10月~3月 講座開催中「先住民族の森川海に関する権利 5—アイヌ先住権を“見える化” する」

作田 悟さんに聞く

講座:2023年6月5日(月)
メンバー:八重樫志仁(聞き手)、講座参加者
場所:さっぽろ自由学校「遊」会議室
※遊の講座「先住民族の森川海に関する権利―ヤウンモシリ(北海道)の森林とアイヌ民族」内でお話をうかがいました。

聞き取り:2023年8月22日(火)
メンバー:飯沼佐代子、井上千晴、八木亜紀子、横田雄翔
場所:作田さんのご自宅(苫小牧)

  • 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
  • アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
  • アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
  • 掲載内容は2025年2月現在のものです。
もくじ

平取で生まれ穂別豊田で育つ

生まれはシシㇼムカペナコリです。シシㇼムカは、いわゆる今の平取(びらとり)町を流れる沙流(さる)川の古い呼び方で、ペナコリは今の博物館(平取町立二風谷アイヌ文化博物館)やお土産物屋さんがあるところから2キロくらい上流に行ったところです。ペナコリというのは、おおまかにいうと「上流」を指すアイヌ語かな。

育ったのは、山ひとつ挟んだ穂別(ほべつ)町の豊田というところ。この山は高いったら高いけど、場所を見れば歩いても越えられるんだ。自分は和泉(いずみ)ってところにある累標(るべしべ)沢っていう、昔の人たちが山越えに通ったとこでも働いてた。昔のアイヌは、累標沢をずっと上流に向かって行けば、沙流の長知内(おさちない)の方、二風谷(にぶたに)の上流に抜けれたらしいんだわ。沙流のアイヌと穂別アイヌが交流してたらしい。

国土地理院地図をもとにプロジェクトで作成(クリックで国土地理院地図を開きます)

豊田はアイヌ語でいうとキナウス、「ガマの生えている所」という意味。穂別には今もキナウス川がある。キナは日本語でいうとガマのことで、アイヌにとっては敷物を作ったりするすごい大切なものだったんです。昔は川が洪水になった。川が別の所を流れるようになって、せき止められたところが沼になって、ガマがいっぱい生えていた。

自分は20歳で苫小牧(とまこまい)市に移り住むまで、キナウスで育ちました。当時は70~80世帯あったけれども、比率でいうとアイヌが半分くらいいたかな。何を生業(なりわい)にしてるったら、農家と土木仕事とか山仕事だね。

昔は茅葺きのチセ(家)があったよ。豊田にはホロカンベ沢とキナウス沢っていう大きな二つの川があるんだ。ホロカンベ沢のホㇿカってのは「戻る」っていうアイヌ語だね。

ホロカンベ沢とキナウス沢(クリックで国土地理院地図を開きます)

もう今はいないんだけども、そのホロカンベ沢にいたおばあちゃんが、息子が跡を継いだ家(母屋)から、ちょっと離れたところに茅葺きの小屋建てて住んでたの。アイヌは年取ったら、小さな家を建てて一人で住むっていう風習があったんだって。それにぴったんこ該当するなと思って。何年生きてたか分かんないけども、2~3年は記憶あるよ。俺が小学校のときに、その家はすごい裕福だったから、お昼ごろでも行くと何か煮てたのもらえるんだわ。そんなの目当てで行ってたんだわ。

あと、別のおばあちゃんの話だけど、人が死んだらカソマンテ1って、家に火をつけて燃やすわけ。それは俺も小学校のとき見たことあるんだ。オマンテは「送る」って意味がある。俺、知ったかぶりしてるけど、全部は説明はできない。

アイヌも和人も朝鮮人も貧しかった時代

(『新穂別町史』を見ながら)この写真に写ってるの、豊田(キナウス)の人ばっかしなんだよ。電気が通ったときだから、1945(昭和20)年でしょう。電気が通ったお祝いでカムイノミ(神への祈り)あったんだね。

当時は水道なんかないですよ。うちは部落で2番目くらいに貧乏だったけど、なぜかポンプがあった。近所の人もポンプを使いに来たね。でも、すぐそばにワッカクタ(使用後の流し水)があって今だと衛生的には考えられない。大変だったね。今考えるとなつかしい。当時と比べると、今はほんとうに幸せだと思うよ。

和人でも経済的に大変な時代だから、いろんな事情や理由で人が流れて来てた。うちも、仕事に来たけど途中で仕事なくなった和人を何か月か置いて住まわせてあげたのね。その人はその後、札幌でお菓子屋さんに勤めたんだ。一斗缶にお砂糖のついたビスケットを持って来てくれたときあったね。昔ってそういうのが多かったんでない?豊田の場合は、アイヌもシャモ(和人)もみんな助け合って生きてたね。お互いに貧しかったから、相手の立場も分かるべしね。今の時代の方が絶対いいんだけども。

朝鮮半島の人もたくさん来たよ。それこそ、だまされて強制労働に連れてこられたタコ部屋2から逃げてきた人を、豊田でかくまって助けてやったって。昔は大変だったんだよ。

お母さんと本籍とおかみさん

育ての母親は普段は日本語だったけれども、焼酎飲んで酔ったり怒ったりすると独り言のようにアイヌ語でぶつぶつ何か話してたね。アイヌ語で独り言をヤイコイタㇰって言う。母親はたばこものんで(吸って)たね。文字の読み書きはできなかったわ。悪かったらぶん殴られたけど、すごい愛情のある母さんだったよ。

自分の産みの母親は平取のアイヌ。母親の身内は(姓が)川上なの。平取は川上って多い。だから自分も一時、作田にする前は川上ってしたときもあったの。俺、出生届出されなかったから、本籍も国籍もなかったのさ。だけどもそれを知らないで、19歳か20歳のときに初めて分かった。それで、うちのかみさんがいろんな役場に行ったり、裁判にかけたりして(籍を)作ってくれた。かみさんの名前が作田だから「作田にするかい?」ったっけ、「じゃあ作田にするわ」って。かみさんがいなかったら、ほんとに、俺なんかどうなってたか分かんない。

聞き取りの様子(2023年8月)

うちのかみさんは青森県上北郡七戸町作田村字作田から来た。作田川も流れてんだよ。アイヌに差別意識はなかったな。和人だから、本州だから、っていっても裕福ではなかった。父親が婿に入って、財産も何も売っ払っちまって、えれぇ苦労してるから。だけども麦飯は食ったときないっていうのさ。銀シャリ以外はないって言ってたよ。

青森にもアイヌいるからね。だから、シトってアイヌ語で「団子」のことなんだけど、うちのやつに通じた。偶然かどうか知らんけど、うちのかみさんの名前が片仮名で「チセ」なんだよ。チセったら(アイヌ語で)「家」でしょ。チセは恥ずかしいからって、自分で勝手に役場に行って子どもの「子」をつけて「チセ子」になった。でも、本当の名前は「チセ」なんだ。

差別って昔あんまり感じなかったけど、32~33歳の頃かな、俺、職業トラック運転手だったんだ。仕事の関係でガソリンスタンドに毎日行くっしょ。ある時、そこの男が思わずポッと「お、酋長(しゅうちょう)」って俺に言ったのさ。いつも俺のことをそう言ってたんだね。そいつ、言った後まずいなって顔してて、女の子の従業員もすごい気まずい感じでいたよ。でも、俺は何も言わなかった。

「アイヌだったら何よ。きっともっと俺の方ががんばって、そのうちにいい暮らししてやるよ」って内心思って、逆にそんなの励みにしてさ。そんな嫌な差別ってあるから、俺たちアイヌも確かにそういう(辛い)思いもあるけども、大人になったらそういうのも糧にしてさ。子どもは別だよ。

山菜や野草、薬草のおはなし

フキの葉でさっとひしゃくをつくって見せてくれた(2023年6月)

ブドウは(アイヌ語で)ハッっていうの。ブドウのつるはハップンカㇽっていう。食べたことある?今も1年に1回くらい食べるんだけど、すっぱくておいしいんだ。あとは、ブタイモ(菊イモ)。アイヌ語ではムンキリっていう。外国から入ってきたのが自然にあちこち増えたらしい。学校帰りに、泥ついたのを洗って生で食べておいしかったね。

春先だったらフクベラ(ニリンソウ)。アイヌ語でオハウキナっていうんだけど。あれをおひたしにしたものをご飯にのっけて醤油かけて食う。フクベラって、花食わない人もいるけど、花もおいしいからね。

トゥレㇷ゚(オオウバユリ)は、大切な食料でしょ。山のちょっと湿地気味のところに自然に生えてるもんだからね。母さんが採ってきて、団子にしてた。

デンプンにすれば保存食だけど、そんな上品なデンプンじゃないんだわ。うち炭焼きだったから、そんな加工してうんぬんじゃないんだわ。夏なんか、採ってきて、山で火を焚く。根っこのところを葉っぱに包んで火にくべて、焦げないように上手に蒸し焼きみたくして、お昼ご飯代わりにした。そうして食ったのが一番おいしかった。あのときには7人ぐらいいたと思うからかなりの量だよ。それだけで昼ご飯だからね。1人1個でなく何個も食ったよ。昔はいっぱい生えてたから。今の方が全然少ないよ。そんなもんだけ食ったって満足しないけども、取りあえず空腹感は何とかなった。味は「ゆり根」って思えばいいわ。時間たつと繊維が多くなってすぐ固くなっちゃうから、食える時期ってそんなに続かない。6月からせいぜい7月まで。

7~8年ぐらい前は、苫小牧でもウバユリかなりあったんだ。俺、そんなことしなきゃよかったんだけども、採って食ってたんだわ。天ぷらにしたらすっごいおいしいんだ。むいて、衣サッとつけて。俺、少し休まんきゃ駄目だなと思って採ってなかったの。で、今年行ったっけ、全然ない。俺、15年ぐらい前に「こうやって食えばおいしいよ」ってシャモ(和人)に教えたんだ。きっともって彼でないかと思ってさ。あんな食い方知ってる人あんまりいなかったから。だから、場所教えたりとか余分なこと言わん方がいいなと思って。

キトビロ(ギョウジャニンニク)も、豊田で自分しか知らないところを同じ出身の同級生に教えてやったんだ。3~5年周期で回って、一番生えてるとこに5年ぐらい行かなかったんだわ。したっけ、全部消えちゃって何にもなかった。だからあいつでねぇかなと思う。俺も採りに行ってるから他人のこと言えないね。昔って「あまり採り過ぎるな」って言わなくても、そこら辺にあったんだもん。でも日高方面に行けば、今でもこんな(ボールペンほどの長さ)の生えてんだ。フクベラ(ニリンソウ)もそこで採れる。

キトビロ、フクベラを乾燥させて保存する人もいたけども、うちはキトビロとフクベラを一緒に塩漬けにするんだわ。結構な樽に漬けたね。すっごいおいしいからね。春先に母さんと2人で採りに行くと、かなりの量すぐ採れたんだわ。今でも懐かしいから大事にして、今年も隣の人にもやったんだわ。今はこういう風にして(冷凍保存したニリンソウを冷蔵庫から出して見せてくれる)味噌汁に入れて食べてんの。

冷凍保存しているフクベラ(ニリンソウ)。このあとお味噌汁にしてふるまってくださいました(2023年8月)

ゲンノショウコは、アイヌ語でキンラプンカㇻっていう。俺の義理の姉が産後の肥立ちが悪いとき、お茶にして普通に急須に入れて飲んでたよ。知里真志保さんの辞典(『分類アイヌ語辞典 植物篇』)がすごい詳しいよ。

あとオオバコ(エルㇺキナ)ね。打ち身に効くということで、実際に自分も肌に貼った。オオバコの葉っぱの上に酢で練った麦粉を一緒に貼ったよ。蜂に刺されたり蚊に食われたりしたらフキ。葉っぱを使う人もいるし、茎の人もいる。

あとシケㇾベっていうシコロ(キハダ)の木(の実)。あれは最近もキハダの木の薄皮を胃薬に飲んだ。この間行った平取でもご飯にシケㇾベ(が入っていた)。阿寒の民芸喫茶ポロンノに行けば、シケㇾベのコーヒーもやってる。シケㇾベの味したよ。キハダは苫小牧にもある。でも、あちこちにあるわけでないから、俺、場所教えないんだわ。

子どもの頃に食べていたもの

主食はお米だけども、うちはすごい貧しかったから、小学校5年生ぐらいまでは麦だね。お米だけのご飯は、子どもの頃はあんまり食べられなかった。弁当も麦が多かったね。麦は買ってた。なんか大粒の麦なんだ。でも田んぼは作った。2反半(約2.5アール)で採れる米って、今は7~10俵が当たり前だけど、昔は2~3俵だったんだわ。だからみんな貧しかったの。

おかずは、いいときはホッケ。今は高級品だけど、昔は安かったから。苫小牧に朝市があったから、お店開けてる人は汽車に乗ってちゃんと仕入れて売ってた。集落のほとんどの人がツケで買って、お盆とか暮れとかお正月に支払いした。なんぼ買ったかも分かんないんだ。だから今考えれば適当に増やされたと思うんだけどさ。お金がないときは、また来年。

あと、家で作ったイモとかカボチャも弁当に持って行ってたな。カボチャなんか保存食でしょう。はらわた取って、干して、切って、紐でつるして。あとホイチョ(包丁)でリンゴの皮むくみたく薄く切って。キノコもそうだし、トウキミ(トウモロコシ)もそう。

カボチャはつぶしてチポイェㇷ゚にした。静内の方ではラタㇱケㇷ゚っていうけども、うちらの方はチポイェㇷ゚。チったら「私たち」、ポイェったら「混ぜる」で、「私たちが混ぜるもの」って意味。混ぜるのはカボチャ、豆、トウキミの三つだね。

作ってたイモは、秋に残したのが、春になると土から顔を出す。時間がたって腐っちゃってんだわ。白老ではペネイモ、うちらの方ではメチレエモ3っていうのね。それを畑から拾ってきて、皮むいて薪ストーブの上で焼いて食べた。アンモニアの臭いするけど、臭うところなげたら(捨てたら)食うところない。昔、各家庭で豚を預かってたから、豚の餌もストーブにかけてるときあるんだわ。その中に食えそうなイモも入ってると、それも食ったりさ。

お父さんとの川漁

川の魚も食べたね。魚だって大切な食糧だった。いつも捕るわけじゃないんだよ。洪水のことをアイヌ語だとポロワッカっていうんだけど、雨が降ると水が増えるでしょう。ヤマベ(ヤマメとかが上ってくるのか下ってくるのか分からないけど、出てきて浅いとこでも捕れるようになるんだわ。俺の育ての父親は木の棒を半月形にして、それに網をつけて魚を捕った。幅が1m弱。親父が網を上流に向けて押さえる役で、俺が上流から足で魚を追いかけると網に入る。「雑魚すくい」がなまって「じゃっこすくい」って言ってた。

雨が降って水が出たときは普段取れないような魚が入る。ドジョウはアイヌ語でチチラカイとかチチラヤマメキクレッポウグイスプンとかパリモモというけど、そういうのが入る。カジカフナもそうだね。たまに小さいエビも入った。ヤツメウナギも捕れたね。あれは血を吸うんだよ。アイヌ語ではヌクリペって言う。

運が良ければウグイの大きいの(アカハラ)とかヤマベの大きいのが網に入る。大きいのが入ると衝撃があって「入った!」ってなる。ストーブに上げて焼いて、親父は焼酎が好きだったから、それを肴にしてた。今は「川魚は臭い」なんていうけど、すごいご馳走だったね。こういう魚は、食料の足しでもあったね。焼く場合もあったし、煮るったってただ醤油なの。みそ汁に入れたり。やっぱし煮た方が多かったかな。

生で食ったのったら、ヤマベのでっかいのね。あれを刺身にして食ったのが1回だけある。でかかったね。あれすごい衝撃ね、網にどすんったらオーバーだけど、そんな感じで。サケチタタㇷ゚(たたきなます)も生で食ってた。「川で捕ったサケ」って言ってましたよ。

鵡川(むかわ)って大きい川で、今は立派な橋が架かってるけども、昔は橋がなくて、船でなきゃ渡れないのさ。だから俺が小学校のときは、まだ渡船があったの。船頭のことをアイヌ語でイクサクㇽっていうんだ。クサったら「渡す」って意味ね。

昔、鵡川にサケが上って来てた。今はえん堤ができちゃったから、あれより上流には上らないけども、ずっと上ってきてた。サケを捕る人は、カギ(マレㇰではない、もり先が固定されて回転しないもの)を何回も川に流して、触った感触したら、ぐっと引っ張ったらもり先が刺さる。だから気が遠くなる仕事さ。昔の、川がサケで埋まるぐらい沢山いた時だったら、それで捕れたけども、俺らの頃ってもうそんなに量も多くないから、あんな方法では捕れるわけないさね。そのとき、まだえん堤はなかったな。

お母さんに教えてもらった鳥を捕る仕掛け

足がかかる仕掛け(2023年6月)

(仕掛けに使う長い棒を指して)これはクワの木です。クワの実、食べたことある?おいしいでしょう。アイヌも和人もかんじきを作ったけど、その材料にしました。かんじき(テㇱマ)に使った木(ニ)だからテㇱマニ。この仕掛けでエヤミ(カケス)を捕ります。

この仕掛けはね、成功率がすごく低いの。小学校2~3年の頃から中学1年くらいまで、これで鳥を捕ってたね。お母さんが教えてくれたの。昔は人間もトウキミ(トウモロコシ)なんか食べられないくらい貧しい時があったけど、大事なトウキミを餌にした。カケスが「餌があるな」って飛んできて、ここの輪に足が入って捕まっちゃうの。実際は地面に打ちつけて仕掛けを作った。作るときに、高さとか、いろいろ工夫してやらなきゃなんない。北海道は雪降るでしょう。だから、この仕掛けは雪に埋まらないように高さを調整できるの。(足が吊り上げられた)このまま生きててちょっと残酷なの。だから「エヤミ イヌヌカㇱキ(カケス可哀そうだね)」って言ってた。

食べる時は、単純に薪ストーブの上にあげて焼いて、塩か醤油で。食べるところなんてそんなにないの。満腹になんかならない。でも「おいしいなぁ」って。昔は食べるものなかったからね。

首を挟む仕掛け(2023年6月)

今度のは足じゃなくて首を挟む仕掛け。これは雪に埋もれてしまうから冬には向かないね。(マキリ=小刀を出して木を削りながら)昔はさ、こういうのも自分で作ったんだよね。マキリの柄のところは自分で彫刻しました。これはラㇺラㇺノカ(鱗彫り)っていうの。刃物の総称はノタコㇷ゚。鉞(まさかり)はムカㇻという。

(仕掛けは成功!)これはもうイチコロ。鳥は苦しまない。遊び半分くらいで鳥を捕っていたね。こういうのは生活の知恵なんだよ。全部お母さんから習ったんだ。

アイヌ語もね、木の名前とかを母さんが教えてくれた。(実物を見せながら)これはイワニ。アオダモの木です。バットにする木。削ると薄皮が青いでしょう。だからアオダモっていうんです。昔は、規律違反とかした良からぬやつを制裁する時に、これを使ったそうです。これで焼きを入れたの。ストゥっていう制裁棒だね。染料にも使ったし、シヌイェ(入れ墨)4にも使ったんだよ。入れ墨には、他にもカバの木を焦がした煤も使ったそうです。入れ墨もいろんな種類や想いがあって、簡単には語れないそうです。

(捕る対象ではないけれど)最近人気のあるシマエナガという鳥はアイヌ語ではウパㇱチㇼっていうね。ウパㇱは「雪」、チㇼは「鳥」。『アイヌ神謡集』の作者で有名な知里幸恵さんの姓は、このチㇼから来ているそうです。シマエナガは冬に集まるからウパㇱチㇼというそうです。知里真志保さんの本(『分類アイヌ語辞典』)に詳しく書いてあります。

木工所勤め

昔、北海道は木材を生業(なりわい)にしてたね。結構続いてたから、まだ自分のときには沙流川も平取も木材盛んだったな。静内(しずない/現在の新ひだか町)だってすごかったんだよ。賃金が高いから向こうに行った人もいるし。自分が行ったのは奥高見ってとこかな。静内の奥ね。農屋(のや)の奥になるかな。ノヤったら(アイヌ語で)ヨモギのことね。それに「農屋」って当て字した。

自分は17歳ぐらいから平取町の奥の糠平(ぬかびら)って所に働きに行ってた。15歳で卒業してすぐ木工所に勤めてたけど、賃金が安い。あの当時、ニクソン・ショック(ドル・ショック)までは(1ドル)360円だったんだわ。ちょうどアメリカの1ドルと同じ賃金だったの。日当360円っていう。ちょうどそのときに1ドルが150円ぐらいになった。ラーメン1杯が30円とか60円だった。そんな時代。貧しかったんだわ。

木工所の社長は、当時だったら行政を動かすような力もある、ものすごい財力のある和人だったんだわ。ものすごい金持ちで、群を抜いてたね。俺、そこに従業員として使われてた。その社長は早くに開拓に入って、どういう方法か分かんないんだけども、山とかを随分アイヌからだまし取ったらしいよ。和人ってちゃんと教育受けてるでしょう。一定の教育受けてれば、アイヌだまかすなんて訳ねえっしょ。(アイヌは)字も分かんねえんだから。そんなんで財を成した人だから、アイヌ系の人間はみんな良く思わないよ。

だけど今、その会社は跡形もなくなっちゃった。人生は分かんねぇよ、ほんとに。知里幸恵の『アイヌ神謡集』の台詞って、その通りだなと思って。「テエタ ニㇱパ タネ ウェンクㇽ ネ(昔のお金持が今の貧乏人になっている)」って一節があるんだわ。「ニㇱパ」って金持ちのこと、「ウェンクㇽ」ったら貧乏人のこと。それにぴったんこ当てはまるよ。和人の世界にも絶対通用することだなと思って。今が良くたって人を馬鹿にしたら駄目だよね。

カムイチェㇷ゚ノミのイナウ作り

作田さんとイナウ(2023年8月)

カムイチェㇷ゚ノミ」って矢代(やしろ)生活館で9月にあるんだ。豊漁豊作祈願だとか、社会の安定だとか、そういうことを第一に考えてるんだ。

前は川で全部やってたんだけども、(苫小牧アイヌ協会の)会員も減ってるでしょう。一番多いときは240世帯ぐらいあったのが、今90世帯切ったんでないかな。段取りが大変だから、負担が少ないような方法でやろうってことで、俺ともう2人ぐらいが朝に川へ行って祝詞だけ上げて、いろいろ儀式とか歌とか踊りは生活館でしようってことに決めた。お祈りをしたりするのは1人ではできないよ。みんなそれなりに役割分担でね。俺はイナウ(木幣)作りと、行事が無事に終わるように段取りとか。あとは皆さんにお願いして、みんなで協力して。俺一人だら何にもできないから。

カムイチェㇷ゚ノミでは、今年も苫小牧の漁協に協力してもらって、サケを13本もらって、それを生活館で炉縁に立てて焼いてね。定置(網漁)のサケではなく、ふ化場で(もらう)。だからほっちゃれさ。アイヌ語でほっちゃれのことをオイシルっていうんだわ。卵も入ったのももらうよ。それでもほっちゃれなんだわ。川に上がっちゃえば、海のと違って色も味も全然違う。ほっちゃれを燻製(くんせい)にすればおいしいんだよね。脂身も適当に抜けて、なんかおいしいんだって。生で焼くなら、ほっちゃれじゃない方が身も柔い。

最初は買ってたのに、今はもらってるんだ。当初は「良かった」「13本もか」って言ってたんだけど、中には「ほっちゃれは駄目だ」とか「品物が悪い」だとか「量が少ない」だとかって(言う人が出てきた)。人間って贅沢だから、だんだん欲出てくんのさ。だから今年、誰かが言ったら「秋味(サケ)欲しくてやってるんでないべ。たくさんあったってどうしようもないっしょ。20本もらってどうすんのよ。違うべやな」って言おうと思ってんの。

昨日たまたま、うちでイナウ(木幣)5作りしてたんだ。一番時間のかかる、神様になるイナウ。港だとか山だとか内地だとか町だとか火の神様とかって7神だから、神様の分が面倒くさいんだわ。怒られんだけどね。チェホㇿカケㇷ゚イナウっていう短いのは簡単なんだ。最低でも16本いるけど、すぐできるんだわ。時間経つのあっという間でしょ。だから準備しとかんかったらなんないから。

苫小牧の7神(苫小牧アイヌ協会 第28回アシリパカムイノミ (2025年1月26日)配布資料より)

残念ながら、今のところ苫小牧で(イナウを)作れる人が他にいないのさ。あんまり打ち込んでくれる人いないのね。でも一人、若い人が興味持ってくれてるから楽しみなんだ。(イナウ作りは)52~53歳ぐらいのときに、千歳の野本久栄さん6に教えてもらった。俺より若い人だけど、5、6年前に死んじゃったんだわ。

俺、不器用だけど、このマキリ(小刀)は自分で使うのに何十年も前に作った。これの柄と鞘の木彫の仕方も野本さんに教えてもらった。

イナウは諦めないでやったら、やってるうちに作れるようになる。これはヤナギの木。ウトゥカンニ(ミズキ)でも作る。でもイナウに一番いいのはウトゥカンニかな。

(木の調達は)無断。だから法律的にいくと盗伐になる。今回は苫小牧から適当に。年がら年中探しても材料がない。生えてるのは生えてても、材料に使える木ってのは限られてんだ。ヤナギは河原に行けばあるけど、使えるようになるまで4~5年かかる。今いろんな所で行事やってるでしょう。だから材料を採る人も多いから、余計なくなってくんだ。需要に供給の方が追いついていないね。1か所で採れないから、数か所から取ってくるんだわ。材料を選んでくのも、経験した人でなかったら分かんないんだわ。だからそういう難しい面もあるよね。

苫小牧アイヌ協会のアシリパカムイノミ(新年を迎える儀式)にて(2025年1月)

和人による悲惨な歴史

確かに、和人が本州から来て、アイヌもすごいいろんな被害受けた悲惨な歴史・記録もいっぱい残ってるんだ。何百年前までさかのぼっていけば、コシャマイン(の戦い)、シャクシャイン(の戦い)だとかクナシリ・メナシ(の戦い)だとか、確かに自分たちの先祖はそういうつらい思いはしたと思うよ。

クナシリ・メナシなんか、『三十七本のイナウ』(根室シンポジウム実行委員会編、1990年) の中にも出てるんだけども、いろいろ松前藩と交渉した12人いるっしょ。ツキノエだとかションコだとかチキリアシカイだとか。彼らは裏でどうしたかったら、生き延びるためにはそういう方法しかなかったんだけども、自分たちの部下三十何人を松前藩に処刑さして自分たちは生き延びた。理由はどうあれ、東北から来て何も理由も分からずアイヌに殺された漁師の七十何人と合わせて、トータル百何十人も(犠牲になって)ね。その原因を作ったのは松前藩だよね。苫小牧のアイヌを釧路に強制労働にさせて、家族と離ればなれにさせてとか、ひどいこともした。

静内の御料牧場を造るのに(アイヌを)貫気別(ぬきべつ)のとんでもない奥に強制移住させて。今も平取アイヌ協会が毎年あそこで先祖供養をしてる。俺も個人的に年に2回くらい行くけども、とんでもない山奥だよ。あそこでイモ作れ、豆作れったって、大変だったと思うよ。高台で寒い、霜は早く下りる、雪は早く降るでしょう。皇族の贅沢のために、アイヌがあんなとこに追いやられたんだよ。

昔は俺、アメリカのジョン・ウェインの西部劇が大好きだったの。何も考えないで、「早くインディアンをやっつけろ!」なんて観てたんだ。だけどさ、アパッチ族とかコマンチ族とか先住民族が悪者になってるけど、全く逆だよね。今考えたら悪いのはどっちだと。もうああいう映画は作んない方がいいよ、ほんとに。

自分たちの主張と自分たちの努力 

アイヌのいろんな運動も賛成なんだけども、「100%全部自分たち(アイヌ)が全部被害者なんだ。100%あんた方(和人)納得せいよ」って意見には、俺なれないんだ。自分たちの先祖の犠牲の上にあぐらをかいて、それを盾に要求ばっかりでは、なかなかね。アイヌが自分の都合のいい主張だけ通すのに、真っすぐに向き合ってる人を利用していろんなこと言うんでなく、やっぱり自分たちも真摯にいろんなこと考えてやってほしいなって。

和人の中に、歴史をいろいろ考えてくれる人がいるのはありがたい。感謝の気持ちはあるけども、アイヌがそれに甘んじてばっかしいたって駄目だよ。自分たちも頑張って、アイヌって自分で語るんであれば、やっぱり必要最低限のことを身につけて、誰かに聞かれたら、詰まりながらでも説明できる民族意識を持たなきゃなんないなって。アイヌ自身が過去に何があったか歴史を少しでも勉強して、まず自分の生き方も、自分でも頑張らなきゃ。俺たちも努力しなきゃなんないよね。最低限の自覚は持たなきゃなんないよね。若い人たちの将来を考えて欲しい。俺も77歳になるけど、今でもいろんなこと勉強せんきゃ駄目だなって思うよ。

なぜかったら、シドニーオリンピックのあった2000年にニュージーランドのマオリを訪ねたことあるんだ。すごい民族意識が高くて、22~23歳の人でもすごい立派な考え持ってて、俺、感激して帰ってきたんだ。アボリジニの人が二風谷に来たこともあって、その人は俺よりちょっと若い女性だったけども、すごい立派な考えを持ってて「自分恥ずかしいわな、これでは駄目だわ」と思った。

俺、何か役立つ話したんだべか。ちょっと違うような考えも言ってごめんね。なんか脱線ばっかりしたんでないかな。

(まとめ:八木亜紀子、山口翔太郎、七座有香)

  1. カソマンテ:死後に住む家を持たせるため、家や小屋を燃やしてあの世の死者に送る儀礼。家送り。地域によって、男女どちらかにのみ送る場合もある。1871(明治4)年に開拓使が布達を出して禁止した。(参考:欠ヶ端和也「アイヌ家送り儀礼の地域差(1)」中川裕編『アイヌ語・アイヌ文化研究の課題』、2021年 https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/109485/358-p066.pdf、『アイヌプリ―アイヌの心をつなぐ―』アイヌ文化振興・研究推進機構、2012年 https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_bunka/files/ainupuri.pdf) ↩︎
  2. タコ部屋:北海道・樺太の炭鉱などでみられた労働者の宿舎。過酷な労働を強い、ここに入ると蛸壺(たこつぼ)の蛸のように出られなくなるところからいう。 ↩︎
  3. メチレエモ:冬の間、屋外で凍結と解凍を繰り返して熟成させたジャガイモを水にさらし、きねでついて焼いたもの。保存する場合は乾燥させる。地域によって、ポッチェ、ペネエモ/ペネイモ、ムニニイモなど、さまざまな呼び方がある。 ↩︎
  4. シヌイェ:アイヌ民族の女性が口のまわりと手の甲からひじにかけて施した入れ墨のこと。入れ墨をしなければ周囲から一人前の女性として認められず結婚することも儀式に参加することもできなかった。1871(明治4)年に開拓使が布達を出して禁止した。(参考:『増補・改訂 アイヌ文化の基礎知識』アイヌ民族博物館監修、2018年;『アイヌプリ―アイヌの心をつなぐ―』アイヌ文化振興・研究推進機構、2012年 https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_bunka/files/ainupuri.pdf) ↩︎
  5. イナウ木に削りかけをつけるなどして装飾したカムイ(神)への捧げ物。人間の祈りをカムイに伝える役割を持ち、受けとったカムイにとっては宝物となる。それ自体が守護神などとして神格を有したり、魔払い具の働きをしたりする場合もある。(参考:『花とイナウ』北原次郎太・今石みぎわ、2015年 ↩︎
  6. 野本久栄(1951~2019年):白老町生まれ。藤村久和氏(元北海学園大学教授)に師事し、カムイノミを含むアイヌ文化全般について学ぶ。1996(平成8)年に千歳市立末広小学校内にアイヌの伝統的なチセ(家屋)を建設し、1~6年生のアイヌ文化教育のカリキュラム化を実践した。また、アイヌ語ペンクラブや千歳アイヌ文化伝承保存会の会長を務めるとともに、アイヌ文化活動アドバイザーとして全国各地へ出向きアイヌ文化の普及に貢献した。 ↩︎
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