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野村義一 特別講演「アイヌの歴史と現状」

本稿は1989年8月8日、「世界先住民族会議」2日目(札幌市・北海道自治労会館)におけるスピーチの記録です。

野村義一 北海道ウタリ協会理事長

もくじ

アイヌモシリとアイヌ民族

今から2万年前から、この北海道には人間が住んでいたといわれています。わたしは、この2万年前に生きていた人間はアイヌ民族の先祖だと考えています。ですから、北海道とアイヌの関係の歴史は、非常に長いものなのです。わたしたちアイヌ民族の租先たちは、この島にアイヌモシリという名前をつけ、自然を大事にしながら長い生活を営んできたのです。そういう島と民族の関係があるのです。

わたしたちの民族の古老の話をきくと、アイヌ民族がどんなに自然を大事にしてきたかよくわかります。一木の草であろうと一本の木であろうとそれを大事にし、海や川で取れる魚や生きものも乱獲をしないで、自分が食べるだけの量しか自然からの恵みをいただかなかったのです。アイヌ民族は大らかに生きてきた民族なのです。

和人とのたたかい

今から700年前、アイヌモシリに、本州の交易商人たちが突然やってきました。その後、本州から罪人たちが、アイヌ・モシリに島流しにされました。これらの人びとは、北海道の南部に住みました。こうしてアイヌと新しく入ってきた和人との間で摩擦が生じることになります。

まず1456年に、コシャマインのたたかいが起きます。

その後、江戸時代になってからロシアが、アイヌ・モシリにむかって南下してくるようになり、江戸幕府はその防備のために、侍をアイヌモシリに駐屯させるようになりました。

本州から和人がどんどんはいってきたため、今まで平穏に暮らしていたアイヌが和人によって圧迫を受け、アイヌと和人の関係がひじょうに険悪になりました。

1669年にシャクシャインのたたかい、そして、1789年にクナシリ・メナシのたたかいが起こりました。

北方領土のこと

明治時代以前にあったことで、皆さんにとくにご記憶いただきたいことを申し上げます。

第一は、1785年に、当時江戸幕府の学者であった林子平が「三国通覧囲」という地図を作ったときのことです。その地図には、本州、四国、九州、そしてアイヌモシリの函館を中心とした日本海沿岸の一部が、日本の領土だと明記してあります。その当時、江戸幕府はアイヌモシリのことを「蝦夷が島」と名づけていましたが、その地図では、「蝦夷が鳥」の大半は「蝦夷國」と明記してあります。その地図では、沖縄も「琉球國」と明記されているのです。

第二は、近藤重蔵が1798年にエトロフ島に日本領土の碑をたてたということが、いま日本政府が叫んでいる北方四島返還運動でいわれる「日本固有の領土」の根拠になっているということです。

7~8年前に、北海道庁における北方領土返還運動の責任者と民間北方領土返還運動の幹部を呼んで、その運動の経緯をききました。

その時に、わたしたちは「近藤重蔵がたてた碑が、今の北方領土返還運動の根拠になっているなら、それ以前に島に人間はいなかったの」とききました。そうすると「アイヌがいました」という答えがかえってきました。

「アイヌが住んでいたなら、どうしていまの返還運動にアイヌのことが出てこないのですか」ときくと、彼らは沈黙してしまいました。

わたしたちアイヌ民族からみると、北方四島返還運動の主張はあいまいなものであることがわかります。

第三は、1855年に結ばれた日露通商条約についてです。条約を結ぶ前年1854年に、日本とロシアが交渉を持ったときロシア代表は「エトロフに日本人はいなかった。いたのはアイヌであった」といったのです。すると日本代表はすかさず、「そのアイヌが今は日本に帰属している」といいました。

そのため交渉が進んで、日露通商条約が結ばれ、エトロフから南は日本領土、ウルップ島から北はロシア領土であることが決められたのです。

江戸幕府は「アイヌが日本に帰属している」といいましたが、当時の文献にはそのような記述がありません。かりに「帰属している」というなら、江戸幕府とアイヌとの間に話し合いがあったはずです。そこでの合意があって初めて「帰属した」といえるのではないでしょうか。それがまったくないのに、江戸幕府が「アイヌは日本に帰属している」といい、エトロフ島を日本の領土にしたという不可解な話もご記憶ください。

明治政府になってから

1869年、明治政府は、蝦夷が島を北海道と命名しました。1870年、アイヌが日本国籍を持つようになりました。1875年には、千島・樺太交換条約が結ばれ、千島全島がロシア領になり、カラフトが日本領になったのです。

それから明治政府は拓殖政策をすすめ、本州から多くの和人が北海道に移住してくるようになりました。

では、アイヌはどうなったか。明治政府までは、自由に漁や狩りができたのに、明治政府になってからそれができなくなった。漁や狩りが罪とされるようになったのです。それまでアイヌはお金を必要としなかったのです。ところが明治政府になってから貨幣がなければ生活できないようになってしまったのです。

ですから、経済的にたいへんな苦労をするようになりました。

同化政策

それに加えて、明治政府は同化政策を強要してきました。アイヌのことば、文化、信仰、習慣を禁止したのです。そして、新しく日本のことば、宗教、生活習慣を覚えることを強制してきたのです。

アイヌにとって苦難の時代がはじまったのです。今まで大らかに生活していたのに、食べることじたいが苦しくなった。しかも同化政策によって、アイヌの生活を規制し日本のまねごとを強制してきた。

明治時代にわたしたちの祖先が味わった体験は、アイヌの長い歴史のなかで最も苦しいものだった、わたしはそう思います。しかし、わたしたちの祖先は歯をくいしばってそれに耐えた。

しかも、和人は梅毒や淋病などいろいろな悪病を持ち込んできたのです。アイヌは病気に対する抵抗力がなかったので、どんどん死に、アイヌの人口が減少したのです。

北海道旧土人保護法

明治政府も、こうしたアイヌの窮状をみて、そのままにしておくことはできませんでした。

そこで、1899年に、わたしたちが悪法といっている「北海道旧土人保護法」をつくったのです1

この法律の目的は、アイヌはこれまで狩猟民族であったがこれからは狩猟・漁労はできないから、アイヌに土地を与えて農業で安定した生活をさせなければならない、というものでした。そこで、アイヌ一戸あたり五町歩(現在の5ヘクタール)を与えることにしたのです。

農業をするときには、平らで肥沃な土地であることが最高の条件なのだが、そういう良い土地は本州からきた和人に、すでに与えていたのです。アイヌには、その残りの、山、谷底、急傾斜地、湿地帯の土地をくれたのです。明治時代に、山や傾斜地をもらって、どうして安定した農業生活ができるでしょうか。

アイヌは、農業で安定生活をすることができなかったのです。したがって、ニシン場へ出稼ぎにいったり、日雇いをやって安い賃金をもらって家族を養っていたのです。

そればかりでなく、アイヌに与えられた土地も、15年間耕作しないでおくと国に没収されてしまったのです。4~5年前の実態調査によると、アイヌに与えた土地の85%がアイヌの土地でなくなっています。15%が残っているだけなのです。2

こうしたことからも、わたしたちは今日木政府や北海道庁に大きな不信感を持っているのです。アイヌを救うために土地を与えるといいながら、実際はアイヌをさらに苦しめるような土台を作ったのは、日本政府と北海道庁なのです。

この北海道旧土人保護法のもうひとつの柱は、小学校を作りそこでアイヌの子弟を教育することでした。しかし、そこで教えたのは、読み書きだけでした3

こうしたアイヌの状態は、第二次世界大戦がおわるまでまったく変わらなかったのです。ですから、教育も満足にうけられず、経済的にも非常に苦しかったのです。

アイヌ協会からウタリ協会へ

1946年、わたしたちの先輩が「アイヌ協会」をつくって、日本政府と北海道にたいしてアイヌの権利を主張しはじめたのです。そして、アイヌの窮状を政府と北海道に訴えたのですが、両者とも敗戦処理に頭がいっぱいでアイヌ問題には耳をかしませんでした。

アイヌ協会は、その後めだった活動をしませんでした。そこで、1961年にアイヌ協会の再建大会を札幌で開きました。その大会で、「アイヌ」という名称には差別の歴史が刻まれているという意見にしたがい、名称をアイヌ協会からウタリ協会に変えました4「ウタリ」とは、アイヌ語で仲間どうしという意味です。

ウタリ協会は、日本政府と北海道庁にさまざまな要求をしてきました。その結果、1974年から「第1次ウタリ対策7カ年計面」が始まったのです。それがおわってから引き続いて「第2次ウタリ対策7カ年計面」をすすめたのです。しかし、その成果を調査してみたところ、多少の成果はあがったが格差は縮まっていないことが明らかになったのです。わたしたちは、今のようなウタリ対策を50年つづけたとしても、格差は縮まらないという結論に達したのです。

アイヌ新法の要求

今のようなウタリ対策を50年続けても格差が縮まらないとしたら、最後には抜本的な対策を政府に要求しなければならない、そのためにはどうするかを、わたしたちは考えはじめました。そのときに、わたしたちの祖先はこのアイヌモシリの先住権を持っていたのではないか、ということに思いあたったのです。そして、この先住権を訴えようという結論に達しました。

わたしたちウタリ協会は、この先住権を基本にして、1984年に「アイヌ新法」の制定を決めました。この「アイヌ新法」はわたしたちの民族の権利ですから、胸をはって政府にたいして新法の実現を要求しているのです。ウタリ協会ばかりでなく、北海道や道議会も「アイヌ新法を制定せよ」と政府に訴えています。しかし、政府はいまだに何もしていません。

世界の流れの中で

1987年に、当時の中曽根総理大臣が「日本は単一民族国家だ」という発言をして、世界中のもの笑いの種になった事件がありました。

わたしたちも、そのとき国連の先住民族会議に出席して、世界中に「日本にはアイヌという先住民族がいる」という発言をしました。

その後、日本政府の発言が変わってきました。独自の言語と文化を持ったアイヌがいることを認めるようになってきました。わたしたちは、その後も、国連の先住民族会議に出席を続け、1992年に「先住民族の権利に関する国際宣言」をだそうとしています。

また1988年からILO(国際労働機構)の総会にも、ウタリ協会から代表が出席するようになりました。そこでは、第107号条約(独立国における土民ならびに他の種族民及び半種族民の保護及び同化に関する条約)の改正について話し合われました。世界の先住民族は、なぜ自分たちが多数者のまねごとをして同化しなければならないのか、という考えに立ちこの条約の改正を要求していたのです。

この条約が1957年に制定されたとき、日本政府は条約を批推しませんでした。しかし、ILOは批准していようといまいと、政府にたいして条約改正についての意見を求めました。しかし、日本政府は明様な回答をせずに、ウタリ協会に意見の提出を求めてきました。わたしたちは、すべての項目に対する回答を準備してILO総会に出席しました。

今年(1989年)のILO総会で、この第107号集約は、賛成390余り、反対40余り、そして棄権が数票、で可決されました。日本政府は、棄権したのです。この改正によって、同化ではなく「その民族の独自性を尊重する」という考えに、はっきり変わったのです。この考え方と、わたしたちの要求している「アイヌ新法」の考え方はぴったり一致しているのです。しかし日本政府は、批准しないことを前提に棄権したのです。いま「国際化」が叫ばれる中で、日本政府がこうした態度を取るならば、日本は世界のなかで孤立することになると思います。

わたしたちは、「アイヌ新法」が世界の大きな流れのなかで支援を受けて、日本政府に制定させることができると確信しています。


  1. 北海道旧土人保護法:制定時は全13条。講演に述べられているように、アイヌから大地を奪ったうえで劣惑な土地を給与したもので、しかもその保護に関してはザル法であったし、小学校は同化教育を推進する施設であり、その他の施策もアイヌの共有財産をその費用に充てるなど、先住民族に対する抑圧法として機能した。1937、46年などに大幅に改正されたが、その基本的性格は変わっていない。この法律を現在もなお存在させていることじたいが、日本国政府のアイヌ民族に対する姿勢を反映している。 ↩︎
  2. 1978年、北海道が行なった「給与地実態調査」によれば、北海道旧土人保護法で「下付」された土地9,061haのうち7,705haが没収(15年以内に開墾しなかったという理由)または売却されており残っていたのは1,518haであった。1988年3月現在、その面積はさらに減り、1,354.7haが残っているにすぎない。 ↩︎
  3. 「旧土人保護法」にもとづく小学校:第9条において、政府はアイヌ居住地に小学校を設置すると定めた。1901年には道庁が「旧土人児童教育規程」を定め、アイヌ語・アイヌ文化の中に育つアイヌに対する同化政策を推進するために、アイヌの子どもから言葉を奪い文化を否定する教育を徹底すべく、特別の教育課程を設けた。この小学校はそのための施設である。1920年代以降、アイヌ語・アイヌ文化の破壊が進む中でそうした学校の“役割”はいちおう達成されたと見た道庁は、これらを順次和人の学校に統合していった。 ↩︎
  4. ウタリ協会の名称問題:講演に述べられているように、「アイヌ協会」から「ウタリ協会」への名称変更の背景には、ほんらい民族の誇りである「アイヌ」という呼称が和人によって差別語として用いられているという事態がある。その後、協会の名称を再度「アイヌ協会」に変更すべき、とする要求が幾つかの支部から出されており、現在は協会内部で議論を継続している。 ↩︎

出典:ピープルズ・プラン・21世紀・北海道「歴史を担って未来へ向かう/世界先住民族会議記録集」(1989年)p.25
この記録集は、全編がPDF化され、「ピープルズ・プラン21世紀アーカイブ」で公開されています。ピープルズ・プラン研究所の許可をいただき、一部をテキスト化して本サイトに掲載しています。
http://www.pp21archives.org/pdf/PP21-J00018.pdf

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