アイヌ民族は、かつて日本の本州北部、北海道、樺太(サハリン)南部、千島列島に居住し、自然と一体化した独自の宗教、文化を有し、主に狩猟、漁撈、採集によって生活していた北方自然民族なのである。
アイヌとは、アイヌ語で「人間」を意味し、アイヌは日本語とは異なる独自のアイヌ語を使用し、独自の文化を築いてきたのである。
アイヌ民族は、今から3000~4000年前の縄文時代から住み始めたといわれているが、和人(日本人)との関係については、明治維新(1868年)までは、北方の「異民族」として位置づけられ、これを平定することが中央権力の重要な課題になっていたのである。
和人との本格的な関わりは、鎌倉時代(1192~1333年)の末からで、以後、アイヌ民族に対する和人の収奪や抑圧がつよまり、争いがここから生まれてきたのである。康正2年(1456年)のコシャマインの戦い、寛文9年(1669年)のシャクシャインの戦い、寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦いがこれである。
江戸時代(1603年~1867年)には、松前藩のもとでアイヌと和人との間の交易が盛んになってきたが、江戸末期になると、蝦夷地は、幕府(中央政権)の直轄地にされたため、アイヌ民族への支配は一層強化されたのである。
しかしながら、明治時代に入ると、政府は我々アイヌ民族に何の相談もなく、強制的にアイヌは異民族ではなく「日本人」とされ、本格的な同化政策がとられて、農耕を中心とする生活様式に転換させられたのである。明治2年(1869年)に開拓使が置かれ、蝦夷地を「北海道」に改称し、翌3年(1870年)に戸籍が与えられ日本人となったのである。
さらに10年(1877年)アイヌが占有していた土地を官有地にさせられると同時に、アイヌ語と旧習慣を禁止され、日本人への改姓を強制しながらも、戸籍上は区別してアイヌを「旧土人」としたのである。
その後、本州からの移民の増大によって、鹿や鮭の乱獲が始まり、さらに明治政府の一連の施策によって生活基盤を失ったアイヌ民族は、急速に窮乏化し、明治20年(1887年)代には大きな社会問題になったのである。
そこで、アイヌを「保護するための法律」が検討され、国会の場において、アイヌは「無智蒙昧の人種にして、その知識幼稚にして利益は内地人に占奪され、漸次その活路を失う傾向にある」それゆえ「この義侠の心に富みたる我々日本人が、この際是非とも保護してやらねばならぬと思う」などと述ベられ、このような趣旨から明治32年(1899年)に「北海道旧土人保護法」(資料1)が制定されたのである。
当時の国会での議事録(資料2)には、いたるところにアイヌを「劣等なる人種」として扱う発言が見られ、最初から差別的色彩の強い法律であったのである。
ともかく、この法律によって土地を「付与」されたが、その土地も農地に適さない荒地、傾斜地、山林、湿地帯が多く、農耕に不慣れなアイヌ民族は、その土地すらも手放すことが多く、また、しばしば和人に詐取されたのである。しかも15年以内に開拓しなければ没収するという条件付きで、そのうえ、土地を売買、譲渡する場合には、北海道知事の許可が必要とされていたのである。
また関連法規として、明治34年(1901年)に「旧土人児童教育規程」が定められ、これは、国立旧土人学校の設置に伴って用意されたもので、和人児童と区別して、皇民教育を施すことを目的にしており、ここには差別が明らかに示されていたのである。その後「北海道旧土人保護法」は、大正8年(1919年)、昭和12年(1937年)の大幅改正で、所有権制限に適用除外の項が設けられ、また、勧農や医療救助の保護の項が改められ、生業援助、不良住宅改良、保護施設補助などの条項が加えられたのである。法が制定されてから昭和43年(1968年)の現行法(資料3)までに、その間5回改正され、各種の保護規定が削除され、現在は、農地付与と、所有権の制限、保護施設補助、共有財産の条項を残すだけになっている。この「北海道旧土人保護法」は明らかに差別性を含んでるものであり、また、第2次世界大戦後は、日本国憲法との関係で、財産権を保障している第27条と、人権や社会的差別を禁止し、法の下の平等を定めている第14条に明らかに違反しているものである。
ところで、この少数民族としてのアイヌを日本国政府は、どのように見て、どう位置づけているかが問題なのである。
昭和54年(1979年)に、長い間態度を保留してきた「国際人権規約」(市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書を除き)を批准したが、翌55年(1980年)の国連報告書では、政府は少数民族の権利を規定した、いわゆる「市民的及び政治的権利に関する国際規約」第27条に対して「自己の文化を享有し、宗教を実践し又は自己の言語を使用する何人の権利も、わが国法により保障されているが、本規約に規定する意味での少数民族は、わが国では存在しない」(資料4・5)と記している。
これは、日本には、先住・少数民族が存在しないことを対外的に公式に表明したものである。
一方、これまでの国会という国政の場においても、明確なる見解(資料6・7)が出されていないにもかかわらず、単一民族国家論を唱えている。さらに国連の場においても「先住・少数民族問題」は存在しないという立場をとってきているのである。
しかし、「北海道旧土人保護法」は、先住・少数民族対策法であることは事実であり、国内的には、その存在を認めていることを意味するものであり対外的姿勢と矛盾するものである。
こうした点からアイヌ民族の大多数を代表する「北海道ウタリ協会」は昭和61年11月25日(1986年)に、先の日本国政府の国連報告書は誤りであるとして、少数民族の存在を認めその実態調査を行うよう国連から日本へ働きかける要請文(資料8)を国連に送付したのである。
近代国家への成立に際し、先進諸国ではいかなる国家も民族問題を避けて通ることができなかったが、日本では明治維新(1868年)以後の近代化過程で、先住民族であるアイヌが、それ程抵抗を示さなかったためか、日本国内に民族問題は無いとする漠とした「意識」が国民の中にあることは事実である。しかし、現に我々アイヌという先住・少数民族(数万人)が存在していることは、まぎれもない事実である。
国際日本として、多くの外国人が日本に人ってきているが、このような状況の中で、必然的に多様な民族の言語や文化を相互に認め合って生きていかなければならないが、その前提条件として先ず日本が真の「国際化」を実現するために「内なる国際化」の問題解決こそ重大であり、遅ればせながらも我々アイヌ民族が立ち上がったのである。我々アイヌ民族の代表者が、国連のこのような場に出席したことは、これまでの歴史的過程になかったことであるが、次の問題解決のため「差別防止及び少数者保護小委員会」での考究を願うものである。
①日本政府のこれまでの同化政策によっても、アイヌは先住民族としての自決権を持つ。
②民族として独自のもつ文化、宗教、言語、生活習慣等は、何人にも侵されるものではなく、また、権利を譲り渡した事実もない、故にこれを保持する権利を持つ。
③差別法である「北海道旧土人保護法」に変わるべき民族として確立された「新しい法律」制定要求の権利を持つ。
以上、せつに要求するものである。
1987年8月
日本北海道札幌市中央区北3条西7丁目
社団法人北海道ウタリ協会
理事長 野村義一