植民地化(「植民地主義とは?」参照)の状況を脱する思想、態度、実践を脱植民地化と言います。脱植民地化では、自らの問題は自分たちで決めるという自己決定権の回復をはじめ、土地権や生業にかかる権利、伝統文化の復興や先祖伝来の言語を取り戻すことが目指されてきました。ここでは、宗主国と先住民族の関係のあり方が問い直されます。すなわち、宗主国と先住民族のネイションは、互いに対等な「国対国」の関係であると捉えなおされ、その上で、自己決定や土地権、生業に関する権利、言語権、教育権等、様々な権利の回復が目指されるのです。
さらに、これまで宗主国側が主導して行われていた様々な施策を、先住民族の意志決定や価値観に基づいて再構築する試みもなされるようになってきました。博物館の運営を例にあげて説明します。これまで博物館は宗主国の制度のもと、非先住民族の専門家らによって運営されてきましたが、カナダでは、先住民族の専門家が運営方針の決定にかかわり、先住民族の価値観をもとに展示のあり方を見直す取り組みが行われています。このような既存の体制や実践を、先住民族の意志決定と価値観とによって再構築する思想や態度、実践のことを「先住民族化(Indigenization)」と言います。
根深い「構造的レイシズム」
以上をアイヌ民族の状況に当てはめて考えてみると、アイヌ民族は今なお強固な植民地化のもとに置かれていると言えます。およそ、脱植民地化に向けた動きは見られませんし、それゆえ、構造的レイシズム(「植民地主義とは?」参照)は今も根深く、日本社会に巣くっていると言わねばなりません。たしかに日本政府は内閣官房にアイヌ政策推進会議を置き、アイヌ民族の中からも委員を任命し、アイヌ政策の意思決定に参加させてはいます。しかしながら、もとよりこれらの委員はアイヌ民族の中から民主的に選出されたわけではありません。また会議に参加してはいても、政策の立案過程に参加しているわけではありません。またアイヌ民族の委員は委員総数の過半数未満ですから、政府が立案したアイヌ政策案を否決することもできません。
そもそも構造的レイシズムの原因は、アイヌ民族に対する植民地化であり、とりわけ、土地や天然資源の収奪にあります。ところが、政府も司法も、植民地化の暴力には目を向けず、アイヌ民族の先住民族としての土地権や天然資源に関する権利を認めようとしません。2024年4月、札幌地方裁判所は、浦幌十勝川におけるラポロアイヌネイションのサケ漁業権を否定する判決を下しました。その理由は、「河川は公共のものだから、特定の集団が排他的に漁業を営む権利はない」というものです。では一体、ラポロアイヌネイションが漁業権を主張する河川は、いつ、どのように「公共」のものとなったのでしょうか。この「公共」のものとする過程、すなわち植民地化において一方的にアイヌ民族の先住民族としての漁業権を消滅させたことこそが問題だったのです。そこに目を向けず、あたかも太古の昔から「公共」の河川だとみなしてしまうことは、今に続く植民地主義であり、暴力以外の何ものでもありません。アイヌ施策推進法には「先住民族であるアイヌの人々」との文言はありますが、司法は、アイヌ民族を先住民族とは見なしていないのです。
また、アイヌ施策推進法第4条には、アイヌ民族に対する差別の禁止を定めています。日本政府は、差別者を罰したり、差別された人を救済したりするのではなく、アイヌ民族に対する国民の理解を広げることで差別を無くすのだと主張しています。しかしながら、アイヌ民族に対する差別は、構造的レイシズムなのです。脱植民地化なくして、アイヌ民族に対する差別をなくすことはできませんし、国民理解が広がることもありません。具体的な権利が回復されていく中でこそ、権利や権利の行使のあり方について具体的な議論が生まれ、このような議論を通して国民理解が広がっていくのです。
アイヌ民族の「先住権」の回復を目指しつつ、身近なところから先住民族化―アイヌ民族化をすすめる努力が求められています。アイヌ政策は無論のこと、アイヌ文化に関する行事をはじめ、北海道の環境アセスメントや環境政策、観光施策等、アイヌ民族が意思決定を行い、その決定が尊重されるような場を広げ、制度化していくことです。例えば、博物館におけるアイヌ民族に関する展示や学校におけるアイヌ民族学習等について、アイヌ民族と協議するとともに、アイヌ民族が意思決定の中心となるような場を広げていくことが求められています。
広瀬 健一郎 鹿児島純心大学人間教育学部教授