884年、北千島在住(シュムシュ島)のアイヌたちは、日本政府によって南端のシコタン島に強制移住させられていたからです。当時のシコタン島の周辺にはラッコもオットセイもいませんでした。せっかく先住民条項を持つ条約が結ばれたのに、アイヌがその権利を行使する機会は訪れなかったのです。

この写真はロミン・ヒッチコック(Romyn Hitchcock 1851–1923)というアメリカの化学者・文化人類学者が、1888年に色丹(シコタン)島で撮影したものです。彼が当時、スミソニアン協会の学術誌に発表した報告書は、100年後に北構保男さんの飜訳で『アイヌ人とその文化―明治中期のアイヌの村から―』(六興出版、1985年)という書籍になりました。そちらに掲載された写真は不鮮明ですが、いまご覧いただいているのは、スミソニアン協会国立人類学アーカイブに保存されているオリジナルプリントを僕が複写してきたものです。細かいところまで鮮明に写っていて、人びとの指に指輪が見えたり……。ちなみに左手に結婚指輪をするのはカトリック式で、ロシア正教会では右手にするんだそうです。ここに写っているアイヌの人びとこそ、日本政府によって北千島から強制的に色丹島に移住させられてきた人たちです。
さらにくだって、アジア・太平洋戦争の戦中・戦後の食糧難時代には、北海道沿岸部で大量のアザラシ類が捕獲されていました。日本にはじつに1990年代まで、鰭脚類の捕獲や保護に関する法律がありませんでした。文字通り無法状態です。火薬取締法や銃刀法によって、かろうじて銃猟が規制されていたに過ぎません。当時のオホーツク海でのアザラシ猟のようすを記録した映像を「NHKアーカイブス」で見つけました。1948年に放映された「流氷にアザラシを追う」というニュース番組です。

同じころ、こういったアザラシ猟に「樺太先住民が従事していた」という記録も残っていますが、それは先住民族固有の権利に基づいた狩猟ではなかったように思います。なおアザラシ類は、2002年の改正鳥獣保護管理法が初めて「第2種特定鳥獣管理計画」対象種と認めて、現在は環境大臣や都道府県知事の許可なしには捕獲できなくなっています。
捕鯨についてはどうでしょう? 「アイヌはかつて捕鯨をしていた」「だからアイヌには先住権として捕鯨の権利がある」と主張するアイヌもおられます。国際捕鯨委員会(IWC)は、捕鯨実施国にモラトリアム(一次停止)を求めつつ、伝統的にクジラに依存してきた先住民に対しては「生存捕鯨」を認めています。アイヌにもそれは当てはまるはずだから、日本政府はアイヌの捕鯨権を認めよ、という論理です。
ところが日本政府は6年前、2018年12月に国際捕鯨取締条約から脱退しました。その結果、いま日本政府に対して、この条約に基づく権利主張ができない状態になっていると思うんですね。となると日本の国内法、たとえば漁業法や他の法律、あるいは新法をつくって権利主張するほかありません。日本政府の国際捕鯨取締条約からの脱退は、もしかすると捕鯨に関するアイヌの先住権を主張する立場から見て、非常なマイナスだった、と言えるのかも知れません。
私のきょうのお話はこれでおしまいです。ありがとうございました。
2024年5月24日夜、さっぽろ自由学校「遊」の講座「先住民族の森川海に関する権利4ー海とアイヌ民族/アイヌと海の哺乳類」でのレクチャーから。
制作:宇仁和義、森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト
