畠山敏(はたけやま・さとし)さん
1941年、北海道紋別市生まれ。漁業経営。紋別アイヌ協会会長。2019年秋、自らの先住権を主張し、地元の藻別川であえて法定手続きを取らずにサケなどを捕獲したところ、密漁容疑で書類送検される。翌年6月、不起訴決定。この間に病状が悪化し、現在も療養中。
このページは、「オホーツクの森と海からアイヌ民族の先住権回復を」と題した畠山敏さんの講演(さっぽろ自由学校「遊」主催/2019年7月19日)の内容に、その後の聞き取りを加えて再構成したものです。「畠山敏/オホーツクの海と森からアイヌ民族の先住権回復へ」のタイトルで、部落問題研究会『人権と部落問題』2020年2月号(第932号)に掲載されました。「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」のウェブサイトに再収録するにあたって、畠山敏さんご本人と紋別アイヌ協会、また『人権と部落問題』編集部のご快諾をいただきました。一部表記を修正したほか、新たに動画・写真・地図・用語の説明・ウェブリンクなどを加えています。
2024年10月10日、小泉雅弘(さっぽろ自由学校「遊」)/平田剛士(フリーランス記者)
1 生い立ち
コタンのこと
私は、現在の紋別市街地から少し離れた、元紋別(もともんべつ)の藻別川(もべつがわ)河口近くの海岸沿いにあったコタン部落(コタンは、アイヌの伝統的集落のこと)で生まれ育ちました。
ここには17、18軒のアイヌ家族が住んでいたのですが、昭和30年代後半、市役所からこの場所は波が来て危険なので立ち退けという指示があり、近くの市有地に立ち退かされました。コタンのあった場所は、今は整備された公園になっていて、近くに流氷科学センターや温水プールができています。今考えれば、アイヌの集落は邪魔だから立ち退かせたかったんですね。我々は、和人がアイヌのコタンをひとつ壊すことに使われたと思っています。
先祖と家族のこと
私の先祖で、5代前にあたるカミエトバという人はコタンの酋長(しゅうちょう)で、付近の10カ所のコタンを治めていた人だったようです。マツヨ婆さんというのが私のひい婆さんで、口を染めていました(メモ参照)。その長男の大石元三郎は、籍に入らずに畠山ナオとの間で2人子どもを産みましたが、その長男が私の父親・壽男(としお)です。
私は8人兄弟の三男坊ですが、長男・次男はずっと前に亡くなりました。私の4人いた子どものうち、次女は、東日本大震災(2011年3月11日)の際に岩手県で夫・子どもとともに波にのまれて亡くなりました。また、一人息子だった長男・俊光はいま生きていれば44、45歳ですが、3年ほど前に船で沖へ出た際に脳溢血で亡くなり、冷たくなって帰ってきました。
メモ 女性の入墨(いれずみ)
〈女性はある年齢に達すると、口のまわりと手の甲からひじにかけて入墨をしました。(略)入墨をしなければ周囲から一人前の女性として認めてもらえず、結婚をすることも儀式に参加することも許されませんでしたし、死んでからも普通の人の行く“あの世”へは行くことができないと言われ、古い時代には女性はかならず入墨をしました〉(アイヌ民族博物館編『アイヌ文化の基礎知識』財団法人白老民族文化伝承保存財団、1982年。p172)。しかし1869(明治2)年、ヤウンモシㇼを「北海道」と名づけ直して内国化した日本政府は、女性の入れ墨をはじめとする先住民族の文化をことごとく「陋習(ろうしゅう=いやしい習慣)」と決めつけ、一方的に禁止します(開拓使・明治四年十月八日布達、明治九年九月三十日達など)。21世紀の歴史学は〈この政策は民族固有の文化を否定し、強制的な「和人」への同化であり、新たな差別を創出したといえる〉(加藤博文・若園雄志郎編『いま学ぶアイヌ民族の歴史』山川出版社、2018年。p68 )と厳しく批判しています。(平田剛士)
メモ 紋別地方のアイヌコタン
紋別地方のアイヌコタンについて、日本側に残る最初の記録は、津軽藩史『津軽一統志 巻第十之中』(1731年編纂)だと考えられています(紋別市史編纂委員会編『紋別市史』紋別市、1960年、p122)。同書は、アイヌ民族と松前藩がヤウンモシㇼ(北海道島)各地で武力衝突したシャクシャイン戦争(1669年)のさなか、情勢をつかむために津軽海峡を挟んだ隣藩=津軽藩が派遣した藩士たちの現地リポートを収録していますが、そのなかに、シャクシャイン軍にくみした計18の地域集団のひとつとして「まふへつ村」が登場します。藻別川河口ちかく、現在の元紋別(もともんべつ)地区がそのエリアとみられ、同書によれば、シャクシャイン戦争当時の「まふへつ村」人口はおよそ100人、指導者(「大将」)は「クヘチヤイン」という人物でした。(平田剛士)
アイヌとして生きる
私は人前で話ができなかったほうで、50歳過ぎまで劣等感のかたまりでした。しかし、私の兄である次男の峰生(みねお)がイチャㇽパ(祖先供養の儀式)をやるのが夢で、「敏、イチャㇽパやるべ!」と言って、あちこちでやっていたイチャㇽパを観て回ったんです。その兄貴は、私が52、53歳のときに肝臓がんで亡くなりました。兄貴はイチャㇽパをやるのが夢だったけど、私は人と接するのが苦手でね。だから、兄貴がいなくなって一人でできるわけがない、もうアイヌをやめようと思いました。いま考えたら、アイヌをやめるなんて簡単に言えませんが、当時はこれでもうアイヌは打ち切りだと思いました。そう思って床についたら、その晩に亡くなった兄貴が夢に出てきてね。いまでもはっきりその夢を覚えているのだけれど、遺骨を掘ったアイヌ墓地(旧・元紋別墓地)の上のほうに兄貴が仁王立ちになってね。私のことを怒っているのか、すごい形相で睨(にら)んでいた。自分がアイヌをやめようなんて思ったから、兄貴がこういう夢を見せたんだなと。それから逆に居直って、とことんアイヌとして生きてやろうと。それが今日に結びついています。
そうして始めた1回目、2回目のイチャㇽパは、予算のことも考えずにすべて自前でやりました。他所(よそ)から友人・知人が来る旅費や宿泊費も全部出してね。3年目からはアイヌ文化推進機構の助成を利用できることが分かって、去年までは予算を付けてもらっていました。だけど、今年(2019年)はどういうわけか、申請したのに採用されなかった。それでも、先祖供養もしないでアイヌのことを語る資格はないだろうというのが私の考えです。なので、お金の問題ではなく自分たちでできる範囲で供養の儀式を続けていきたいと思っています。
メモ イチャㇽパ
イチャㇻパ:〈食べ物などをそなえて死者の供養をする。〉(中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』)。
〈アイヌの伝統文化の中では、お墓参りや仏壇の前で手を合わせることは絶対にありません。だいいち、仏教自体がかつては普及していなかったのですから、仏壇などあろうはずがないのです。お墓は、それぞれのコタンごとにあるのが普通ですが、それでも「墓に参る」ということはしません。それがアイヌ民族の伝統なのです。その伝統ゆえに、従来、アイヌ民族をして祖先への信仰心が希薄で非人道的民族であると、アイヌ文化を知らない者によってものの本に書かれたこともありました。しかし、自分たちの文化しか分からない者の暴論でしょう。祖先を粗末にするどころか、大事に考え、敬う厚い心をもっていることにかけては他に類をみないといってもよいのです。(略)アイヌの人々が祖先に対して行う供養の儀式を「シンヌラッパ」(祖霊祭)と呼びます。(略)こうしてみると、シンヌラッパの目的は、まず第一に、自らの祖先に対して酒・穀物・果物などの食料を届けることにあることがおわかりになるでしょう。あの世に暮らす祖先も、神と同じように食料を自分では作れないとされているので、あの世で何不自由なく暮らせるように人間の手で送り届けるのです。古老たちの話によれば、あの世で暮らす者で、現世(つまりこの世)に身寄りのない者は何も食べ物を届けてもらえず、あの世の川辺りに座りながら、現世から送り届けられて舟に満載された食料をいつもうらやましがってみているのだといいます。さらには、そのような者は浮遊の霊となってあの世からこの世にやってきては、コタンの中を飛び廻るのだともいいます。(略)それをみたり、感じたりしたならば、必ずタバコや食べ物を少しでもよいからチャㇽパ(撒く)するものだ、というのです。〉(アイヌ民族博物館編『アイヌ文化の基礎知識』財団法人白老民族文化伝承保存財団、1982年。p137-139)
メモ 旧・元紋別墓地
〈かつて「まふへつ村」と記録されたモペッコタンに伴う現代の墳墓であるが……いつしかクマザサや雑草が密生する区域になっていた。近年に至り、元紋別地域に藻別川氾濫原を中心にしたオホーツク海と流氷を生かした観光ゾーン「ガリヤゾーン」計画が樹立され、ゾーン内に道立流氷科学センター、温水プール、海底から流氷を眺めるオホーツク・タワーなどの各種施設の建設計画が推進されることになった〉(早坂工務店・タナカコンサルタント『紋別市旧元紋別墓地移転改葬事業発掘調査報告書』1998年)。この発掘調査で出土した計300人あまりのアイヌ遺骨は、元の場所から3kmほど離れた紋別市営紋別墓園の「アイヌ納骨堂」に移送され、2024年現在も紋別アイヌ協会が管理しています。(平田剛士)