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ヤウンモシㇼ(北海道島)の森林とアイヌ民族の資源権─国有林・御料林による資源収奪と森林鉄道の役割─

上村 英明 森・川・海アイヌ先住権研究プロジェクト代表/市民外交センター

『恵泉女学園大学紀要』第34・35号合併号(2024年2月)に掲載された論文を大学の許可を得て本サイトでもご紹介します。

もくじ

はじめに:「北海道開拓」以降のヤウンモシㇼの土地・森林

ヤウンモシㇼ(北海道島)は依然として、森の国のイメージがある。ヤウンモシㇼの面積834万5000ha に対し、その森林面積は2023年現在554万0000haと66.4%を占める。約 ₇ 割が森林である。そして、その中で、「国有林」の面積は304万0000ha、全森林面積の54.9%である(北海道森林管理局、北海道国有林の概要 HP)。この森林は衣食住などアイヌ民族の生活すべてをかつては密接に支えていた。そして、本稿では、先住民族アイヌの文化権ではなく、資源権、その回復という視点から、ヤウンモシㇼの森林、その極めて植民地主義的な経営の歴史を明らかにすることが目的である。

図 1 :「北海道」の森林

他方、アイヌ民族は、本来の生活や文化の基盤であった森林を1869年の「開拓」以来この150年間に破壊され、現状に残った森林さえ利用する権利を認められていない。その中で、2019年に制定された「アイヌ施策推進法」は、アイヌ民族の伝統・文化を守るとして、新たに「アイヌ施策推進地域計画」を打ち出した。これは、自治体が主体となって、アイヌ民族と協議の上、地域計画を策定し、政府がこれを「認定」すると、伝統・文化活動に交付金が下りる仕組みである。とくに、法律には、優遇措置と称する3つの「特例」、「国有林」の利用(第16条)、内水面における鮭の採捕(第17条)、商標登録への助成(第18条)が明記されている。

この第16条1項は、本論文に関連する「国有林野における共用林野の設定」で、その「特例」の意味を次のように規定している。

「第十六条 農林水産大臣は、国有林野の経営と認定市町村(第十条第四項に規定する事項を記載した認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村に限る。以下この項において同じ。)の住民の利用とを調整することが土地利用の高度化を図るため必要であると認めるときは、契約により、当該認定市町村の住民又は当該認定市町村内の一定の区域に住所を有する者に対し、これらの者が同条第四項の規定により記載された事項に係る国有林野をアイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利を取得させることができる。」

これは、国有林野法を1951年に改正して設定された「共用林野」制度をアイヌ文化の振興などに準用するもので、自治体と林野庁(具体的には、地域の森林管理署)が国有財産である国有林の利用契約を結ぶ。これにより、政府の恩恵として、自治体が指定するアイヌ民族団体の構成員が一定の資源を利用できる仕組みで、森林に対し、アイヌ民族の権利、その慣習法や慣習的権利が認められたものではない。

こうした先住民族政策をどう評価すればいいのだろうか。一般的に、日本における「国有林」は、1869年の版籍奉還(土地と人民を天皇に返還する)と1871年の社寺上知により、江戸時代の藩有林と社寺有林が、明治政府に編入されたことで成立した。その後、1873年に制定された「山林原野等官民区分処分法」により、1876年から森林の官有・民有の区分を明確化する事業が行われ、その結果、「国有林」は、殖産興業政策を専門的に担う官庁として1881年に創設された農商務省、その山林局の所管となった(林野庁、明治期の森林とアイヌ民族の資源権の国有林野事業 HP)。

他方、「北海道」では、手続きは異なっていた。「開拓」以前の松前藩領(和人地)は版籍奉還の対象となり、同時にヤウンモシㇼの大半を占める、いわゆる「蝦夷地」は「無主地国有の原則」の下で「国有地(官有地)」として統合された。つまり、「北海道」の土地は、ほとんどが「開拓使」の下に「国有」の未開地とされ、その「国有未開地」を農牧業などの適地として民間の所有地に移すことが、「開拓」の意味であった。そして、官有・民有の区分は、1872年の「北海道土地売貸規則及び地所規則」、さらに1877年の「北海道地券発行条例」の下で行われた。とくに、後者では、新たな私有地に対し地券が発行された点がこれを物語っている(石井、1980、317頁)。

従来の研究は、これを前提に、入植者に対して、土地・農地がどのように配分されたか、あるいはアイヌ民族に対して、土地・農地の配分がいかに差別的で、植民地主義的であったかを明らかにしようとする傾向にある。繰り返すが、それに対し、本稿では、本来アイヌ民族にとって生活と文化の基盤であった森林が、「国有未開地」=「国有林」とされた後、政府によってどのように扱われ、アイヌ民族固有の森林資源がどのように収奪されたかを明らかにしてみたい。

国有林政策の変遷:「北海道国有林」と「御料林」の設置・変遷

「北海道国有林」と「御料林」

さて、日本全体でいえば、先述したように、「国有林」は1881年、一元的に農商務省山林局の所管となったが、1886年に「北海道国有林」が内務省北海道局を所管として独立した。さらに、1889年に「北海道国有林」から、宮内省御料局所管の「(帝室)御料林」が分離された。「北海道国有林」、「(帝室)御料林」、「(内地)国有林」という3つの形態が、1890年代までに近代日本の「国有林」の構造として、位置付けられた。

さらに細かく、「国有地」=「国有未開地」から始まった「北海道」の森林はどのような変化を余儀なくされたのだろうか。まず、1869年太政官制の下で省に匹敵する開拓使が置かれ、1879年にこれに山林局が設置されたが、1882年に開拓使が廃止され、三県が設置されると、「国有林」は開拓使の山林事業ともども農商務省山林局の下に統一的に所管された。さらに、1886年に内務省の下に北海道局そして北海道庁が設置されると、内務省北海道局所管の「北海道国有林」が形成された。先述した通りだが、1886年は、北海道庁の設置と同時に、「北海道土地払下規則」が制定され、資本家を対象にしたとしか思えない1人10万坪(約33ha)単位の大規模な土地の払下などが移民に対して開始されるようになった。「人民の移住」から「資本の移住」への政策転換で、華族、とくに成長しつつあった資本家などへの「大地籍払下げの途」を開いたものであった(小関、1962、40頁)。

〈御料林〉
「(帝室)御料林」は、1885年に設置された宮内省御料局により、皇室典範に基づいて管理される皇室財産で、「北海道」では1890年内務省から「北海道国有林」の「優良」な森林・原野が移管されたものだが、林業収入その他はすべて皇室に納入される仕組みであった。(内地の御料林は、1888年~1889年農商務省管轄の「(内地)国有林」から移管された。)宮内省御料局は、1908年には帝室林野管理局、1924年には帝室林野局に改称され、「(帝室)御料林」と書く理由だが、本稿では「御料林」で統一したい。

この「御料林」の設置は、同時代の大日本帝国憲法の制定・帝国議会の開設と表裏一体となって進められた。その理由は、立憲主義や議会制により政府予算案の否決などを将来的に考慮し、これに拘束されない皇室の独自な財源を確保するためであった(帝室林野局編、1939、2-3頁)。さらに、皇室の自由な財源とは、政府が議会に束縛されずに自由に扱える大きな財源であったと言えるかもしれない。

1885年に宮内庁御料局が設置されると、翌1886年には、新冠〈にいかっぷ〉に出張所が開設され、アイヌ民族の強制移住につながる「新冠御料牧場」開設の準備も始まった。もともとここには、開拓使の肝いりで1872年7万₀₀₀₀ha の牧場が設けられ、1877年にお雇い外国人顧問エドウィン・ダン(Edwin Dun)の提言で近代西洋式牧場として整備され、「新冠牧馬場」と改称された。1884年に宮内省の所管になると、上記の経緯を経て1888年「新冠御料牧場」に再改称され、1903年幅36mの新道が開通し、1909年には貴賓客舎が建設された。さらに、この拡張の中、1916年には近隣の姉去〈あねさる〉(現、大富)居住のアイヌ民族70戸が、1888年の強制移住に続き、沙流〈さる〉川上流の上貫気別〈かみぬきべつ〉への二度目の強制移住の犠牲となった(永宮、1989、65-66頁)。

ともかく、1890年に「御料林」が設定されると、当時編入されたヤウンモヤウンモシㇼ(北海道島)の森林とアイヌ民族の資源権シㇼの森林・原野の面積は約198万3000ha(200万町歩)で、全国で360万0000ha と言われる「御料林」全体の55.0%にも及んだ。「御料林」の設定経営は、植民地ヤウンモシㇼと皇室の関係を伺わせるものがある。しかし、668万4000ha の「北海道国有林」から広大な198万3000ha を分割した「御料林」の設定は、あまりの広さに北海道庁の行政そのものに支障を与えることになり、1894年には見込み約62万5000ha(63万町歩)、後の実測では89万3000ha(90万町歩)の土地を残して、北海道庁に返還された(林野庁、2023、1頁)。その経営は、先述の1908年に「帝室林野管理局」制度が発足すると、「(内地)国有林」に倣って、大林区署に相当する支庁、小林区署に相当する出張所が設置され、経営が本格化した。しかし、1947年には、「御料林」は戦後改革の中で解体される運命にあった。

〈北海道国有林〉
他方、本稿の中心である、「北海道国有林」の面積は、1886年当時668万4000ha(674万町歩)であった。その後、内務省北海道局によって、1899年~1907年に画期的事業と言われる「北海道官林種別調査」が行われた。第1種林は将来長く国有林として維持、第2 種林は将来公有林、第3種林は将来私有林で、第4種林は森林としての経営必要なし、と判定された(石井、1980、331頁)。この結果、翌1908年には「北海道国有林整備要綱」が定められ、5つの「営林区署」(札幌、函館、上川、釧路、網走)、16ヵ所の同分署、125の「森林監守駐在所」が設置され、「北海道国有林」の管理運営・民有林の監督が体系的に行われるようになった(足寄町史編さん委員会、2007、334-335頁)。この時配置された「森林監守」は、制服にサーベルの帯同という姿で、後の海上保安官、労働基準監督官などと同じ特別司法警察権が与えられている。

さらに、1899年は日本の森林行政にとって重要な年となった。この年「国有林野法」が制定されると同時に国有林の経営を一般会計から切り離して特別会計で行う「森林資金特別会計法」が成立し、国有林の運営は今日でいう独立行政法人の様相となった。これによって、管理経営の必要ない国有林野は民間に払い下げられ、その代金を特別会計に積み立て、それを財源として国有林の整備を行う「国有林野特別経営事業」が全国一律に始められた(林野庁、明治期の国有林野事業について HP)。

また、「北海道国有林」の処分は、次節で詳しく述べるが、1894年に公布された「北海道森林原野産物特売規程」、さらに1908年に定められた「北海道国有林野及産物処分令」により、年期特売契約などが制度化され、森林の商品化が加速された。この時期、森林は、政府や入植者にとっていわば無尽蔵な換金商品であった。しかし、当時木材は、立木のままの状態で業者に販売されており、伐採の義務は業者に負わされていた。1917年、後述する「北海道十年計画」に続く、北海道庁の「北海道第 ₁ 期拓殖計画」(1910年~1926年)でその見直しが行われ、立木の売上げが期待したほど成果を上げていないことから、国の経費で伐採・製材を行う「官行斫伐〈かんこうしゃくばつ〉事業」が計画され、1919年から同事業が開始された。これに伴い「北海道」各地に後述する森林鉄道が開通し、官営の貯木場や製材所が建設されていった。

「道有林」と「大学演習林」

「北海道国有林」は、「御料林」の他にも、さまざまな目的、時には金銭的な目的で分割されていった。その主要なものに戦後「道有林」となる「模範林」や「公有林」(市町村有林)があり、「大学演習林」がある。

〈道有林〉
2023年現在、ヤウンモシㇼでは、60万8000ha の森林が「道有林(北海道有林野の略称)」とされ、自治体である北海道が所有している。しかし、内務省管轄の北海道庁が一般自治体北海道に移行した1947年以降にまとめられた森林が「道有林」であり、戦前には、「北海道国有林」から移管された以下の2つの森林によって構成されていた。ひとつは、「模範林」で、林業経営の模範を示すと同時に、北海道庁自体の財政支援を目的に、1906年に創設された。18万8000ha の面積であった。もうひとつは、「北海道官林種別調査」にいう第2種林が想定した「公有林」(第3種林、第4種林も含まれる)で、市町村財政の支援を目的に、1911年~22年にかけ、江差町、七飯〈ななえ〉村、当別町、栗沢〈くりさわ〉町、様似〈さまに〉村などに44万7000ha の森林をもって創設された(北海道庁、道有林 HP)。

〈大学演習林〉
研究目的という崇高な看板を掲げながら、学校経営の財源確保を図るために、「北海道国有林」から森林の移管を受けたものが、戦前の旧帝国大学の「大学演習林」である。

① 東京大学北海道演習林(現在東京大学大学院農学生命科学研究科付属演習林)
東京大学北海道演習林は、ヤウンモシㇼ中央部の富良野市に、2023年現在、2万2700ha の土地を所管している。しかし、1899年、「北海道旧土人保護法」制定と同じ年に設置された時には、2万3600ha の「北海道国有林」が内務省から移管された。現在でも、年間2万4000㎥の樹木が伐採され、木材や製紙原料となっているが(東京大学、2023、11頁)、当初から敷地内に製材工場や石材倉庫なども建設されていた。また、森林経営のための林業労働者を確保するため、こうした労働者に農地を貸し付ける「林内植民」制度が、1906年に開始され、西達布〈にしたっぷ〉川沿いには、1917年までに234戸1327人を数える植民地集落が、演習林の中に形成された(東京帝国大学農科大学演習林、1918、18-25頁)。演習林による資金確保は、大学の学費や東京大学病院経営と並ぶ財源であったと言われている。

② 北海道大学研究林(現在北海道大学北方生物圏フィールド科学センター森林圏ステーション)
北海道大学は、現在、ヤウンモシㇼ内部に、 6ヵ所の「研究林」と称する演習林を持っている。その中でも、戦前に設置された、 3つの演習林が本稿の対象になるだろう。雨竜〈うりゅう〉研究林(1901年設置、2万4000ha、幌加内〈ほろかない〉町)、中川研究林(1902年設置、1万9300ha、音威子府〈おといねっぷ〉町)、天塩研究林(1912年、2万2500ha、幌延町)である(北海道大学北方生物圏フィールド科学センター、森林圏ステーションHP)。とくに、雨竜研究林は、「北海道国有林」を財源として分割するという悪しき歴史を背負って誕生した。1901年当時は、札幌農学校の時代で、校長は後に北海道帝国大学の初代総長を務めた佐藤昌介であった。佐藤は札幌農学校の悪化する財政基盤を好転させるべく、財産林としての「北海道国有林」の移管を要請し、これに成功した。ここでも森林そのものが「金のなる木」であり、3万0000ha の森が札幌農学校に移管された。その後、後述するが、雨竜川の電源開発を目論む「雨竜電力会社」にその一部を売却して、現在の面積が維持されている。中川研究林も、同じような歴史を辿った。1902年には、「北海道国有林」の一部が、同じように札幌農学校の財産林として移管された。その後幾度かの名称変更があり、1918年から北海道帝国大学中川演習林と呼ばれるようになった。また、東大と同じように、林業労働者の確保のため、1913年から「林内植民」制度が開始された。さらに、森林鉄道は敷設されなかったが、1916年に当時の鉄道省の天塩線(後の国鉄宗谷本線)の音威子府─誉平〈ぽんひら〉(現天塩中川駅)間の延長が決まると、大学の強い希望で、木材搬出のための神路〈かみじ〉駅(1985年廃止)が新設され、1922年に営業を開始した(中川町、1975、466頁)。

図 2 :北海道大学・天塩研究林と雨竜研究林

ヤウンモシㇼの森林の「植民地的利用」:無尽蔵な換金商品への事例

1869年に「北海道開拓」が始まってしばらく、アイヌ民族の生活や文化を遥か昔から支えた広大な森林は、農業移民としてやってきた入植者には、「開拓」の邪魔者でしかなかった。森林は単に伐採され、木材は薪とされる他は焼却された。具体的には、「開拓者」は秋になると森林に火をかけて燃やし、春の雪解け後に燃えかすや残った木の根を掘り起こして畑を作った。

しかし、1880年代になると、特定の樹種が、森林資源として認識され、換金商品として利用されるようになる。たとえば、オニグルミ(ネシコあるいはニヌムニ)やドロノキ(ヤイニあるいはクルンニ)を紹介しておこう。
〈以下( )内はアイヌ語〉

〈オニグルミ〉
オニグルミは、ヤウンモシㇼから九州にまで分布する落葉樹で、谷間の水辺に群生する。また高さ30m、太さ直径1m の高木にも成長する。アイヌ民族にとっても、実は栄養価の高い食用になり、冬の保存食にもなる。樹皮は黒あるいは濃紺の染料に使われた。また、狼の神、馬の神、蛇の神には、オニグルミで作ったイナウが良いという言い伝えもある。古い遺跡からも堅い材質を活かし、オニグルミで作った器などの工芸品が出土する(手塚薫・出利葉浩司編、2018、103頁)。また、葉や樹皮は煎じて駆虫剤、油は皮膚病などの外用薬や、凍らない性質を利用し屋外用灯火にも利用されたと言われている。さらに、オニグルミは、ユグロンという植物育成疎外物質をだして、他の植物を周囲に寄せ付けないため(アレロパシー〈他感作用〉)、群生を作りやすいとも言われている。この特徴からか、知里幸恵の『アイヌ神謡集』(1923年)によれば、「毒流し漁法」にも使われたらしい。

他方、オニグルミは、和人の視点からは、小銃の銃台/銃床の材料として、重宝されるようになった。オニグルミの銃床は銃の発射の反動を吸収し、その一方で形が狂わず、割れることも少ない。記録としては、東部の足寄〈あしょろ〉町周辺で銃台用のオニグルミの伐採が1890年に行われ、銃台4万5000挺分が伐木された。また、1903年ころからも行われ芽登〈めとう〉や斗満〈トマム〉方面からもオニグルミ材が搬出された(足寄町史編さん委員会編、2007、347頁)。さらに、沙流川上流の日高町でも、1905年にオニグルミ伐採の杣夫が同町の千栄〈ちさか〉に入ったと記録されている(石井、1980、324頁)。

日清戦争が終わった1895年ころから、銃台の材料としてのオニグルミの需要が高まり、伐採が北海道全体で拡大したと言われる。その後、1905年には、日本の代表的な歩兵銃である三八式歩兵銃が正式採用されるが、その当初の銃床はオニグルミであった。同歩兵銃は、全体で、3400万丁が東京砲兵工廠を中心に生産されたと言われるが、オニグルミの生産が追い付かず、その後サクラなどが銃床材に使用された。ヤウンモシㇼは、こうした歩兵銃の重要な材料供給地であった。

〈ドロノキ〉
ドロノキは、ヤナギ科の落葉高木で、ヤウンモシㇼから中部地方に分布する。アイヌ民族の神話では、世界創造の時、最初に生えてきたのがドロノキとされる(萩中、1988、100頁)。一般的には、「白楊」あるいは「ポプラ」と呼ばれることが多い。このドロノキは、材質が柔軟で建築材には向かないが、1880年代にマッチの軸木として注目を浴びるようになった。1881年に「北海道」で、「白楊樹林」が「発見」され、原木のまま内地に運ばれ、マッチ軸木の生産に利用された(日本燐寸工業会 b、マッチの歴史)と記録されている。

具体的には、編入されたばかりの網走・止別〈やんべつ〉付近の「御料林」で、1890年マッチ軸木用として山田慎という業者に、毎年3万本ずつ10年間のドロノキの年期特売が許可された。(矢部 b、2018、 5頁)山田は、翌1891年網走に「北海道」で最初に成功したといわれる「山田製軸所」の営業を開始した。この山田は、アトサヌプリ(屈斜路湖と摩周湖の間にある山で「硫黄山」とも呼ばれる)で硫黄鉱山の経営に関わっていたことから、釧路集治監網走分監の初代典獄(所長)・大井上輝前と親交があり、その工場は労働者として囚人を利用した大規模な経営であった(北海道文化さぽ*ろぐ・網走のマッチ製造業、2009年)。他方、1886年には、苫小牧にドロノキを利用した製軸工場が建設され、1894年には17工場にまで拡大して、中心地であった兵庫県産の製軸産業を凌駕するようになった。当時、マッチを入れる小箱(小函)にもエゾマツが使われ、苫小牧にはマッチ小函素地製造工場も設立されている(日本燐寸工業会 a、マッチコラム)。また、1905年以降、当別〈とうべつ〉、網走、紋別、本別〈ほんべつ〉、野付牛〈のつけうし〉、湧別〈ゆうべつ〉、士別〈しべつ〉など各地にも次々と小規模の製軸工場が作られた。1910には、全道の製軸工場は28ヵ所を数えたという(北海道文化さぽ*ろぐ・網走のマッチ製造業、2009年)。当時、(黄燐)マッチは、米国、スウェーデンと並ぶ生産国で、生糸、綿花、お茶とともに日本の花形輸出品であった。

〈その他〉
この1880年代を境に、「北海道」の木材は、銃台/銃床やマッチ軸木の他にも、大規模に下駄の材料、楽器、家具、鉄道の枕木、茶櫃〈ちゃびつ〉などに利用された。一例としては、1892年、札幌郡の「御料林」の林木10万本がインド向け茶櫃材として中江篤介ほか2名の業者に3カ年の年期特売として許可されている(矢部 b、2018、 5頁)。また、1900年に制定された枕木に関する「官設鉄道仕様書」によれば、「北海道」の鉄道では、イヌエンジュ(チクぺニ)、カラマツ、ネヅ、ツガ、ヤチダモ(ピンニ)、オニハリキリが枕木材に利用された(田中・樋口・馬場、2011、43頁)。とくに、「北海道」では、広葉樹であるヤチダモが枕木用材に利用されたが、ヤチダモはまっすぐに生育し、カシワ(トゥンニ)やハシドイ(プンカウ)とともに本来アイヌ民族の家屋建設に利用された木である。さらに、1920年代には、ミズナラ(ペロニ)、イタヤカエデ(トぺニ)を原木に木炭生産と道外への輸出が行われた、との記録もある(足寄町史編さん委員会、2007、356-357頁)。

写真 1 :茶櫃箱(長野県佐久市土屋家から)(著者撮影)

森林資源はどう収奪されたか:森林鉄道の展開

製紙系大資本の上陸と組織的な伐採

北海道庁の下では、さらに大資本の進出が図られたが、そのきっかけは1897年に制定された「北海道国有未開地処分法」で、これは従来の「開拓」機関の行政文書ではなく、帝国議会で制定された法でもあった。同法では、一定の土地が貸し付けられ、成功検査後に一律無償で下付されたが、開墾地であれば1人150万坪(500ha)、牧畜地であれば250万坪(826ha)、果樹栽培では200万坪(661ha)で、会社または組合が主体の場合その限度は2倍となった(石井、1980、321頁)。また成功検査も大資本や富裕層には優遇されたと言われている。この時期、北海道庁は、日清戦争後の好景気と貧富の格差拡大の受け皿として、先述した「北海道」における「北海道十年計画」(1901年~1909年)を策定し、1902年にはその財源確保のために、「北海道国有林原野特別処分令」が制定され、「北海道国有林」の随意契約による売却が進められた。また1908年に定められた「北海道国有林野及産物処分令」により「年期特売」制度も確立していった(山口、2012、115頁)。

その時期、大手製紙パルプ工業の大資本として、ヤウンモシㇼに上陸したのが、王子製紙と富士製紙であった。王子製紙は、マッチ軸木産業が下火になった苫小牧で、1907年から苫小牧工場の建設をはじめ、1910年にはパルプから新聞用紙まで一貫生産を行う苫小牧工場の操業を開始した。製紙資本が目を付けたのが、繊維が長くパルプ材に適したエゾマツ(スンク)やトドマツ(フップ)などの針葉樹である。その間、1906年には、千歳・白老の御料林から、10年間に96万石の立木払下契約を御料局と締結し、翌1907年には、鵡川〈むかわ〉・沙流〈さる〉・厚岸〈あっけし〉国有林から10年間435万3000石の立木払下契約を北海道庁と締結した(山口、2012、117-118頁)。( 1 石は体積の単位で、0.18㎥。)また、操業後の1913年には同じく北海道庁を通じて、足寄〈あしょろ〉・斗満〈とまむ〉・美里別〈びりべつ〉・音更〈おとふけ〉・上川〈かみかわ〉・然別〈しかりべつ〉の国有林に対し、1914年~1923年の10年間10万石の製紙用材の「年期特売」契約が結ばれた(足寄町史編さん委員会、2007、348頁)。これらの特売契約は一度結ばれるとその山林では契約者以外の伐採は許されなかった。1909年には、日高町に先述の「森林監守駐在所」が、王子製紙の山林事業に応じて、増設されてもいる。

王子製紙は、こうした製紙原料の確保には、下請け業者を利用している。立木販売では、先述したように森林伐採・搬出の責任は契約を結んだ業者にあったからである。沙流川流域では、坂本武次郎という業者が国有林の伐採にあたった(貝澤、1993、177-179頁)。また、足寄川・美里別川の上流では坂本竹次郎(沙流川の業者と同一人物か?)や畑中重兵衛が現場の伐採作業を監督した(足寄町史編さん委員会、2007、348頁)。製紙用材の確保はヤウンモシㇼ全域に及んだと考えてよいだろう。こうした契約と下請け業者の存在によって、王子製紙のような製紙会社は工場原木を安定的かつ安価に確保することができた。

他方、富士製紙は、当初は1908年に操業を開始した江別工場でパルプと新聞用紙を製造し、同じく操業開始した富良野の金山〈かなやま〉工場などで江別工場向けパルプを製造した。同社は、北海道庁と1906年に阿寒国有林から6年間に54万石、また1907年に金山・落合国有林から11年間に77万石の立木払下契約を締結しているが、王子製紙と比較すると年期契約数量は少なく、1906~12年に締結された同社の「年期契約」数量は、いずれも100万石未満であった(山口、2012、117-118頁)。

木材の輸送手段としての河川利用

木材の伐採は、山林の中で行われるが、それを商品として工場まで運ぶには、輸送手段、とくに効率のよい輸送手段が欠かせない。森林経営の分野では、これを「運材工程」と呼ぶ(林野庁編集部、2019、7頁)。王子製紙が山林事業を開始する1909年ころまで、伐り出した木材の輸送手段は、一般に人力・畜力・河川運材であった。この中で、特に効率の良かったのは、河川運材であった。上流・中流で伐り出した原木を、河川を使ってそのまま流す「流送(管流)」や筏を組んで流す「筏送〈ばっそう〉(筏流)」である。例えば、1913年以来、王子製紙は十勝国有林でも伐採をはじめるが、木材は十勝川を流送し、屈足〈くっそく〉で陸揚げして国鉄の新得〈しんとく〉駅まで運び、苫小牧に輸送した(矢部 a、2018、8頁)。しかし、これには問題があった。河川を流す方法では、冬山に入って伐採し、春の雪解け水を使って、「流送」や「筏送」を行うため、伐採の期間が限定され、また原木の回収が一苦労であった。そのため、急激な伐採で保水力を失った斜面からの水害も多発し、その一方で流路を確保するための河川開削や引き上げ後の陸上輸送用の車道建設も必要であった。さらに、上流に伐り出した木で急造のダムを作り、それを決壊させて流す場合、遡上魚の産卵場所などを破壊する心配もあった。1906年には、「北海道」で初めての水力発電所(敷島内発電所)が作られたが、こうした発電所そして取水用ダムの建設は、拡大する電源開発の需要に結びつくと同時に、河川運材に根本的な見直しを迫るようになった。

「流送」や「筏送」の前提である冬山の伐採作業は厳しい仕事であったが、「北海道」では職が見つからない冬期の仕事として、入植者、そして本来の生業を禁止され、和人の貨幣経済に巻き込まれたアイヌ民族にとっても一定の役割を果たしていた。アイヌ民族で最初の国会議員となった萱野茂は、自ら「小学校を卒業すると炭焼きや山仕事などの出稼ぎで生計を立てた」(NHKアーカイブズ「人物」萱野茂 File No. 396)と述べている。また同じ平取町二風谷〈にぶたに〉の貝澤正も、とくに冬場の山仕事の状況を次のように書いている。

「……春から秋まで、遠くは北樺太まで、冬は造材山を渡り歩き、私達兄弟は長い間父のいない生活を続けた。村の周りは三井山林と国有林が多く原始林のまま残っていた。三井山林には木材業者が入り、その他の山林にも製炭業者が入った。家にいて働ける場所ができ、父は私を連れて山の道路つけ、雪が降るとともに角材の運搬、春からは僅かな土地の耕作、と次から次と生まれる子供を育てるのに必死で働いた。」(貝澤、1993、11-12頁)

森林鉄道の展開

こうした背景の中で、注目されたのが線路上を人力・畜力などで運行する森林軌道を含む森林鉄道であった。「1970年代 北海道鉄道写真」の HP は、その歴史を次のように概観している。

「運炭の鉄道とともに大きく発達したのが森林鉄道である。森林資材の搬出を主目的とする鉄道は、1908年の苫小牧の王子製紙工場関連路線の敷設に端を発し、その後官営のものが北海道中央部の山間を中心に敷設された。
……
しかし、これらの森林鉄道の多くは、1950年代のうちにピークを迎えるや、急速に線路網を縮小し、1960年代後半に消滅してしまうこととなる。」

図 3 :ヤウンモシㇼの主要な森林鉄道(1970年代 北海道鉄道写真 HP)

〈森林鉄道の導入と民間企業〉
そもそも、森林鉄道の最初は、1896年神奈川県の茨菰山〈ほおづきやま〉御料林に民間企業である東京木材が建設した森林軌道であった(林野庁編集部、2019、4頁)。また、北海道の産業鉄道では、1887年幌内炭田の石炭輸送を目的に官営幌内鉄道が手宮〈てみや〉・幌内間に開通するが、₁₈₈₉年に、北海道炭鑛鉄道という民間会社に譲渡され、鉱山鉄道が拡大した(石井、1980、327頁)。森林鉄道では民間企業が先行したが、「北海道」の最初のそれは王子製紙により1908年に開通した「苫小牧工場専用線〈山線〉」(図3の41番)であった。これらの森林鉄道では、国鉄などの幹線鉄道につなぐ「接続駅」が設定されたが、「苫小牧工場専用線〈山線〉」では、その接続駅は苫小牧駅である。同年に三井物産によって開通した「三井物産専用鉄道」も苫小牧駅を接続駅とした。因みに、三井物産は、総合商社として1906年に「北海道」における山林経営を開始し、1907年「北海道」で初めて社有林を保有した会社である。その他にも製紙会社の森林鉄道では、1919年にそれぞれ中湧別〈なかゆうべつ〉駅と本別駅を接続駅にして、2本の森林軌道である「富士製紙馬鉄」も開通している。

〈「官行斫伐事業」と官営(公設)の森林鉄道〉
他方、内務省北海道庁や宮内省帝室林野局が建設する官営(公設)の森林鉄道の敷設は、先述した「官行斫伐事業」が1919年に開始されて以降である。つまり、政府が、積極的に大資本に対し森林資源の付加価値を高め、その提写真 2 :足寄森林鉄道(足寄町史編さん委員会、2007、342頁)供に関するサービスを拡充した時期と重なる。こうした事業展開のためには、森林鉄道という大規模な輸送手段が不可欠であった。林野庁によれば、「北海道」の森林鉄道は、路線数129路線に及び、総延長は1355km になった(林野庁編集部、2019、5頁)。

いくつかの事例を紹介しておきたい。北海道庁北見営林局は1919年から測量を開始し、最初の官営森林鉄道であ
る「温根湯〈おんねゆ〉森林鉄道」(図3 の15番)が、1921年留辺蘂〈るべしべ〉駅を接続駅に竣工し、木材運搬を開始した。(後に同鉄道は、イトムカ水銀鉱山につながる。)また、北海道庁帯広営林局は、1922年網走本線の陸別駅と足寄駅を接続駅に「陸別森林鉄道」(図3の23番)、「足寄森林鉄道」(図3の25番)を開通した。とくに、「足寄森林鉄道」は、全長45.9km に及んだ。

写真 2 :足寄森林鉄道(足寄町史編さん委員会、2007、342頁)
写真 3 :現在残る足寄駅駅舎(著者撮影:2023年 5 月)
図 4 :足寄森林鉄道(1970年代 北海道鉄道写真 HP)

宮内省帝室林野局によっても、森林鉄道が敷設された。1928年に根室本線の金山駅を接続駅に「金山森林鉄道」(図3 の32番)、1931年一ノ橋〈いちのはし〉駅を接続駅に「奥名寄〈おくなよろ〉森林鉄道」(図3の8番)、同年恵庭駅を接続駅に「恵庭森林鉄道」(図3の40番)が敷設された。こうした「御料林」で開設された森林鉄道も、26路線で総延長は452km に及んだ。

最後に、大学演習林における森林鉄道についても紹介しておきたい。東京帝国大学では、1921年に、根室本線の布部〈ぬのべ〉駅・下金山駅を接続駅に、「北海道演習林森林軌道」(図3の33番)が建設された。

図 5 :‌東京帝国大学・北海道演習林森林軌道 麓郷〈ろくごう〉線(1970年代 北海道鉄道写真 HP)

〈森林鉄道経営の多角化と大規模化〉
さらに、いくつかの森林鉄道に関してはより詳細を報告したい。まず、王子製紙が敷設した「苫小牧工場専用線〈山線〉」である。同森林鉄道は、「王子軽便鉄道」とも呼ばれているが、当初馬車軌道として始まり、その後機関車を使った森林鉄道に移行した。路線は、苫小牧駅から北上したが、約22km の地点の分岐点駅で二つの支線に別れている。ひとつは、上千歳に向かう支線で、第2発電所駅、牛の沢(第3発電所)駅、第4発電所駅が設けられたが、苫小牧工場で利用する電源開発の発電所が建設された場所であった。また支笏湖に向かったもうひとつの支線は、湖上運搬船を経由して、千歳鉱山専用軌道に接続した。この路線で、1936年に本格化した千歳鉱山(美笛〈びふえ〉鉱山)からの金鉱石・銀鉱石も輸送され、また支笏湖周辺や樽前山周辺の御料林からの木材輸送にも利用された。そして、王子製紙による電源開発は、大資本らしく他の地域でも行われた。(一耕社編、2011、122頁)先述した北海道大学の雨竜研究林は、1901年に「北海道国有林」から移管されたが、その電力を供給する為に千歳川の電源開発を実施した王子製紙は、1920年代になると、雨竜川の電源開発に着目した。当時の王子製紙は電力事業も展開しており、豊富な原生林と水量を得ることのできる雨竜川上流部は魅力的であった。

写真 4 :‌朱鞠内湖の湖底から採取されたアカエゾマツの巨木の円盤。大人 4 ~ 5 人で囲む太さがある。(宮島寛 b、2006、13頁)

1928年、王子製紙は雨竜川電源開発を推進する目的で「雨竜電力株式会社」を設立した。ダムならびに朱鞠内〈しゅまりない〉湖の敷地は、北海道帝国大学の雨竜演習林の一部を購入し、ダム工事を始めた。この地域にあった原生林は製紙用原木として伐採され、北大は土地売却代金と水没予定地の木材売却代金を北海道大学理学部旧庁舎、現在の北海道大学総合博物館の建設費用に当てた。(田原迫、1991、374-375頁)戦局も悪化し始めた1943年に雨竜第一・第二ダムが完成し、日本で最も広い人造湖である朱鞠内湖が形成された。しかし、建設時には、連合軍捕虜の強制労働や韓国などアジア人労働者のタコ部屋労働と厳しい気候条件から、多くの犠牲者を出し、「笹の墓標」という記録運動が続けられている(「笹の墓標展示館」東京巡回展実行委員会、2022、15-16頁)。

もう一つの事例は、足寄森林鉄道である。1922年に着工した足寄森林鉄道は、利別〈としべつ〉川と足寄川の分岐点に位置する足寄駅から、先述したように支流の足寄川上流に向けて敷設された。同年に建設された足寄貯木場は、現在の十勝東部森林管理署から北側一帯に開設された。この貯木場は、面積14ha で、単なる木材の集積場ではなく、足寄経営区斫伐事業の中心的な役割を担い、構内には、事務所・機関車庫・総合修理工場・製材工場などの関連施設のほか、官舎・作業員宿舎などが設けられた(足寄町史編さん委員会、2007、345頁)。1948年ころには、10台の蒸気機関車が稼働していたと言われるが、「官行斫伐事業」の拠点がいかに大規模であったことか、つまり当時の森林伐採がいかに大規模であったかが理解されるだろう。

図 6 :‌足寄営林署貯木場の配置図〈点線は線路〉(足寄町史編さん委員会、2007、378頁をもとに作図)

最後に:アイヌ民族と森林伐採、その資源権、そして今後の課題

もう一度確認するが、ヤウンモシㇼは、かつてアイヌ民族にとって生活と文化の基盤である大森林に覆われていた。高度のやや低いところには、広葉樹林が、また緯度が高くなると巨木に覆われた針葉樹林が広がっていた。川の水辺には、多くの場所に湿地帯も広がっていた。アイヌ民族が重要視するハルニレ(チキサニ)、ドロノキ(ネシコ/ニヌムニ)、オニグルミ(ヤイニ/クルンニ)、オヒョウ(アツニ)やガマ(シキナ)などはこうした水辺の植物である。改めて要約すれば、これらの森林は、19世紀半ばの「開拓」当初、移民によって、「開拓」の邪魔と敵視されていたが、やがて₁₉世紀後半には、特定の樹種の商品価値に注目が集まり、資源収奪の対象となった。₂₀世紀になり、日本の製紙資本が「北海道」に上陸し、大規模な森林伐採が始まると、奥地の原木がなぎ倒されるように伐採され、春の雪解け水を利用した「流送」や「筏送」で集積されるようになった。その後、1920年代になると、森林鉄道が展開し、森林の伐採は季節に左右されることなく拡大し、膨大な原木が莫大な金額に換金された。

これ自体が、アイヌ民族の森林に関する資源権の侵害だが、森林鉄道はすべての地域に敷設されたわけではない。例えば、沙流川流域では、王子製紙の資金協力の下、1921年に「沙流軌道」会社が設立され、1922年~1951年に全長13.1km の「沙流鉄道」が森林鉄道として運行されるようになった。接続駅は、日高本線の現富川(当時の佐瑠太)で、終点の平取〈びらとり〉まで、東佐瑠太〈ひがしさるふと〉・紫雲古津〈しうんこつ〉・去場〈さるば〉・荷菜〈にな〉と6つの駅が設置された。

図 7 :沙流鉄道(1970年代 北海道鉄道写真 HP)

この森林鉄道は、沙流川上流の国有林から切り出した製紙用材を苫小牧工場に運ぶことが主任務であり、積み替えが行われる佐瑠太には、丸太を角材にするための製材所も建設された。しかし、平取から上流にはアイヌの居住者が多いためか、森林鉄道は延長されず、伝統的な「流送」が平取まで続けられた。この事情を、平取の上流、二風谷に住む貝澤正は以下のように語っている。

「一九一〇年苫小牧に王子製紙工場ができ、パルプ原料の松丸太は、鵡川と沙流川の上流から伐り出された。水害多発の沙流川上流の伐採がはじまった。冬の間伐採、川辺まではこんだのを春の雪解け水を利用して流送するのだ。無防備の河川流域の農地には、増水の度に原料丸太が寄り上る。その上岸辺に丸太がぶつかり耕地は音をたてて崩れて行く。蒔付けが終った農地がどんどん欠損して行くのを見ても、相手に対して抗議するすべも知らなかった。天災だとあきらめた。その頃の資本家は国家権力より大きな力を持っていた。」(貝澤、1993、104頁)

政府の「北海道国有林」や「御料林」を巧みに使っての、大資本の森林経営は、莫大な利益をあげると同時に、やっと川筋で農業を始めたばかりのアイヌに上記のような被害ももたらしていたのである。1869年に始まった「北海道開拓」によって、アイヌ民族は土地や資源の権利を奪われ、入植者の侵入と同化政策によって、狩猟・採集・漁労などの生業を奪われ、理不尽な扱いと差別を受けることになる。この政策によってアイヌ民族が塗炭の苦しみに喘いでいたのが1880年代~1890年代と考えてよいだろう。その状況の中でこそ、1890年代にはアイヌに一定の条件でわずかだが土地を付与するなど「保護」を謳った法案が審議され、1899年には悪名高い「北海道旧土人保護法」が成立した。しかし、本稿の考察によれば、その時期までヤウンモシㇼの「奥地」には、アイヌ民族本来の「アイヌの森」が残されていたと考えてよい。現在の視点でいえば、そこにはアイヌ民族の土地権があり、森林資源をアイヌ民族がアイヌ民族のやり方で利用する資源権が存在したはずである。しかし、1900年代に入ると、アイヌ民族の厳しい生活と並行して、彼等の膨大な資源であった森林が瞬く間に収奪されたのである。本稿では触れなかったが、第二次世界大戦の軍事需要に対応する森林伐採は、さらに大規模であったと言われる。

他方、「国有林野特別経営事業」(1899年~1921年)が始まると、大規模に乱伐された森林に対する造林事業も始められたが、造林樹種は、林業経営の視点からの効率性を考え、以下のような針葉樹が8割を占めた。たとえば、ヒノキ、スギ、アカマツ、カラマツ、クロマツなどである。この点、現在ヤウンモシㇼの森林は、アイヌ民族が自由に利用した森林と比べれば、似ても似つかないものである点を指摘しておきたい。

さらに本稿で書ききれなかった課題にも触れておきたい。戦前の製紙会社の原料調達について研究した山口明日香は、北海道庁の「年期契約」について、以下のように書いている。

「こうした年期契約による木材伐採量は道内国有林伐採量の30~65%を占め、このうち60~80%が製紙会社への売払であった。道庁の森林収入は北海道財政収入の約10%を占め、1910年の「拓殖₁₅年計画」実施以降は北海道拓殖費に繰り込まれた。」(山口、2012、115頁)

この日清・日露戦争から第一次世界大戦のころには、原料材の値段も上がったが、洋紙需要はさらに高騰した。日本製紙連合会加盟企業の洋紙生産量は、その統計によれば、1890年の6800トンから1920年には25万6700トンに跳ね上がった(山口、2012、112頁)。他方、北海道庁の収入を比較すれば、1911年の北海道庁「国税実収入」492万9957円に対し、同年の「北海道国有林」の収入である「森林収入・官有物貸下料」は198万0159円であった。地租や所得税などを含む「国税実収入」の実に40%の額が「北海道国有林」からの収入であった(北海道庁編、1913、83頁及び108頁)。「北海道」経営における「金のなる木」の構造を金銭的にもいずれ明らかにする必要があるだろう。

ともかく、アイヌ民族の資源権の回復は、2019年の法律で、現在の国有林の一部を恩恵的に利用できたとしても、それで本来の権利を補完することはどう考えても不可能である。(了)

*難解な読み方の地名や単語には〈 〉で日本語の読みがなを付した。

Abstract

Forests of Yaunmoshir (Hokkaido Island) and the Ainu People’s Right to Resources: Exploitation of the Resources from National and Imperial Forests and the Role of Forest Railways

Hideaki Uemura

Yaunmoshir once had a large forest that was the basis of life and culture for the Ainu people. At slightly lower altitudes, there were broad-leaved forests, and at higher altitudes, there were coniferous forests covered with giant trees. There were also many wetlands along the riverʼs edge. At the beginning of the “development” in the mid-₁₉th century, these forests were viewed by immigrants as enemies and impediments to “cultivation.” However, in the latter half of the ₁₉th century, the commercial value of specific tree species began to attract attention, and they became a target for resource extraction. In the ₂₀th century, Japanʼs paper manufacturing capital landed in Hokkaido and large-scale logging began, leading to the systematic disappearance of large tracts of forest, which led to the collection to their factories by “drifting” or “rafting” using spring meltwater. Later, in the ₁₉₂₀s, with the
development of forest railways, forest logging expanded regardless of the season, and vast amounts of logs were turned into huge sums of money. Although afforestation projects have begun, tree species are selected to make forest management more efficient, and it is not easy to see the forests of the Ainu people

謝辞・参考文献・URL

謝辞

本稿の資料収集に当たっては、以下の方々にお世話になった。心から感謝したい。
田代直明(九州大学北海道演習林)、三橋博之(北海道森林管理局十勝東部森林管理署)、平田剛士(フリーランス記者)、永井文也(恵泉女学園大学)、川上豊幸(熱帯林行動ネットワーク)、土屋昌子(恵泉女学園大学)。

参考文献

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