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19世紀末の北海道を可視化する文献紹介 北海道廳殖民部『北海道殖民状況報文』

平田剛士 フリーランス記者

明治2年8月15日(西暦に直すと1869年9月20日)、日本政府は、それまで「蝦夷地(えぞち)」「北蝦夷地(きたえぞち)」と呼んでいた地域に、新しく「北海道(ほっかいどう)」「樺太州(からふとしゅう)」と名前をつけ直しました1。と同時に、北海道に「国郡制2(こくぐんせい)」を導入し、北海道を11の「国(くに)」に分けたうえ、それぞれの国内をさらに「郡(こおり、ぐん)」とよぶ単位で区分けしました。日本は、首都・京都(当時)から見て北北東およそ1000~1500kmに位置する島々を、こうして事実上、内国化しました。

それからちょうど30年たった1898年から1901年にかけて、政府=北海道庁は『北海道殖民状況報文』という大部の報告書を発刊します。11の国、86の郡、さらに郡内の村々について、それぞれ地勢・沿革・戸口・産業・風俗といった項目ごとに、現地調査をおこない、その結果をコンパクトにまとめたものです。

時は流れて1975年、同報告書は、札幌の出版社「北海道出版企画センター」によって複写され、根室・北見・釧路・十勝・日高各国の5巻セットが復刻・出版されました。さらに、明治時代には結局未完に終わっていた石狩国・後志国の分もていねいな再編集が施されて、同センターから1977年に出版されました。

それをいま、復刻からほぼ50年ぶりに、もう一度ひもといてみようというわけです。

2022年の現在からさかのぼると、おおむね120年前の記録です。「調査担当官吏の目」というフィルター越しに書かれたものではあるものの、各地での先住民族アイヌの暮らし、入植者による「開拓」の進行/停滞、土地所有のありよう、森・川・海の景観や生態系の姿など、当時のようすを具体的に知る重要な手がかりであることは間違いないでしょう。

たとえば、こんな記述があります。

〈昆布干場は56カ所で、このうち和人所有のものはわずか15浜に過ぎず、その他の干場は姉茶村・野深村などのアイヌの「貸付浜」である。

カレイ漁船は川崎船2艘、持符(もちっぷ)船39艘。漁業従事者の技術は未熟ながら、今後の発展が期待されている。川崎船は6人乗り組み、持符船は3人乗り組みで、その多くは村民、または地元のアイヌである。他の地方からの出稼ぎ者は少ない。

漁民たちに仕込み(漁具や日用品提供)をしているのは地元の商店である。採算が取れないため、タラ・サメ一本釣り漁に出る漁師はほとんどいない。かつては元浦川にサケが盛んに遡上していたが、現在は非常に少なくなってしまった。〉(『北海道殖民状況報文 日高国』p160、浦河郡荻伏村の項から。現代語訳=引用者)

村内に56カ所ある「昆布干場」のうち、41カ所を所有しているのは、姉茶村・野深村などのアイヌだ、と書いてあります。地図に照らしてみると、姉茶村・野深村は、太平洋に面した荻伏村から10〜20kmも離れた内陸の村です。〈(荻伏村の海沿いのイカリウシには)昔から番屋が建っていた。毎年夏のシーズンには沙流地方からアイヌが来て、昆布を採集していた。〉ともあり、19世紀末ごろに何らか、このあたりの地所を巡って、各地のアイヌを巻き込んだ形で異動があったのでは? と想像が働きます。

1898年の「北海道内国化」にともない、日本政府は北海道のすべての土地をいったん〝国有化〟した後、個人や団体に貸し付け・割り渡し・給与などして、細切れに所有権者を決定してゆきます。各地のアイヌが個人として、また集団としてさまざまな形で利用していた土地も例外ではありませんでしたが、現在では、このような土地政策は、国家が保障すべき先住民族に諸権利のうち土地に対する権利を侵害している、とみなされるでしょう。

ほかにも、前浜漁業にアイヌが従事して(させられていた?)いたこと、元浦川に遡上するサケがすでに大幅に減少したと思われていたこと……。当時の執筆者の意図をおそらく大きく越えて、残された記録が、さまざな実態を雄弁に語ってくれそうです。

脚注

  1. 榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館、2008年)、p381 ↩︎
  2. 〈大化改新以後設けられた地方制度。全国を国に分かち、さらに国を郡に細分した。〉(「大辞林」)。「王政復古」を旗印に成立した明治政府は、中央集権の新しいシステムをつくるのに、はるか古代(「大化改新」は西暦645年の事件)の制度を再利用しようとしました。 ↩︎
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