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大須賀 るえ子さんに聞く【後編】

聞き取り1回目:2023 年 6 月 10 日(土)
メンバー:小笠原小夜、小泉雅弘、八木亜紀子

聞き取り2回目:2023 年 8 月 21 日(月)
メンバー:飯沼佐代子、小笠原小夜、八木亜紀子

場所:大須賀さんのご自宅(白老)

  • 話者の方がアイヌ語でお話された部分についてはカタカナでアイヌ語を表記しています。カタカナのあとにカッコで日本語訳を加えています。
  • アイヌ語は地域によって異なります。ここでは、話者の方が使われた表現を用いました。
  • アイヌ語のカタカナ表記中、イウォㇽなど小さな文字で表記しているのは子音の表記です。
もくじ

GHQに訴えたおじいさん「土地がほしい」

GHQを訪問したおじいさん(宮本イカシマトク)

前編はこちら

そういえば、わたしのおじいさんが「マッカーサーに会いたい」って東京まで行ったことがあるんです。

1945(昭和20)年に戦争が終わったら、天皇よりもマッカーサーが偉くなった。それで、1947(昭和22)年に東京のGHQ(連合国最高司令官総司令部)まで会いにいったけど、マッカーサーがいなくて。でも、その時にいた一番偉い人(ティルトン大佐)が「何か希望することや言いたいことはないか」って聞いてくれたそうです。

米軍のStars and Stripes(星条旗新聞

おじいさんは「土地がない」って、「土地が欲しい」って言ったんだそうです。そうしたら、その人は「うまくはかってやる」みたいなことを言ったらしいのだけど、アメリカとソ連の冷戦時代に入る時期で、朝鮮戦争も始まってしまって…。

これがその時の写真です。うちのおじいさんは若いときはね、ラッコ船に乗ったりして外国行ったりしていたから、それこそ割と狭いところでどこにも行かないアイヌとは違う人なんだ。

手紙(写真提供:大須賀るえ子さん)

(手紙日本語訳)極東委員会1947年10月23日 アイヌの長が大佐を訪問 宮本イノスケが彼の友人であるC.ティルトン大佐を東京の第一生命ビルにあるオフィスに訪ねて来た。長(宮本)とティルトン大佐が最初に出会ったのは1935年。そして1946年8月に再会している。この時ティルトンは北海道における統治制度について研修する任務についていたのである。

手紙には「1935年にティルトンさんと会っている」とあるから、多分こういう繋がりが元々あってマッカーサーに会いに行ったんだと思う。それで、「土地がほしい」と訴えたわけだ。

家の話ではないけれど、農地だって、到底開拓できないようなとんでもないところを日本政府はアイヌにくれたんだと。結局手を加えないままで何年か過ごしたら、ちゃんと整備してないってことで取り上げる。本当にろくでもないことをした和人の子孫だよ、あなた方は。

何年か前に『アイヌとGHQ・マッカーサーの神棚の謎』というNHKの番組(アイヌモシリ スペシャル2019年10月4日)があって、それにおじいさんのことも紹介されています。この番組では北風磯吉という名寄のアイヌの人が亡くなった時に、その家の神棚の中にマッカーサーのことが書かれた新聞が入っていたのが発見されたということから始まるの。アイヌとマッカーサーの関係をたどる番組なんです。

北風磯吉は日露戦争に兵士として行ったんだけど、大変成績が良かったので、勲章を与えられて、金一封も与えられたんだそうです。それで、小学校を建てるために土地もお金も全部寄付したの。和人は土地から金から何でもかんでも独り占めするっていう考えだけど、この人はそんなことなくて、ものから何から全部学校を作ることに寄付したんだよ。

北風磯吉(1880年-1969年):日露戦争で「白襷隊」としてロシアの要塞攻撃に参加し、当時最高の勲章である「金鵄勲章」を授与された。

白老の観光化の歴史

コタンコㇿクㇽ(村長)役をやるおじいさん(宮本イカシマトク)とおばあさん(宮本サキ)

明治14(1881)年に明治天皇が北海道に来て、その時に白老にも泊ったの。それから、白老に皇室の人が来るようになって、観光客も来るようになりました。わたしたちの住んでいたコタンの最後のコタンコㇿクㇽ(村長)、熊坂シタッピレさんが死んでしまったので、それからはわたしのおじいさんのところに観光客が来るようになりました。

家の中を見せたり、白老の元気なおばさんたちは着物を包んで持ってきて、リㇺセ(踊り)を見せたりしました。スズランや黒ユリを売りに来る人もいました。おじいさんがコタンコㇿクㇽ役をやって、わたしの父親は写真を撮って絵葉書にして、それを売っていました。父親は登(のぼる)という名前で、1913(大正2)年生まれで写真屋だったの。

わたしはポロトコタンに1965(昭和40)年から昭和で言えば「83年(2008年)」までの約40年間働いていました。ポロトコタンは観光施設として(運営する白老観光コンサルタント株式会社が)家を建ててくれて、ほとんどのアイヌは通いで働きに来ていたけど、2軒は実際に人が住んでいたの。そのうちの1軒はわたしの家で、お土産物屋をやってました。53軒の店があって、最盛期は年間80万人くらいの観光客が来たので、それはそれは忙しかった。「観光アイヌ」なんて言われてさんざん馬鹿にされたり、周りから妬まれたりしましたが、そうやって生活してきたんです。

大須賀さんと長男(1973年・ポロトコタンのお店の前で)

そんなだから浜のあたりの高砂のコタンに住んでいた人たちもポロトコタンで働くようになったの。それまではコタンの人たちはボロ屋みたいなとこに住んでいたんだよね。昔はトタンっていうのもないから、板張りで柾(まさ)屋根の平屋のごくごく「田舎の家」って感じで。博物館(ウポポイ)に行けば昔のそういう写真が貼ってあるけど、「これはどこらへんだったの?」って聞いても今の若い人(学芸員)にはわからない。

ポロトコタン: 1965年に白老観光コンサルタント株式会社がポロト湖畔に開業したアイヌ文化を紹介する施設で、アイヌ語で「大きな湖の集落」を意味する。園内には、観光土産店が出店する民芸会館やアイヌ民族博物館が建てられた。ウポポイの開業準備にともない、2018年に閉園した。(参考:『アイヌ民族博物館開館30周年記念誌』アイヌ民族博物館、2014年)

明治天皇の北海道行幸

ポロトコタンができて白老が観光化される以前は、おじいさんは熊を獲っていたけど、熊は一年中獲れるわけではないから、線路を敷くとか道路をどうするかっていう時には頼まれて働いて、駅逓(えきてい:旅人の宿泊や、運送、郵便の役割を担った施設)もやっていたらしいです。おじいさんは1876(明治9)年生まれで、10代の後半から20代ぐらいのときに駅逓で白老から苫小牧まで飛脚みたいに荷物を運ぶこともしたそうです。その頃はろくな道路もなくて、くねくね道や森の中を通ったって話です。

1881(明治14)年に明治天皇が白老に来たんだ。小樽から札幌までは汽車で来て札幌の豊平館に泊まった。それから、お供の人たちを引き連れて、汽車がないから馬車で今の島松(北広島市)の中山久蔵(寒地稲作の創始者)のところに寄って、白老まで来た。そこで、放し飼いにした馬に縄掛ける芸を和人が見せて、それから、大沢周次郎さんという立派なお家があったんだけど、お供や馬も泊まらなきゃならないから、その家族はどっかに移ってもらって、そこをちゃんと天皇が泊まるようにしたわけだ。

泊まった夜に、コタンのアイヌの人たちが40人だか何十人だか、集められて踊ったり歌ったりして「お慰め申し上げた」んだと。そこは今、大沢さんではなくなっているんだけど、そこに今、明治天皇御駐蹕之碑というのが建ってます。

おじいさんは1876(明治9)年生まれだから、その時はまだ子どもだった。おばあさんはその1881(明治14)年の夏に生まれたから「こういうことがあったよ」と話に聞いたらしい。

戸籍法と名前の変更

そのころ戸籍がようやくできて、アイヌにも「戸籍を与える」ってことになった。和人は自分で勝手にどさどさっと大勢で乗り込んできて、人の座敷に土足で入るみたいなことをしておきながら「与える」とか言うんだね。

戸籍:1871(明治4)年に明治政府が戸籍法を制定し、アイヌ民族も日本国の平民として戸籍に編入した。(参考:『アイヌ文化・ガイド教本』北海道観光振興機構、2019年 https://visit-hokkaido.jp/ainu-guide/ainu_guide.pdf

おばあさんの名前はアイヌ語だと、「サㇰ(夏)」っていうんだけど、和人には聞き取れないの。「サッ」と言えば札幌の「札」になってしまうし、聞き取れないから「サキ」になってしまった。おじいさんは本当は「イカシマトク」なんだけど、戸籍法ができてから「イノスケ」っていう全然違う名前になっちゃったの。

例えば、わたしは金成マツの研究をやっているんだけど、金成マツの本当の名前は「イメカヌ」なの。だけど、アイヌの女の人はみんな大体カタカナで、ハルだのアキだのウメだのナツだのマツだのタケだのツルだの、和風の2文字の名前をつけられる。お墓にもおそらく本名じゃない名前が書いてあるわけ。調べていると、「おそらくこの人は、この人のことじゃないかな」と想像するんだけど、アイヌの本名がわからないと確証が持てないわけ。役所に聞いても個人情報だからといって教えてくれない。例えば、子孫だったら奨学金の申請なんかには戸籍の提出が必要だから教えてもらえるんだけど…。

(本に載っている家系図を見せて)それで、こういうアイヌの家系図ってあるでしょう。本当はきょうだいがもっといるけど、名前を出してほしくない、出したくないという人がいて書いていないわけ。だから、アイヌはもっとたくさんいるいるはずなんだ。でもね…。

金成マツ(1875年~1961年):北海道幌別郡幌別村(現:登別市)出身のアイヌ口承文芸伝承者。言語学者の金田一京助が「私が逢ったアイヌの最後の最大の叙事詩人」と評したモナシノウクを母に持ち、受け継いだユカㇻ(英雄叙事詩)などをノート約160冊にローマ字で筆録した。『アイヌ神謡集』を編訳した知里幸恵は姪で養女、アイヌ語研究者の知里真志保は甥にあたる。1956年に無形文化財保持者に指定され紫綬褒章を受章。

50歳になって始めたアイヌ語の勉強

わたしが「こういう道」に入るきっかけはアイヌ語講座に参加したことが大きいです。50歳の時から10年間、白老でアイヌ語入門講座に参加して勉強していました。毎年4月に始まって2月に終わりというのを毎年繰り返して、今思えば「仲良しクラブ」みたいなものだった。そんな風にして10年経ったころ、ユカㇻ(英雄叙事詩)やウエペケㇾ(伝承、昔話)の存在を知ったの。勉強し出してから、アイヌ語の美しい世界に引きずり込まれて「アイヌの文化ってこんなに素晴らしいのか」と目覚めたの。

それこそ若い頃は、みなさんと同じで差別とかね…。わたしなんて背は低いし不細工だし、劣等感の塊だったのだけれど、勉強し出してから「アイヌにはこんなに素晴らしいものがあったんだ、それを知らないのはとてももったいないなあ」と思って、一生懸命勉強を始めたの。

アイヌ文化講演会に登壇した大須賀さん(2011年)

1987(昭和62)年にSTVラジオ(札幌テレビ)でアイヌ語ラジオ講座がはじまって、1998(平成10)年と99(平成11)年度の2回、講師を体験しました。そのころまだ文法やらなにやら分からないのに、よくやったと思う。汗かきながら悪戦苦闘して、終わった時どんなにうれしかったか。わたしの前は萱野茂さんや千歳の中本ムツ子さんとか、大先輩がやっていたのだけれど、だんだん「やれません」となって…。今はすごく若い人が担当して上手にやっているけど、わたしが担当した時は本当にどうしようかと思った。よくやったと思う。

萱野茂(1925年~2006年):アイヌ文化研究者、政治家。北海道平取町二風谷生まれ。アイヌ民具・民話の収集・記録に力を注ぎ、アイヌ民族初の国会議員としてアイヌ文化振興法の制定に貢献した。
中本ムツ子(1928年~2011年):北海道千歳市蘭越生まれのアイヌ文化伝承者。千歳アイヌ文化伝承保存会の設立や千歳アイヌ語教室の開講、出版活動でアイヌ語と口承文芸の伝承に尽力した。

そして、その苦労をした後に2年間の上級者のコースが始まったの。会場が長沼温泉から始まって、定山渓でもやった。集中講座に参加して、はじめてまともにアイヌ語の勉強ができるようになりました。あのまま田舎にいただけでは、じいさん・ばあさんがアイヌであったとしても、アイヌ語の単語が出てこない。ここらへん(白老)は早くに拓けているからみんなアイヌ語を話せないわけ。「そんなもんだ」と思っていたから、それまでのアイヌ語教室は「仲良しクラブ」だった。ラジオ講座と上級者講座で目が覚めて、真剣に勉強するようになったの。

白老アイヌ語の研究活動

金成マツの肉筆のウエペケㇾ

わたしは今、金成マツの残した物語を世に広めたいと真剣に思っていて、毎年本を出しています。白老アイヌ語教室のメンバーの10人ぐらいではじめて、今は9人で取り組んでいるの。毎年本にまとめて、今18冊目になります。

これはマツの直筆原稿なの(すべて筆記体のローマ字で書かれた原稿のコピーを見せてくれる)。読むのはすごく大変なんだけど、大変だから読むの。時々ね、知里真志保が鉛筆で注釈を入れてるところがあるんだけど、これがすごく助かるの。あの、知里真志保だよ。やっぱり全くなにもないよりは少しは注釈があると分かる。原本は北海道立図書館にあるので、何番から何番までと請求して、送ってもらうんです。

知里真志保(1909年~1961年):言語学者、民族学者。文学博士。北海道大学名誉教授。専攻はアイヌ語学。伯母は金成マツ、姉は知里幸恵。

読んでいると、おじいさんやおばあさんから聞いた話や、その頃の暮らしとつながることがたくさんあるの。これをマツが書いたのは約90年くらい前なんだ。事実を書いているわけだから、こういう古いものこそ正統だなって思いますよ。必ずそこに潜んでいる文化がありますから。

大須賀さんのお話を聞いてみよう「金成マツはすごいですよ。残したものが膨大ですよ。マツのお墓に行くとね、お願いします、教えてください!もっと話聞きたいってそんな気持ちになるの」

白老楽しく・やさしいアイヌ語教室のみなさん(2023年12月撮影)

(まとめ:井上千晴・八木亜紀子・山口翔太郎)

資料:「白老楽しく・やさしいアイヌ語教室」編の発行物一覧

  • 金成マツ筆録ノート文字解読字典(2004.2)
  • 金成マツ筆録ユーカㇻ既刊20編の研究と分析 1(2005.2)
  • 金成マツ筆録ユーカㇻ既刊20編の研究と分析 2(2006.2)
  • 金成マツ筆録ユーカㇻ既刊20編の研究と分析 3(2008.2)
  • 金成マツ筆録ユーカㇻ既刊20編の研究と分析(2009.2)
  • アイヌ語白老方言の研究 1(2010.2)
  • アイヌ語白老方言の研究 2(2011.2)
  • アイヌ語白老方言辞典(2012.2)
  • 白老アイヌの研究 1 (宮本イカシマトク・妻サキを中心に)(2013.2)
  • 金成マツ筆録ユカㇻにおける常套句と常套表現の研究1 : 金成マツ筆録マッユカㇻ〈踊りますよ、跳ねますよ〉から(2014.2)
  • 金成マツ筆録ユカㇻにおける常套句と常套表現の研究 : 金成マツ筆録マッユカㇻ〈踊りますよ、跳ねますよ〉から(2015.2)
  • ユカㇻ辞典 : ユカㇻやウエペケㇾを読むために(2016.2)
  • 金成アシリロ口述ウエペケㇾ10話の研究(2017.2)
  • 道南アイヌ語方言辞典(2018.2)
  • 森竹竹市ウエペケㇾの研究(2019.2)
  • 盤木アシンナン口述ウエペケㇾ8話の研究 : 金成マツ筆録(2020.2)
  • 知里ハツ口述ウエペケㇾ5話の研究 : 金成マツ筆録(2021.2)
  • 滝本イチ口述ウエペケㇾ7話の研究:金成マツ筆録(2023.2)
  • 豊年ヤイコレカ/ニサㇱテㇰ/フッチャンル口述ウエペケㇾ5話の研究:金成マツ筆録(2024.2)
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