地理
区域と地勢
西方は胆振国(いぶりのくに)と隣り合い、北方は少しだけ石狩国に接している。東方は十勝国、南方は太平洋に面している。もっとも西よりに位置しているのは沙流郡(さるぐん)ウフイエバブ(東経141度58分)、東の端は幌泉郡(ほろいずみぐん)ピタタヌンケプ川(東経143度19分)である。南端は襟裳岬(えりもみさき)(北緯41度54分)、最北は沙流川(さるがわ)の水源山脈(北緯43度)。東西の長さが28里17町(111.7km)、南北は30里30町(121km)、面積は312方理(4804.8km2)あまりである。
区域の形は、西北から東南に向かって細長く、南東部では海に突き出して半島地形を形成して、先端部を襟裳岬という。渡島国(おしまのくに)と並んで、北海道で最も南に位置する国である。
東側の境界付近は日高山脈が横たわっていて、西南方向に傾斜しながら海岸に届いている。山脈と海との間隔は、国の西北部が広く、東南部が狭いので、各河川の長さにも同じ傾向がみられる。地味の肥えた原野も西北地方に多く分布する。 日高国は、沙流(さる)・新冠(にいかっぷ)・静内(しずない)・三石(みついし)・浦河(うらかわ)・様似(さまに)・幌泉(ほろいずみ)の7郡に区画されている。各郡は西北から東南に向かって並列している。様似郡を除く6郡は南北に長い形をして、北から南に向けて高度を下げていく。
山岳(未翻訳)
河川
日高国は、分水嶺の日高山脈から海岸までの距離が長くないので、国内を流れる川はどれも短く、流路延長が30里(117.8km)を超える川は1本もない。最長の川は、国のいちばん西端を流れる沙流川(さるがわ)で、延長28里20町(112.2km)。以降、沙流川から東に向けて順に、
- 門別川(12里34町=50.8km)
- 波恵川(はえがわ)
- 慶能舞川(けのまいがわ)
- 賀張川(かばりがわ)
- 厚別川(あつべつがわ、13里5町=51.6km)
- 新冠川(にいかっぷがわ、19里8町=75.5km)
- 染退川(しべちゃりがわ、17里21町=69.1km)
- 捫別川(もんべつがわ)
- 布辻川(ぶしがわ)
- 三石川(みついしがわ、9里7町=36.1km)
- 鳧舞川(けりまいがわ、10里19町=41.4km)
- 元浦川(もとうらがわ、11里28町=46.3km)
- 向別川(むこべつがわ)
- 幌別川(ほろべつがわ、9里19町=37.4km)
- 様似川(さまにがわ、6里20町=25.8km)
- 幌満別川(ほろまんべつがわ)
- ニカンペツ川
- 猿留川(さるるがわ)
などがある。これらの川は、北北東から南南西に向けて流れるか、あるいは北から南に向けて流れるかしている。ただし、襟裳岬の東側の河川は、西北から東南に向かって流れている。各河川は、それぞれ険しい山々や丘陵地帯を流れ下る途中、両岸を崩壊させたり浸食したりして谷状の地形を生みだしている。ただし、谷の幅は狭く、広い平地はない。流れが速すぎて船運向きではなく、残念ながら現時点でも、わずかに数本の川で丸木舟による上下運輸が行なわれているに過ぎない。たいていの川は海岸のそばで西向きに屈曲してから海に注いでいる。川からの水と海からの波がぶつかるところに砂が堆積するために、このような地形になってしまう。
海岸
海岸線は44里15町(174.3km)。海岸線の大部分は狭い砂浜が続いていて、その内側に海岸段丘が形成されている。段丘斜面は勾配がきつく、雑草で覆われている。ところどころ絶壁がそびえ立っている。様似郡冬島(ぶよしま)と幌満(ほろまん)の間、また幌泉郡庶野(しょや)と猿留(さるる)の間の区間は落石ゾーンとして昔から有名な難所。 河口のあるところはたいてい砂丘が形成されている。とくに浦河郡のエブイ川河口部には高さ30尺(9m)に達する砂丘があるが、広さはそれほどでもない。
海中には岩礁が点在している。とくに東部地域に多く、昆布がよく生える。 日高国の海岸線は屈曲がほとんどないため、これまで港湾がなかった。浦河・幌泉のような重要市場に、船舶を安全に停泊させることのできる港のないことは、大きな欠点である。有名な襟裳岬以外には、岬と呼べる地形はない。
近海では、東方から襟裳岬の先端に向かってくる寒流と、西方・津軽海峡方面から流れてくる暖流余波と、2つの流れがみられるが、それほど強力な潮流ではなく、風向きによって海流の向きは変化する。
原野
前述のように、ここ日高国は山脈の傾斜部にあたり、丘陵・高原はそれなりに広いが、河川沿いの平野部はどこも狭くて、「肥沃な大地」にはなっていない。たとえば沙流川は、河口から十数里(40~50㎞)上流までの沿岸にフラットな土地が続いているが、幅は狭くて、面積は広くない。このほか、染退川・元浦川・門別川・厚別川・新冠川・捫別川・三石川・鳧舞川・幌別川・様似川などの川沿いにも狭い平地が見られる。幌泉郡の川は小規模で、川沿いに平地はない、とも言える。
丘陵や高原は多数の川や谷によって区切られ、あちこちにアップダウンがある。面積は平地の倍以上だが、十勝より東側に広がる広大な高原とは比べものにならない。
日高国ではまだ正確な測量が行われておらず、原野面積は不明である。参考までに『殖民地撰定第一報文』記載のデータを転載しておく。
郡 | 原野名 | 平地(ha) | 丘陵(ha) | 総面積(ha) |
沙流郡 | 沙流・門別間 | 5700.9 | 4509.5 | 10210.4 |
静内郡 | 捫別川沿岸 | 586.8 | 188.4 | 775.2 |
三石郡 | 鳧舞・三石間 | 3221.5 | 366.9 | 3588.4 |
浦河郡 | 元浦河沿岸 | 1520.7 | 1185.1 | 2705.8 |
浦河郡 | 幌別川沿岸 | 1809.1 | 768.6 | 2577.7 |
様似郡 | 様似・仁雁別間 | 734.7 | 452.9 | 1187.6 |
幌泉郡 | 笛舞・幌泉間 | 63.6 | 502.5 | 566.1 |
合計 | 13637.3 | 7974.0 | 21611.3 |
原文に〈殖民地撰定第一報文〉とありますが、実際に引かれているのは北海道出版企画センター復刻版『第二第三報文』p81以降の「日高国総叙」の「平地」面積です。原文では面積の単位は「坪」。1坪=3.31m3としてSI単位に換算しました。
地質(未翻訳)
土壌(未翻訳)
気候(未翻訳)
動植物
動物
野生動物は徐々に減少しているのだが、エゾヒグマはいまなお時々出没して馬や牛を食害し、牧畜業の大きな障害になっている。 エゾシカはかつては非常にたくさん生息して、アイヌの食料だったが、開拓使(1869-1882)のなかごろ(1875年ごろ?)から減少し、一時はほとんどその姿を見ることができなくなっていた。近年はまた少し繁殖し始めている。
アイヌたちは冬期間、カワウソ・タヌキ・キツネ・エゾクロテンを狩猟して毛皮を販売している。エゾユキウサギとネズミ類は農作物に食害をもたらしている。1891(明治24)年、沙流郡でネズミ類が大量発生して野草をほとんど食べ尽くしてしまったことがある。
鳥類では、農作物に被害をもたらすアオジ・ヒワ・スズメ・キジバト・カラス類がいる。また山林内や草原でさえずる野鳥にウグイス・ゴジュウカラ・ヨシキリ・ミソサザイがいる。水面に浮かんでいるのが観察できるのは、カモメ類・ウ類・ガンカモ類・シギ類・セキレイ類。また肉食性のワシ類・タカ類・フクロウ類・トビなどがいる。
爬虫類では、ヘビが生息していて、ときおりマムシが見つかる。
昆虫の種類は多い。1880(明治13)年からの数年間、バッタによる農作物被害が続いたことがあった。
魚類はイワシ・ニシン・サケ・マス・カレイ・タラ・カスベ(エイ)・サメ・オヒョウ・ブリ・キュウリウオ・ハタハタ・カジカ・アイナメ・ソイ・ホウボウ・メヌケ類・鯇(?)・ウグイ・フナ・ウナギ(?)など種類がおびただしい。
軟体動物はタコ・イカ・カニ・ホッキガイ・カラスガイなどが生息している。環形動物のナマコ・ヒトデなどもいる。
クジラやアシカといった海獣類は、近年はまれにしかやってこない。
植物
河畔にアカダモ・ヤチダモ・ハンノキ・サンショウ・ヤナギ・ドロノキ・カツラ・クルミ・ドスナラなどが生え育っている。地表にはハンゴンソウ・フキ・イラクサ・ヨモギ・クサソテツなどが繁茂している。湿原にはとりわけヨシや「ヤチボウズ」が発達している。しかし、開墾の進展につれて、河畔の植生はいちじるしく減少した。
丘陵地帯や高原地帯のうち、海岸に近い地域ではカシワ林が発達している。海から離れるにしたがってミズナラが増えてきて、そのほかサンショウ・アサダ・ハンノキ・ハリギリ・カンバ類が見られるようになる。
トドマツは、日高国西部地域では(海岸から)数里(8~12km)ほど内陸に進まないと見られない。東に向かうにつれ、トドマツの生育域がだんだん海岸に近づいてきて、「冬嶋(ぶよしま)官林」では海岸線からうっそうとしたトドマツ林が発達している。
クリの林は日高国の西部地域にみられ、サンショウの木は日高国のあちこちに生えている。クリとサンショウの2種は、十勝国より東側の地域には生育していない。
丘陵部・高原部では、ササ類・ススキ類・ヤマハギ・ワラビ・カラマツソウなどの草本が多い。山岳地帯にはササ類が繁茂している。
海岸の砂地には、ところどころにハマナスが群生して美しい花を咲かせる。
海中には昆布・ウミツタ(ふのり)・ギンナンソウなどの海藻が生えていて、とりわけ東部地方では盛んに水揚げされている。
各種植物の日高国における成長時期はおおむね以下の通りである。
野草の芽吹き | 4月上旬 |
落葉樹の芽吹き | 5月中旬 |
原野や山林が緑色に変わる | 5月下旬 |
野草が一番成長する | 6月中旬 |
カエデ類が紅葉する | 9月中旬 |
山全体が紅葉する | 10月下旬 |
落葉樹の葉が散る | 11月上旬 |
沿革
(〈いにしえ〉〜1799年(幕府上地))
日高国(ひだかのくに)は、いにしえよりアイヌの部落がたくさんあって、とりわけ沙流川(さるがわ)地方は「蝦夷(えぞ)創造の地」「アイヌの首都」だった場所である。現在もアイヌ世帯数は北海道の島内でもっとも多い。日高国に和人が入り始めたのがいつごろからなのかはよくわからないが、古い記録に「1632(寛永9)年に沙流川の金山が開かれた」との記述が見える。その後、あちらこちらで砂金生産河川が見つかり、採掘を試みる人数は年を追うごとに増えていった。
1668(寛文8)年、染退(しべちゃり)のリーダー、シャムシャインが蜂起し、強大な勢力を率いてルール破りを犯し始めた。地元の金堀りの荘太夫(秋田藩の浪士)という人物がシャムシャインの娘婿となり、「松前藩を攻め滅ぼして蝦夷地の利益をほしいままにしよう」とシャムシャインをそそのかして、反乱を起こさせた。
波恵(はえ)のリーダー、オニビシは、勇気をふるって賢明にもシャムシャインには従わなかった。シャムシャインはオニビシを襲撃して殺害したうえ、谷地のアイヌたちを扇動して、松前から来航する和人業者や和人労働者たち270人あまりを殺害しながら、胆振国(いぶりのくに)の国縫(くんぬい)まで進撃した。
松前泰広(1625-1680、松前藩2代当主)は令旨(りょうじ、皇室からの下達文書)を受けて迎撃し、シャムシャイン軍を破った。さらにシャムシャインを誘い出して殺害した。
この『北海道殖民状況報文 日高国』に〈シャムシャイン〉の名前で登場する人物は、現在の歴史学では「シャクシャイン」と表記されます。また、シャクシャイン戦争の勃発原因に関する同書の説明は、今日では史実とは認められていません。〈シャクシャインの戦いを伝えた近世の記録類には……概して和人の金堀や鷹侍の策略とみるものが存在する。こうした内容の記録は、当時の日本社会側のこのアイヌ民族の蜂起に対する認識のあり方を知るうえで興味深いが、当時のアイヌ社会の状況や、松前藩とアイヌ民族の関係のあり方に目を向けると、こうした見方をそのまま受け入れることは出来ない。〉榎森進『アイヌ民族の歴史』(2008年、草風館)p193
この戦争以降、砂金堀りなどの採掘者の東蝦夷地への入域は禁じられ、日高国各地の鉱山はすべて荒廃した。
日高国でいつごろから漁業が盛んになったのかを知る術はないが、最初に昆布を採取・輸出したのは寛文年間(1661-1672)だという。その位置は、沙流・新冠(にいかっぷ)・染退(しべちゃり)(2カ所に分かれていた)・静内(しずない)・三石(みついし)・浦河(うらかわ)・油駒(あぶらこま)の7カ所、すべて松前藩士の給地(場所)であった。
このうち、染退の2つの場所は、シカ猟が低迷したため、アイヌたちが(互いに)入り会うようになり、最終的には1つの場所になった。
寛政年間(1789-1800)における各場所の支配人名、請負人名、運上金額などは次のとおり。
寛政年間(1789-1800)における各場所概要
場所 | 支配主 | 請負人 | 運上金(両) | 産物 |
沙流 | 小林嘉門 | 阿部屋伝七 | 110 | 昆布、煎りナマコ、タラ、シイタケなど |
新冠 | 工藤平右衛門 | 阿部屋伝七 | 40 | 昆布、煎りナマコ、サケ、シイタケなど |
染退 | 蠣崎久吾/太田伊兵衛 | 阿部屋伝七 | 蠣崎23、太田18 | 昆布、煎りナマコ、など |
静内 | 新井田伊織 | 阿部屋伝七 | 100 | ニシン、昆布、煎りナマコなど |
三石 | 杉村多内 | 阿部屋伝七 | 104 | 昆布、タラ、カスベなど |
浦河 | 北川重次郎 | 阿部屋金兵衛 | 150 | 昆布、タラ、カスベなど |
駒油 | 蠣崎蔵人 | 濱屋久七 | 200 | 昆布、海草類 |
当時(寛政年間、1789-1800)、アイヌは、春は海辺でタラやカスベ(エイ)を釣り、椎茸を採り、夏は昆布を刈り、ナマコを曳き、秋は家に帰って近くの川で食料用のサケを捕り、または出稼ぎでサケ漁に従事し、余裕が出れば「荷物」として出荷していた。冬期は、屋内で漁船・漁網・ロープを製造、あるいは狩猟に出かけた。女性はアツシを織り、キナを編んだ。春から夏にかけては、漁業の合間にアワ・ヒエを栽培したり、山野で山菜を摘んで食料にしていた。かつてはシカが主要な産物だったが、だんだん減少して捕れなくなっている。
1799(寛政11)年正月(西暦では2月5日)、幕府は松前藩に対して、浦河より東部を取り上げて直轄とした。さらに同年8月、直轄地を箱館まで拡大した。幕府は様似ー猿留の山道を開き、様似に等樹院を建立した。幕府は請負人を排除して、漁場を幕府直営とした。染退と静内の2つの場所を合併して静内場所とした。また油駒場所を分割して様似場所・幌泉場所の2つにし、アイヌを〈撫恤(ぶじゅつ いつくしみあわれみ、物をめぐむこと)〉して、産業を奨励した。
(1808-09年ごろの各場所概況)
1807(文化4)年、エトロフ島や利尻島にロシア艦が出現したので、幕府は南部藩に出兵警護を命じ、浦河に兵隊が駐屯した。
1808(文化5)年から1809(文化6)年にかけての調査によれば、各場所の概況は以下のとおりである。
沙流場所
沙流川筋
橋はなく、交通手段は舟渡である。サケの遡上は少ない。アイヌの住民世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
沙流太 | 15世帯 |
平賀 | 25世帯 |
紫雲古津 | 6世帯 |
チェッポナイ | 10世帯 |
荷栄 | 25世帯 |
平取 | 17世帯 |
二風谷 | 11世帯 |
ピパウシ | 10世帯 |
カンカン | 2世帯 |
ペナコリ | 13世帯 |
モピラ | 8世帯 |
ポロケスオマプ | 7世帯 |
幌去 | 7世帯 |
イケウレイ | 6世帯 |
ヌカビラ川筋シケレペ | 5世帯 |
ヌカビラ川筋貫気別 | 8世帯 |
シノタイ
新設の番屋と,義経神社がある。2月中旬から8月中旬まで番人1名が駐在。〈「アイヌ」に附き添ひ出張して漁業をなす〉(未翻訳)
門別
門別川河口の東岸に会所・旅館、板葺きや茅葺きの小さな作業所・宿舎・鍛冶小屋・うまや、それに弁天社がある。かけひ(竹を割ってつないだトイ)を使って水を引いて、飲み水にしている。川筋のアイヌ世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
チサツナイ | 11世帯 |
クッタル | 6世帯 |
波恵(はえ)川・慶能舞(けのまい)川
いずれも板橋が架かっている。
賀張(かばり)
土橋が架かっている。川筋に住むアイヌ世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
賀張 | 18世帯 |
フクモミ
番屋がある。春から夏にかけて〈番人〉が一人駐在している。アイヌに付き添って漁場に出張し、漁業に従事している。
厚別
当場所の境界に位置する。新冠から船に乗って渡る。渡し守は沙流アイヌが務めている。サケの遡上は少ない。川沿いのアイヌ世帯数は、
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
ポンユク | 12世帯 |
ビウ | 4世帯 |
沙流場所の産物は熊胆・熊皮・干しタラ・干しサメ・干しカスベ(エイ)・魚油・煎りナマコ・ワシ羽根・シイタケなど。年間出荷額はおよそ500石。アイヌ人口は236世帯、1013人である。世帯数が多い割に生産物に乏しいため、人々の生活は苦しい。夏は三石場所や浦河場所に出稼ぎをして昆布漁、また、秋は勇払場所や千歳場所でのサケ漁に従事している。
新冠場所
厚別
渡船が整備される以前は、休憩所、出張番屋が建っていた。2月中旬から8月中旬にかけて、監視員一人が駐在している。アイヌに付き添って漁場に出張し、漁業に従事している。川沿いにはアイヌが居住し、世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
タカエサラ | 15世帯 |
ソリハラエ | 10世帯 |
姉去 | 4世帯 |
サトツチヤ | 6世帯 |
アクマフ | 8世帯 |
カツクミ | 4世帯 |
シユネナイ | 8世帯 |
新冠場所に居住するアイヌは71世帯、329人。
会所が漁船2隻を所管しているほか、アイヌの舟が60艘ある。
主な産物は、昆布、煎りナマコ、干しタラ、干しサメ、干しカスベ(エイ)、シイタケ、アツシ、シナのロープ、熊胆、熊皮など。1年間の出荷額はおよそ600石(108.2m3)。
産物に乏しく、人々の生活は豊かとはいえず、夏は静内場所、秋は勇払場所に出稼ぎに出る(人が多い)。
静内場所
染退川沿岸
渡船がある。非常に多くのサケが遡上する。沿岸部のアイヌ世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
シンフツ | 5世帯 |
下方(げぼう) | 7世帯 |
目名太(めなふと) | 2世帯 |
ヘツウトル | 6世帯 |
遠沸(とうふつ) | 5世帯 |
タプコサン | 7世帯 |
碧蘂(るべしべ) | 6世帯 |
市文 | 7世帯 |
フフルエカ | 3世帯 |
幕別(まくんべつ) | 5世帯 |
ノヤチャリ | 9世帯 |
オフシユンケナイ | 2世帯 |
マウタシャフ
アイヌの住居が2世帯ある。
ウセナイ
番屋と休憩所、うまやがある。馬を乗り換える継ぎ立てポイントなので、番人は2人体制。
有良(うら)
アイヌの住居が4世帯ある。
捫別(もんべつ)
アイヌの住居が11世帯ある。橋がなく、渡船で通行する。サケ・マスの遡上は少ない。川筋のアイヌ家屋は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
シトカプ | 4世帯 |
ヌプトロチマナイ | 6世帯 |
チノミ
番屋と、アイヌ住居8世帯が建っている。4月から8月まで、〈番人1名「アイヌ」に差添ひ主張して漁業をなす〉
静内
会所、弁天社、板張りの倉庫、茅葺きの倉庫などが建っている。アイヌの家屋は7世帯。井戸がある。
ラシユツペ
アイヌの家屋が11世帯ある。
チアトシマ
番屋がある。チノミと同様な方法で漁業が行なわれている。
布辻(ブッシ)
新冠からの出稼ぎ番屋がある。夏になると出稼ぎ者が集まってきて、昆布漁が行なわれている。川には土橋がかかっている。サケの遡上は少ない。川沿いにアイヌの家屋が3世帯、建っている。
新冠場所の産物は、ニシン、干しサケ、干しサメ、干しタラ、干しカスベ(エイ)、魚油、昆布、海藻、熊胆、熊皮で、年間出荷額はおよそ2000石である。その他の小魚もたくさん捕れるが、絞って魚肥に加工するほどの量には足りない。アイヌ世帯数は合わせて123世帯、554人である。アイヌの舟が70艘あり、暮らし向きはよい。
三石場所
ペシュトカリ
沙流アイヌの出張番屋がある。昆布漁が行なわれている。
テコシ
番屋がある。4月から7月まで〈番人一名附添ヒ出張シテ「アイヌ」ニ漁業ヲナサシム〉(未翻訳)。
ミツイシ
会所、弁天社、旅館、板張りの倉庫、うまやがある。
三石川筋
渡船である。川沿いのアイヌ世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
辺訪 | 11世帯 |
シャリシャマ | 5世帯 |
イマニチ | 4世帯 |
ルペシュペ | 3世帯 |
ヌプシェ | 10世帯 |
ウラリ
番屋がある。漁業はテコシと同様である。
鳧舞
渡船である。川にサケは多い。川沿いのアイヌ世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
タプコプ | 5世帯 |
モクラウシ | 1世帯 |
ウエンネチ | 4世帯 |
クト | 5世帯 |
ショナイ | 3世帯 |
三石場所のアイヌ住民は合わせて60世帯、271人である。会所所管の漁船3隻、アイヌ舟が43艘ある。産物は干しタラ、干しサケ、干しカスベ(エイ)、干しサメ、煎りナマコ、魚油、ニシン、シイタケ、昆布、熊胆、熊皮。年間出荷額は約1000石である。アイヌの生活は良好である。
浦河場所
オニウシ 三石場所との境界にある。川に土橋が架かっている。上流部に新道が開通した。 イカリウシ 番屋が建っている。毎年4月から8月にかけて、一人の番人がアイヌたちを連れてきて、漁業に従事している。沙流出張番屋もある。昆布漁が行なわれている。 浦河(現在の元浦河) ランチをとれる休憩所がある。渡船。サケが多い。川筋のアイヌ世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
ヌンヘトウ | 4世帯 |
ウェンコタン | 2世帯 |
ヤトリ | 5世帯世帯 |
トウルケシ | 3世帯 |
クナシトママツ | 3世帯 |
姉茶(あねちゃ) | 4世帯 |
イカベツ | 8世帯 |
野深(ぬぷか、のぶか) | 9世帯 |
シリエト
沙流アイヌの出稼ぎ小屋がある。
エブイ
土橋が架かっている。ここからチャシコツまで新道が開通している。
井寒台(いかんたい)
番屋がある。漁業のようすはイカリウシと同様である。
向別(むこうべつ)
渡船である。川筋のアイヌ世帯数は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
シンリトナイ | 9世帯 |
トマリ(現在の浦河)
会所、弁天社、稲荷神社、ホテル、板造りの倉庫、井戸、うまやがある。会所の東北側の畑で野菜を作っている。
ウロコベツ
仮設の板橋が架かっている。新道がある。
チヌミ
仮設の板橋が架かっている。新道がある。
ヘシホケ
(アイヌ)自分稼ぎの小さな家が6軒ある。新道が開通している。
チキサプ
仮設の板橋が架かっている。延長545mの新道を敷設。
シリエンルム
番屋が建っている。漁業はイカリウシと同様の形態。
幌別
渡船。ランチをとれる休憩所がある。サケが多く上る。川筋のアイヌ家屋は
1808〜1809年調査に基づくアイヌ世帯数
マツリシメ | 3世帯 |
ペケレメナ | 8世帯 |
ハラトウ | 4世帯 |
ウトマンベツ
浦河場所と様似場所の境界をどこにするかで長く揉めていたが、1809(文化6)年9月(新暦では9月下旬から11月上旬ごろ)、ここに境界を示す標識を立てた。ただし幌別川までは今後も様似場所に組み込むと決められている。
浦河場所の生産物は干しタラ、干しサメ、干しサケ、煎りナマコ、干しカスベ(エイ)、魚油、昆布、椎茸で、年間出荷額は約700石。アイヌ人口は65世帯374人である。会所が所管する漁船が3隻、またアイヌ舟が41艘ある。サケがたくさん捕れるので、アイヌが食べ物に困ることはない。
(1812年〜1896年のうごき)
上記のように、幕府はこの地方で道路・橋梁を整備して産業化を進め、あらゆる面で世間の評価を一新した。1812(文化9)年、幕府は直轄経営を終了し、再び入札制に基づいて業者に場所経営を請け負わせるようになった。当時の運上金総額は3824両あまりである。うちわけは以下のとおり。
1812年の各「場所」運上金と請負人
場所名 | 運上金(両) | 請負人 |
---|---|---|
沙流 | 330両3分 | 東屋甚右エ門 |
新冠 | 185両 | 濱田屋亀吉 |
静内 | 673両と永50文 | 阿部屋伝次 |
三石 | 489両3分 | 松坂屋文右衛門 |
浦河 | 930両2分 | 萬屋羽右衛門 |
様似 | 430両2分 | 萬屋嘉右衛門 |
幌泉 | 985両 | 嶋屋佐次兵衛 |
地の文では〈三千八百二十四両余〉となっていますが、一覧表の数字の合計は4024.55両で、食い違っています。なお、江戸期の貨幣単位の関係は、小判1枚=1両(りょう)=4分(ぶ)=16朱(しゅ)=永(えい)1000貫文(かんもん)。
この入札の当時、幌泉場所と十勝場所を請け負うことに決まった業者たちが、いずれも「庶野の漁場は自分の場所に含まれる」と想定していたために事態が紛糾したが、1814(文化11)年、「庶野浜(の漁業権)は十勝場所請負人に貸与する。その代わり、(幌泉場所に含まれる)猿留番屋(漁場)は十勝場所請負人に経営を任せ、労働者として十勝在住のアイヌたちを派遣してもらい、その賃金は幌泉場所側が支払う」との合意に達した。
1821(文政4)年、再び松前藩の支配地となる。当時の各場所の運上金と請負人は以下のとおり。
1821年の各「場所」運上金と請負人
場所名 | 請負期間 | 運上金(両) | 請負人 |
---|---|---|---|
沙流 | 文政5(1822)年から6年間 | 200 | 山田屋文右衛門 |
新冠 | 文政2(1819)年から6年間 | 110 | 濱田屋佐次兵衛 |
静内・浦河・様似 | 文政2(1819)年から7年間 | 1048両2分と永100文 | 萬屋専右エ門 |
三石 | 文政2(1819)年から6年間 | 300 | 栖原屋虎五郎 |
幌泉 | 文政2(1819)年から7年間 | 808 | 高田屋金兵衛 |
その後は、幌泉場所の請負人が高田屋金兵衛氏から福嶋屋嘉七氏に変わった以外は、同じ業者が請負を継続している。この福嶋屋は十勝場所の請負業者でもあり、十勝在住のアイヌを毎年100人ぐらいずつ、十勝場所から「借りて」きて、幌泉場所で使役した。そのいっぽう、沙流場所請負人の山田屋文右衛門氏は、沙流のアイヌたちを、やはり同時に自分が請け負っている勇払場所・厚岸場所などへ「出稼ぎせしめ」た。
様似駐在の松前藩官吏は浦河以東(浦河場所・様似場所)を管轄し、三石場所から西側の各場所(三石場所・静内場所・新冠場所・沙流場所)は、勇払場所駐在の官吏の担当だった。
1844(弘化1)年以降、様似場所には警備隊(頭役1騎、徒士(かち)1人、足軽(あしがる)5人、在住足軽25人)が置かれ、百匁砲1門が配備された。また医師一人が置かれた。
この時期、漁業開発が少しずつ進んで、各所に新しい漁場が増設された。シカも盛んに繁殖して、この地域の産物に数えられるようになった。
1855(安政2)年、松前藩支配に代わって、ふたたび幕府直轄になった。それにともない、様似に調役・調役下役・同心(どうしん)・足軽各1人ずつの幕臣が駐在するようになったほか、数カ所に吏員が配置された。
1859(安政6)年、この地域の警備を仙台藩が担当することになった。
東部では、本州島方面からの漁業労働者(和人)が増加し、妻子を伴ってくる人も少なくなかった。
1864(元治1)年、場所請負人に対する運上金が沙流場所で125両、新冠場所で13両、静内・浦河・様似場所で合計2500両、三石場所で535両、幌泉場所で3850両(いずれも年額)とされた。
(1869年、設置さればかりの)開拓使は最初に場所請負制度を廃止し、地域を(国郡に)分割して、それぞれを担当する藩・寺を決めた。うちわけは次の通り。
1869年、開拓使による分割支配
地域 | 担当 | 下賜(旧暦) | 罷免(旧暦) |
---|---|---|---|
沙流郡西部 | 仙台藩 | 1869(明治2)年11月 | 1871(明治4)年8月 |
沙流郡東部 | 彦根藩 | 1869(明治2)年10月 | 1871(明治4)年8月 |
新冠郡 | 徳島藩 | ?(「初め」) | 1871(明治4)年3月 |
新冠郡 | 徳島藩家老・稲田邦植氏 | 1871(明治4)年3月 | 1871(明治4)年8月 |
静内郡 | 増上寺 | 1869(明治2)年8月 | 1870(明治3)年10月 |
静内郡 | 稲田邦植氏 | 1870(明治3)年10月 | 1871(明治4)年8月 |
三石郡 | 開拓使 | 1869(明治2)年8月 | |
幌泉郡 | 開拓使 | 1869(明治2)年8月 | |
浦河郡 | 鹿児島藩 | 1869(明治2)年9月 | 1870(明治3)年10月 |
様似郡 | 鹿児島藩 | 1869(明治2)年9月 | 1870(明治3)年10月 |
このような政策の下で、仙台藩と彦根藩の士民たちが沙流郡に、(徳島藩家老・)稲田邦植氏の家臣たちが静内郡に、肥前(ひぜん=長崎)の人々が浦河郡に、それぞれ送り込まれてきた。
1871(明治4)年8月、日高国各郡はすべて開拓使が管轄することになった。1872(明治5)年9月、浦河支庁を設置したが、1874(明治7)年5月(新暦)にはこの支庁を廃止し、本庁管理に変えた。開拓使は明治12(1879)年7月、三石・浦河・様似・幌泉各郡の郡役所を浦河に設置。また沙流・新冠・静内各郡の郡役所を勇払(胆振国)に設置した。
1881(明治14)年、赤心社が浦河郡内で開墾計画に乗りだし、淡路国(淡路島など)をはじめいくつかの国から入植者が入植してきて、ようやく農業開発が進み出した。
(北海道庁は)1887(明治20)年6月、沙流・新冠・静内各郡の郡役所を浦河に統合。水産税の軽減や、日本昆布会社からの資金貸し付けといった振興策によって漁業開発が進んだ。また農業が毎年著しい発達を遂げた。
1896(明治29)年11月、北海道庁は郡役所を廃止して浦河支庁を設置した。
日高国のそのほかの沿革は、本書後半の各章「来歴」を参照してほしい。
運輸交通
(未翻訳)
戸口
移住
日高国は、昔からアイヌ民族が各地に集落をつくって住んでいるほかは、場所請負人が毎年交替で現地に派遣する番人やその他のスタッフたちが冬を越すていどだった。幌泉地方では、なかでも早い時期から「入り稼ぎ」の和人がみられたが、夏から秋にかけて滞在するだけで、和人の永住者は皆無だった。
寛政(1789-1800年)~文化(1804-1817年)のころに、東部地域で和人「入り稼ぎ」の人数が少しずつ増え始め、そのうちの一人で和助という人物が幌満別(ほろまんべつ)に住みついて、幕府から15町歩(15ha)の土地を与えられたが、1821(文政4)年、松前藩が復領すると、松前藩は和助氏の土地を没収し、和助氏を追放したという。
安政(1854年)以降、幕府が蝦夷地を再び直轄するようになると、各場所に数人ずつの和人が住み始めたが、実際に永住した人はほとんどいなかった。
開拓使支配時代の初期、1870(明治3)年~1871(明治4)年ごろの入植者は次の通り。
1870〜1871年ごろの入植者数
出身地 | 人数 | 入植先 | 備考 |
---|---|---|---|
仙台藩士民 | 300 | 沙流郡 | |
彦根藩士民 | 140 | 沙流郡 | |
稲田邦植氏家臣 | 548 | 静内郡 | |
肥後国天草と肥前国彼杵(そのぎ)の農民 | 167 | 浦河郡西舎、杵臼 | 45戸。開拓使の差配 |
南部/津軽の漁民 | 幌泉郡 | 300戸。開拓使の差配 |
しかし、当時は「開拓の機運」がまだ熟してはいなかった。稲田氏の家臣たちと、天草・彼杵出身者たちとを除いて、やがてほとんどの入植者たちは離散してしまった。その後も、新たな入植者がいないわけではなかったが、「集団移住」と呼べるものではなかった。
1881(明治14)年以降、赤心社に参加した備後・讃岐などの農民たちが浦河に入植。
1884(明治17)年、淡路国からの農民たちが静内郡碧蘂村に入植。これ以降、淡路国出身者たちはこの地方で最多、かつ最も広範に入植を果たすことになる。また越前国出身者たちが静内・三石・浦河・様似各郡に、但馬国出身者たちが浦河郡近辺に入植。陸前・陸中・陸奥・越後・安芸・阿波各国出身者たちもそれぞれあちこちに入植してきた。
1897(明治30)年、加賀国の開拓団が沙流郡慶能舞村に入植。
近年では、農業に適した場所はおおむね私有地か貸し付け地になってしまい、新たに開墾できる場所はもう尽きかけている。そのせいで入植者の増加率は他国に比べると低いが、それでも毎年戸数は増加している。
アイヌ 日高国は「アイヌ創業の地」と呼ばれていて、北海道各国の中で最もアイヌ人口の多い国である。また、比較的大きなアイヌ集落が多い。ひとつ不思議なのは、本道のアイヌは和人との競争にさらされて「劣敗」し、だんだん戸数が減っているというのに、日高国のアイヌだけは反対で、ますます人口が増えていることである。過去の人口調査の結果を以下に示す。
1808〜1897年の日高国アイヌ人口の推移
世帯数 | 男性(人) | 女性(人) | 男+女(人) | 出典 | |
---|---|---|---|---|---|
1808(文化5)年−文化6年 | 613 | 1400 | 1461 | 2861 | 東夷竊々夜話 |
1822(文政5)年 | 610 | 1434 | 1516 | 2950 | 蝦夷雑書 |
1854(安政1)年 | 612 | 1525 | 1535 | 3060 | 安政元年巡検記 |
1877(明治10)年 | 1107 | 2573 | 2737 | 5310 | 開拓使調べ |
1897(明治30)年 | 1228 | 2987 | 3339 | 6326 | 北海道庁調べ |
原文の〈文化五、六年〉の行、〈人口〉セルの数値は〈二八六〇〉ですが、ここでは男女の合計数2861人と記載しました。
こんにちでさえ、アイヌの戸口調査は正確ではないことがままある。30~100年近くも昔の調査が正確性を欠いていて、それが統計上の間違いにつながっていたとしてもおかしくはない。とはいうものの、日高国のアイヌ人口は実際に多い。かつてこの地域のアイヌが、よその地域に比べれば、場所請負人の虐待・酷使を免れていたこと、和人の入植が本格化してからも「劣敗の度」が低かったこと、比較的早期から和人と接触してきて和風の生活に多少は慣れていたこと、ふだん内陸部に集落をつくって暮らしているため伝染病や自然災害のリスクが小さいこと、といった要因が人口増加をもたらしているのだろう。その証拠に、同じ日高国内でも、早期から漁業開発が進みアイヌ人口の少なかった幌泉郡では、1806(文化3)年に45戸177人だったアイヌ戸数・人口は、1854(安政1)年には38戸102人、1897(明治30)年にはわずか7戸20人まで減少してしまった。日高国のほかの郡とは正反対である。
〈純粋種〉のアイヌに対して、アイヌと和人との間に生まれた〈雑種〉の割合は、日高国では現在でも10~20%にとどまっていて、他の国のような高い比率ではない。他国のように、アイヌ民族の勢力が低下・消失するようなことは、日高国のアイヌ民族にはみられない。
原文は〈「アイヌ」ト和人トノ間ニ生セシ雑種ノ純粋種ニ対スル比例ハ現今僅ニ一割乃至二割ニシテ他ノ諸國ノ如ク甚タシカラズ亦以テ当國「アイヌ」ノ勢力未タ他國ノ「アイヌ」ノ如ク甚タシク凋零セサルヲ知ルニ足レリ〉。この『北海道殖民状況報文』は全編にわたって、執筆者(当時の北海道庁殖民部員)の人種主義(人種差別主義、レイシズム)がみてとれます。〈「人種の混淆(こんこう)」に賛成であれ反対であれ、基本にあるのは人種を指標にする姿勢である。結局は人種をめぐる思考が表象のシステムを支配し続けている〉(平賀千果子『人種主義の歴史』p160、2022年、岩波新書)。(平田剛士)
現在の戸口と分布
1897(明治30)年末の調査によれば、日高国の現在人口は2万1500人あまりで、北海道全人口の28/1000である。郡ごとの人口は以下のとおり。
1897(明治30)年末現在の日高国人口
本籍人 | 出寄留人 | 入寄留人 | 現在人口 | 現在世帯数 | |
---|---|---|---|---|---|
沙流郡 | 3259 | 361 | 153 | 3051 | 620 |
新冠郡 | 890 | 8 | 121 | 1003 | 195 |
静内郡 | 3478 | 292 | 390 | 3576 | 704 |
三石郡 | 2118 | 97 | 547 | 2568 | 539 |
浦河郡 | 4675 | 356 | 2222 | 6541 | 1202 |
様似郡 | 1374 | 168 | 352 | 1558 | 343 |
幌泉郡 | 2296 | 210 | 1172 | 3258 | 570 |
合計 | 18090 | 1492 | 4957 | 21555 | 4173 |
合計数のうち、アイヌ人口は前述したとおり6326人で、本籍人口の35%弱、現人口の29%強を占めている。このようにアイヌ人口の占める割合の高い国はほかにはない。
かつてアイヌは、川沿いでも水害の心配のない高台に居住していた。集落ごと移転する場合もあったが、河川沿岸の原野を離れて住むことはなかった。いっぽう、漁業を目的にして住み始めた和人たちは最初から海岸沿いに住居を建て、農業入植者たちは河川両岸の平地を選んで住み始めた。その結果、現在では漁業・農業に適した場所はすべて村落が形成され、鶏や犬の鳴き声を聞かない場所はもう残っていない。
とりわけ西部地域は川沿いの土壌が肥えていて住民が多く、特に沙流川河畔では、河口部から10里(39km)以上さかのぼったところまで村落が点在している。それに比べると東部地域は沃野が少ないかわりに海の漁場が豊かなので、人家は海岸部に多い。とくに幌泉郡では、全員が海辺に住んでいるといっても過言ではない。
このように、河畔・海岸のあちこちに集落が散らばっているので、市場の数も少なくはない。しかし大きな町はひとつもなく、浦河村をはじめ門別村・下下方村・姨布村・様似村・幌泉村の市街地戸数は数十~300戸程度にすぎない。
日高国の国民を出身地によって〈区別〉してみると、「アイヌ」と、淡路国(あわじのくに、21世紀の兵庫県淡路島・沼島)出身の移民が最も多い。ついで、陸中国(りくちゅうのくに、同じく岩手県とほぼ同じエリア)。陸奥国(りくおうのくに/むつのくに、同じく青森県とほぼ同じエリア)、越中国(えっちゅうのくに、同じく富山県と同じエリア)出身者が多い。このほか、奥州(おうしゅう)地方や北陸道〈諸州〉、讃岐国(さぬきのくに、同じく香川県と同じエリア)、阿波国(あわのくに、同じく徳島県と同じエリア)、安芸国(あきのくに、同じく広島県西部エリア)、但馬国(たじまのくに、同じく兵庫県北部エリア)からの移民たちが入り交じっている。出身地ごとに。とくにたくさん集まって暮らしている地域は以下の通り。
出身地ごとに集まって暮らしている住民たち(日高国、1897年ごろ)
郡 | 居住地 | 〈著シキ住民〉 |
---|---|---|
沙流郡 | 沙流川沿岸 | アイヌ、陸前・淡路からの移民 |
門別川沿岸 | 〈原野〉にはアイヌ、淡路からの移民。市街地には近江・越後・越中からの移民 | |
波恵川沿岸 | 越後・越中からの移民 | |
慶能舞川沿岸 | 加賀からの移民 | |
賀張川沿岸 | 淡路からの移民 | |
沙流郡/新冠郡 | 厚別川沿岸 | アイヌ、淡路・越中からの移民 |
新冠郡 | 新冠川沿岸 | アイヌ、淡路・安芸からの移民 |
静内郡 | 染退川沿岸 | 淡路からの移民、アイヌ |
捫別川沿岸 | アイヌ、淡路からの移民 | |
静内郡/三石郡 | 布辻川沿岸 | アイヌ、安芸・但馬からの移民 |
三石郡 | 三石川沿岸 | 淡路・陸中からの移民、アイヌ |
鳧舞川沿岸 | 越前・淡路からの移民、アイヌ | |
浦河郡 | 元浦川沿岸 | アイヌ、越前・但馬からの移民 |
海岸一帯 | 陸中・陸奥・但馬からの移民 | |
幌別川沿岸 | アイヌ、肥前・肥後・阿波・安芸から移民 | |
様似郡 | 海岸地方 | 陸中・陸奥からの移民 |
様似川沿岸 | アイヌ、越前・越中からの移民 | |
幌泉郡 | 海岸一帯 | 陸中・陸奥・羽後からの移民 |
郡・村・官衛
郡と村
1869(明治2)年、「日高国」が設定された。「日高」の名称は、想像の域を出ないが、武内宿禰(たけしうちのすくね)の「奏議」に〈東夷日高見国〉と書かれていることにちなんで採用した、と言われている。
日高国は沙流郡・新冠郡・静内郡・三石郡・浦河郡・様似郡・幌泉郡の7つの郡に分割されている。各郡エリアの境界は、従来の請負場所の境界に準じて決められた。アイヌの集落がある地区では、アイヌ語の地名がそのまま村名に採用された。したがって、2~3世帯からなる小さな集落の名称が村の名前になったケースも多かった。
1871(明治4)年以降、稲田氏の家臣と肥後国天草郡・肥前国彼杵郡からの入植者たちが移住してきて、静内郡内に下下方村・中下方村・上下方村・目名村が、浦河郡内に西舎村・杵臼村が、それぞれ新設された。
また、アイヌの移住によって自然に廃村となったところもある。
原文は〈……又「アイヌ」ノ転住ニヨリテ自然ニ廃村トナレルモノアリテ……〉。この〈「アイヌ」ノ転住〉の背景には、急増する和人移入者から逃れるための「後退」があったと考えられます。また、政府が「旧土人救済」の名目で実施した勧農政策(1885年)も、各地のアイヌに集団移転を強いたケースがいくつも確認されています。〈自然ニ廃村〉という表現は、そうした経緯を覆い隠してしまいます。(平田剛士)
1873(明治6)年12月の調査では次の村々が残っている。
1873(明治6)年12月現在の日高国の村名
1882(明治15)年2月、次のように村々の整理が行なわれた。 浦河郡 井寒台村(いかんたいむら)と幌別村(ほろべつむら)を新設。 開深村(ひらきぶかむら)に浦河村の一部を合わせて後辺戸村(しりへどむら)にした。 茅實村(ちのみむら)・宜保村・鱗別村(うろこべつむら)を浦河村に吸収合併した。 踏牛村(ふみにうしむら)を後鞆村(しりへともむら)に吸収合併した。 問民村を荻伏村に吸収合併した。 野深村(のふかむら)・居壁村(おるかべむら)と、姉茶村(あねちゃむら)の一部を合併して野深村にした。 姉茶村の一部と透消村(とおるけしむら)を合併して姉茶村にした。 遠佛村(とうぶつむら)と可礼村(べけれむら)を合併して西舎村(にしちゃむら)にした。 原遠村(はらとうむら)と富菜村(とめなむら)を合併して杵臼村(きねうすむら)にした。 三石郡 神古潭村(かむいこたんむら)を邊訪村(へぼうむら)に吸収合併した。 延出村(のぶしゅつむら)を幌毛村(ほろけむら)に吸収合併した。 様似郡 傍平村(そうぴらむら)・海邊村(うたうんべつむら)・桐橿村(きりいかしむら)を様似村(さまにむら)に合併した。 門別村(もんべつむら)・染近村(しみちかむら)・白里村(しらりやむら)・核蘂村(さぬしべつむら)を平鵜村(ぴらうとむら)に合併した。 逢牛村(あいにうしむら)・纍地村・去魔村を冬嶋村(ぶよしまむら)に合併した。 島郡村を幌満村(ほろまんむら)に合併した。 もっか(1898(明治31)年現在)、日高国全体に79の村がある。面積はどの村も狭いので、たくさんの人が住めるわけではない。今後も大いに合併を進める必要があると考えられる。