5月~9月 講座開催中 「先住民族の森川海に関する権利6―自然環境と先住民族の主権をめぐって」

北海道島をめぐる日本・ロシアのおもな動き(1783~1875)

19世紀を迎えるころから、この地域の権益をめぐって、とりわけロシア帝国と日本(江戸幕府〜維新政府)との間で緊張が高まり、ニアミスが相次ぐようになります。主な動きをまとめた年表です。

1783工藤平助著「加模西葛杜加国(かむしかとかこく)風説考」(「赤蝦夷(あかえぞ)風説考」)発表。
1785幕府が蝦夷地(えぞち)調査隊を派遣(第一次蝦夷地検分)
1789クナシリ・メナシの戦い
1792ロシア皇帝使節アダム・ラクスマンがネモロ(根室)に来航
1798幕府が蝦夷地調査隊を派遣(第二次蝦夷地検分)
1799第一次幕領期(~1821)。「異国境御取締(いこくざかいおとりしまり)」が名目。アイヌ教化・アイヌへの勧農政策
1803幕府が択捉(えとろふ)島アイヌらにウルップ島への渡海を禁止
1804ロシア皇帝使節ニコライ・レザノフが長崎に来航
1805幕府がレザノフとの通好交渉を打ち切り。幕府がラショワ島アイヌらに択捉島への渡海を禁止
1806文化露寇(ろこう)事件。翌1807年にかけて、樺太(からふと)島・択捉島・利尻島でロシア艦艇が発砲した。幕府は「魯船打払令」で対抗
1807幕府が樺太を含む「西蝦夷地」を直轄化
1808幕府が間宮林蔵ら探検隊を樺太島に派遣
1809蝦夷地でのサンタン交易(アイヌと大陸在住サンタン人の交易)に幕府が介入し、直営化を図る
1811ゴロヴニン事件。国後(くなしり)島に上陸したロシア海軍少佐・軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらを幕府の蝦夷地沿岸警備隊が拘束、松前に連行して幽閉
1812ディアナ号副館長リコルドが、国後島沖で択捉島場所請負人・高田屋嘉兵衛らを拘束
1813リコルドが国後島で高田屋嘉兵衛らを解放。幕府が函館でゴロヴニンを解放
1821幕府が旧松前領・蝦夷地一円を松前藩に返還。〈この復領の背景には、ゴロヴニン事件の解決以降ロシアの南下にともなう対外関係の緊張が一時的に緩和したこと、松前藩による熾烈な復領運動があった〉(『北海道史事典』p219)
1840アヘン戦争(英国vs清朝)
1842英国と清朝が南京条約締結
1853ロシア東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、樺太島占領を指令。島南部のクシュンコタンに「ムラヴィヨフ哨所」を設営。ロシア皇帝全権委員エフィム・プチャーチンが長崎に来航
1854幕府が、堀利煕・村垣範正らからなる調査団を樺太島に派遣。その報告を踏まえて日露通好条約(日露和親条約、下田条約)締結
1855第二次幕領期(~1868)
1858清朝とロシアがアイグン条約締結
1859幕府が函館を開港
1860清朝とロシアが清露北京条約締結
1868日本で王政復古/明治維新
1869日本の新政府が開拓使設置。蝦夷地を「北海道」、北蝦夷地を「樺太州」と改称
1875日本政府がロシアとの間で樺太・千島交換条約に調印

参照文献
加藤博文ほか編『いま学ぶアイヌ民族の歴史』(山川出版社、2018年)
榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館、2008年)
北海道史研究協議会編『北海道史事典』(北海道出版企画センター、2016年)

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