1899年の沙流郡 さるぐん
地理
沙流郡は日高国の西端に位置している。北西部は低山に隔てられて胆振国勇払郡、また石狩国空知郡に接している。東側は日高山脈を挟んで十勝国の河西郡と上川郡、また厚別川を境界線にして日高国新冠郡と隣り合っている。南側は太平洋に面している。縦に16里18町(64.8km)、幅は16里11町(64.0km)。面積は114方里(1758km2)。海岸線の長さは6里16町(25.3km)ある。
十勝国との境界付近にはメムオロ岳・ビバイロ岳・トツタベツ岳などがそびえ、なかでも標高6656尺(2016.8m)のビバイロ岳は日高国の最高峰である。この日高山脈の支脈が沙流郡内に入り込んで、少しずつ高度を下げて、丘陵・高原をかたちづくっている。
沙流川は日高山脈から流れ出て、大きくカーブを描きながら南の方向に流れ、ニセウ川・ヌカピラ川そのほかの渓流を合わせて、佐瑠太村から海に注いでいる。沙流川は長さ28里20町(112.2km)の日高国最長河川である。その支流であるヌカピラ川は、トツタベツ岳に源流を持ち、西の方角に流れて貫気別川を合わせ、荷負村で沙流川に左岸から合流している。
厚別川の源流は、沙流郡と新冠郡の境界付近の山で、南に流れて厚別村から海に注いでいる。厚別川はこれら両郡の境界と一致している。
門別川は貫気別山脈が源流で、門別湾に注いでいる。
そのほか、波恵川、慶能舞川、賀張川などが、それぞれ南に向かって流れて海岸に達している。
沙流郡は、山岳あるいは丘陵が連なっていて、広い平原は見当たらないが、それぞれの川沿いに平地がある。なかでも沙流川沿いは内陸部まで平野が長く続いていて、海辺から40~50kmのところまで村落が点在している。
沿岸部は狭い砂浜があるだけで、河口部を除けば、どこも海辺まで丘陵が迫っている。
標高の高いエリアでは、カシワ・ハンノキ・ナラの3種の樹木が優占している。それに対して河岸部はアカダモ・ヤチダモ・カツラ・ハンノキなどがみられる。海岸から10kmほど内陸に入ると針葉樹が見られるようになるのだが、沙流川の流域では、二風谷村あたりで初めて少しずつ針葉樹が現れ出す。針葉樹の良材を切り出すには、40~50kmほどの山奥に入っていく必要がある。
6里(23.6km)あまり続く沿岸部のうち、船舶が停泊可能な港は、門別港しかない。ここも安全な港とは言えないのだが、函館と結ぶ定期帆船が毎月入港し、沙流郡全体の物資がここを経由して出たり入ったりしている。なお、海が穏やかなときは、門別以外の村でも船を沖に停泊させて貨物を運搬することは可能である。
1893(明治26)年、苫小牧から門別村までの新しい国道が開通したので、この区間の運輸は容易になった。しかし門別村から東側は、車(馬車)が通れる道はまだない。海沿いの国道から分岐して内陸の原野に入る道は、少しずつ改修されているものの未完である。沙流川は勾配がきついため、丸木舟をつかって行き来できるのは河口から数里(8~12km)ていどである。
郡内は11(18?)の村に分かれている。①佐瑠太(さるふと)、②富仁家(とにか)、③平賀(ひらが)、④荷菜摘(になつみ)、⑤紫雲古津(しうんこつ)、⑥荷菜(にな)、⑦平取(びらとり)、⑧二風谷(にぶたに)、⑨荷負(におい)、⑩貫気別(ぬきべつ)、⑪長知内(おさちない)、⑫幌去(ほろさる)の11(12?)村は沙流川流域に位置する。⑬門別(もんべつ)、⑭波恵(はえ)、⑮慶能舞(けのまい)、⑯賀張(かばり)の4村は、それぞれ同じ名前の河川両岸をまたいでいる。⑰厚別(あつべつ)、⑱菜実(なのみ)の2村はいずれも厚別川の右岸に位置している。
沿革
沙流郡は「アイヌ創業の地」であり、あちこちにアイヌの集落がある。この地方最高位の総長は平取村に住んでいたという。松前藩が支配していた時代は「沙流場所」と呼ばれ、家臣の松前嘉門氏の菜邑(さいゆう、知行地・領地)に属して、寛政時代(1789~1800年)の初期には阿部屋伝七氏が請負業者になった。1799(寛政11)年に幕府直営に変わると東屋甚右衛門氏が請負うようになり、1822(文政5)年からは山田文右衛門氏がそれに代わった。以前から水揚げはそれほど多くなかったため、地元のアイヌは勇払場所などあちこち地方に出稼ぎにいっていた。1869(明治2)年、仙台藩と彦根藩が運営を任され、仙台藩は佐瑠太・門別などに、また彦根藩は波恵・慶能舞などに藩の士族を移住させて開墾を進めようとした。さらに直営で漁業経営も始めたが、1871(明治4)年に両藩への分領が終わると、移民たちは少しずつよそに移ってしまって、この地域に残る人は少なかった。
1872(明治5)年9月、沙流郡は浦河支庁の所轄になり、門別村に出張所が設置された。1874(明治7)年5月、浦河支庁から札幌本庁へと所管替えされ、沙流出張所が置かれた。1875(明治8)年2月、出張所を静内郡に移設。明治12年7月、勇払郡役所を苫小牧に設置。1880(明治13)年3月、沙流郡各村の戸長役場を佐瑠太村に新設。このころからまた少しずつ移住者が増加し始める。
1885(明治18)年からの数年間、アイヌに対する国の農業指導が行なわれた。そのさい、いくつかの村ではアイヌ集落を移動させた。
〈官「アイヌ」ニ農業ヲ教授ス〉(『北海道殖民状況報文 日高國』p75)、つまり日本政府事業によるアイヌ民族への農業指導にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています(たとえば小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』p56)。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
1887(明治20)年5月、佐瑠太村に警察分署設置。同年6月、浦河村に郡役所設置。1889(明治22)年、戸長役場と警察分署を門別村に移設。このころから移住者は年々増加し、はじめは沙流川沿岸、続いて厚別川・門別川の沿岸、さらに慶能舞・波恵・賀張村などで農民の姿が見られるようになった。1898(明治31)年9月現在の沙流郡人口は910戸、3822人である。
重要産物
海産物はイワシとサケを中心に、昆布、カレイ、タラなどだが、出荷額は非常に低い。主要農産物は大豆と小豆。その他の作物は地元で消費されている。馬や牛にもよいものがある。
1897(明治30)年の海産物生産量 | ||
イワシ搾り粕 | 2602石 | 469m3 |
塩サケ | 210石 | 37.9m3 |
魚油 | 260石 | 46.9m3 |
1897(明治30)年の農産物生産量 | ||
大豆 | 1062石 | 191.6m3 |
小豆 | 2353石 | 424.5m3 |
概況
沙流郡の中央に位置するのは門別村である。商家が多く、貨物の集積地になっている。門別村以外はすべて農村で、佐瑠太村・厚別村の2村には、わずかに商家がある。イワシがとれるほかはめぼしい漁業がなく、専業の漁業者はほとんどいないと言ってよい。
沙流川沿いの10数里(40~50km)にわたって、アイヌの集落がいくつも点在している。門別川や厚別川沿いに入植した和人は、それぞれ原野に散らばって住んでいる。
1897(明治30)年末現在の開墾面積は、全郡あわせて1425町歩(1423ha)とされるが、実際は2000町歩(1983ha)ほどある。恵那村と慶能舞村などの新しい原野開墾地への入植者を除き、ほとんどの人が馬耕を多用して、1戸あたり20~45町歩(19.8~44.6ha)の農地で作付けしている。一番多い作物は小豆、続いて大豆である。たいていの人たちが地元の商家から「仕込み」を受けているが、1898(明治31)年のよように大水害が起きたりすると、困窮してしまう場合も少なくない。
1885(明治18)年から数年間にわたって、「授産」のためにアイヌに対する農業指導を行ない、アイヌも農業で生計を立てるようになった。とはいえ、5~6町歩(5~6ha)の耕作者はわずかで、たいていの人は4~5反(0.4~0.5ha)から2町歩(2ha)の面積でヒエやアワをつくって食用とし、そのかたわらで大豆・小豆を収穫して出荷・販売しているに過ぎない。アイヌは、春期は食用にタラやカスベ(エイ)を釣り、夏は漁場に出稼ぎ、冬期は狩猟をして生計を立てている。
1898(明治31)年9月の洪水は未曾有の惨害をもたらし、溺死者29人、溺死した家畜98頭、流出家屋68棟、流出納屋50棟、水没家屋143棟、水没納屋81棟を数え、1840町(1825ha)あまりの畑が被害を受けた。被害者は生活の道を失って一時はほとんど死んだようになったが、救助や援助食料の貸与などを受けてようやく安心が広がった。しかし、この水害によって農業の発達が一時的に阻害されたほか、氾濫した沙流川・厚別川の沿岸部が荒廃して、元通りに回復させるめどの立たない地区も少なくない。近くに移転・開墾できそうな場所は少なく、特にアイヌは今後、いっそう困窮に陥るのではと危惧されている。
沙流郡内の丘陵部は牧畜に適していて、馬産地としてつとに有名である。アイヌでそこそこの資産を持っている人はみんな、馬の販売で利益を挙げている人たちである。ただし、最近は放牧に適した場所はだんだん減っていて、馬の飼育も難しくなりつつある。いま有名なのは、岩根静一氏が経営する恵那牧場、また次ぎに大きいのが、貫気別村の八田牧場である。そのほかは、牧場と呼べるようなところはほとんどなく、飼育方法も粗放である。1897(明治30)年末の調査によれば、沙流郡内の飼育頭数は馬が2227頭、牛が181頭である。
沙流郡内のアイヌは、他地域のアイヌの比べれば少しはましな状態と言えるが、生活の程度は非常に低い。文化も鄙陋(ひろう、いなかじみていやしいこと)で、和人の悪習ばかりをまねして狡猾(こうかつ、ずるがしこいこと)になり、徳義(倫理や正義)の気持ちは非常に希薄だし、勤倹貯蓄(仕事熱心・倹約・将来設計)の思慮も持ち合わせないのは、嘆かわしいことである。中には、資産を持ち、衣食住すべてにおいて和風化して、和人に劣らず農業を続けているアイヌもいないではないが、智徳(知識と道徳心)のどちらも乏しいので、前途は非常に危ういといわざるを得ない。
アイヌに対するこうした人種差別的な表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。(平田剛士)
門別村に戸長役場が設置されている。
各町村の公共事業は、教育費を除き、すべての事業費を合算して運営している。
学校配置のある村は以下のとおり。
佐瑠太村(佐瑠太村・平賀村・荷菜摘村・紫雲古津村の4村組合)
平取村・二風谷村(荷菜村・平取村・二風谷村・荷負村・貫気別村・長知内村・幌去村の7村連帯)
門別村(門別村・波恵村の2村組合)
厚別村(賀張村・慶能舞村・厚別村の3村連合)
医療は、郡内全村総合で村医1名が門別村に配置されているだけである。
郡域が広いため、整備はまだ完全には整っていない。門別村設置の戸長役場とは別に、沙流川流域にも戸長役場・郵便局・村医などを配置する必要があると思われる。
1899年の佐瑠太村 さるふとむら
地理
西方は胆振国勇払郡鵡川村に、東方は門別村と富仁家(とにか)村、北方は平賀村に接し、南側は海に面している。沙流川下流に位置し、東西には丘陵がある。沙流川は平賀村から流れてきて、村の中央を貫いた後に海に注いでいる。河口は幅70間(127m)。佐瑠太の元の名前はサロペツブトで、「カヤがたくさん生えている河口」という意味である。
海岸の砂丘地帯を除くと、沙流川両岸の平地はおおむね地味豊かで、農業に適している。ただし水害が多いのが唯一の不安材料である。丘陵部は火山灰に覆われていてカシワ林が発達し、地味は痩せているが、勾配はごく緩やかなので牧畜は可能である。
運輸交通
国道が通っているので、馬車の通行が可能である。西の苫小牧停車場からは10里30町(42.6km)、東の門別村までは1里(3.9km)。函館から海路運ばれてくる貨物は、いったん門別港に荷揚げされてから、陸路で佐瑠太村に輸送される。秋の穀類輸出の最盛期には、特別に帆船を(沙流川河口部につけて)利用する場合もある。門別村までの馬車運賃は14銭、苫小牧までの送料は穀類1石(180リットル)当たり1円前後である。
沿革
仙台藩支配時代はここ佐瑠太(沙流川河口部)が拠点とされた。当時は藩士数十戸が移住してきて開拓にあたった。仙台藩が撤退すると、これらの入植者の中には帰国したりよその場所に移ったりする人もいて人口が減ってしまったが、沙流郡内ナンバーワンの要所には変わりなく、1877(明治10)年には佐瑠太郵便局が設置された。その後も、沙流郡の各村戸長役場と警察分署が佐瑠太村に設置されている。1887(明治20)年ごろ、淡路国からの集団入植者らが農業開拓を開始し、ようやく発展が見られるようになる。1889(明治22)年、戸長役場と警察分署を門別村に移設。1891(明治24)年、郵便局を門別村に移設。門別村はこの措置によっていっぺんに繁栄したのだが、いっぽうの佐瑠太村はトップの座を奪われてしまった。とはいえ、年を追うごとに農業が発展して、徐々に人口も増えつつある。
戸口
1898(明治31)年9月現在の人口は、183戸、722人である。入植者の出身地は人口の多い順に兵庫県・宮城県・新潟県である。アイヌは14戸、59人である。旧仙台藩からの移民で現在も居住している人たちは14戸である。
集落
佐瑠太駅は、沙流川の東側、海岸から6~7町(655~763m)ほどのところに設置されている。戸数は40戸あまりで、馬の乗り継ぎ所、巡査駐在所、佐瑠太尋常小学校、ホテル、衣料・雑貨店、鍛冶屋、醸造所、小売店などがある。1898(明治31)年の大洪水では人・家畜・家屋に甚大な被害が出た。住民たちは「ここにはもう住み続けられない」と高台への移転を希望し、すでに宅地としての区画も始まったが、堤防の修復工事が終わって、元の場所で安心して暮らしている人も多い。
農家は原野に散居している。アイヌたちは沙流川西岸の丘陵部、字ピタルバに居住している。
漁業
漁業は低調で、以前からイワシ漁場が1カ所しかなかった。サケの曳き網漁場が2カ所あるが、ほとんど営業していない。昆布漁も同様である。
農業
1870(明治3)年、仙台藩が(仙台出身の)入植者たちに補助金を出して農業開発を促した。1872(明治5)年、開拓使が永住者を対象に1戸あたり馬1頭ずつを「下付」、また3年分の食料を「扶助」した。また、村民の中から生徒を選抜して札幌に留学させ、馬を使った耕作の技術を教えようとした。ところが当地では農業はなかなか軌道に乗らず、せいぜい自家用の穀類・野菜類をつくる程度にとどまっていた。だが1887(明治20)年ごろ、新たな入植者が増え始め、お互いに競い合うようにして馬耕に精を出し始めると、様相ががらりと変わった。現在では沙流川沿いの平地はすべて開墾され、一般的な農家で1戸あたり5~6町(5~6ha)の畑を耕作するようになっていた。ところが1898(明治31)年に洪水が起きて240町(240ha)あまりの農地がことごとく被災し、このうち20%は復元を見込めないほどの打撃を受けて荒廃してしまった。水害を免れたのは高台の50町歩(50ha)ほどの畑だけである。
作物は多い順に小豆、大豆である。平年の1反(10a)当たりの収穫量は小豆で5斗(90リットル) から1石5斗(271リットル)ほど。ほかにハダカキビ、ソバキビ、オオキビ、トウモロコシ、アワなどを自家消費用に作付けている。
小作料は1反(10a)あたり50銭から1円50銭。
牧畜
村全体で600頭余りの馬を、計30人のオーナーが所有している。なかでも高橋栄吉氏は100頭あまり、■■トンケウク氏は90頭、■■エフレンカ氏、■■ウレユパウク氏はそれぞれ60頭余りを所有している。ただ、牧場はなく、適当に野山に放牧しているだけで、良い馬を生産しようと熱心に取り組んでいる人はいない。
製造業
冶金工房が2軒あり、数年前からは西洋式農具の生産を始めている。年間の製造台数は、プラオ17~18台、ハロー10台である。2頭引きの再墾用プラオで1台7円、ハローは1台6円50銭、アイカキが1円50銭である。醸造所が1軒あるが、水害を被ったため現在は休業している。
商業
仙台藩支配時代は、山田文右衛門氏に商品供給を委託していた。その後は、2~3の商店が営業している。需要のある物資のほとんどは札幌で仕入れて苫小牧経由で陸送していたが、5~6年前から函館の業者との取引が始まり、現在では函館からの船便が門別港に入って、そこから佐瑠太村に荷が送られてくる。ただ、地元の商いはわずかで、衣料・日用品の販売店は2軒しかない。農家の大半は門別村の商店を通して仕込みを受けている。
木材薪炭
標高の高いところには広葉樹が多く生えている。薪炭材はすべて貸し付け地で伐採されている。現在のところ、薪1敷あたり60銭、木炭1俵(6貫目=22.5kg)あたり10~25銭。
トドマツは幌去村の奥地から搬出し、100石(18m3)あたりの売価は120~130円。一般的な建築物には雑木材を使用している。
風俗、人情、生計
佐瑠太駅の近く、また国道沿いの家屋は板張りで、住民に士族出身者も少なくないので、風俗も野卑ではないし、住民感情も穏やかである。村民の70%は農業者、30%が商業やそのほかの業種に就いていて、余裕のある家は少ないけれども、ひどく困窮している人もいない。1898(明治31)年の水害は甚大な被害を引き起こし、この地を去る人もいたが、少しずつ復興していくだろう。
アイヌは文化的に非常に遅れている。そんななか、■■ウレユパウク氏は例外的に資産家で、日高国内のアイヌの中でも一番の事業家と名高い。
原文は〈「アイヌ」ハ風習大ニ劣レトモ【トモは合略仮名、U+2A708】■■ウレユパウクハ資産アリテ当国「アイヌ」中第一ノ事業家ト称セラル〉。アイヌに対するこうした人種差別表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。(平田剛士)
教育
1873(明治6)年、旧官舎を改修して佐瑠太教育所と名づけ、生徒に学習機会を提供した。1879(明治12)年9月、佐瑠太小学校と改称。1898(明治31)年の水害で校舎が流失したため、現在は民家を借りて授業を続けている。生徒数は、洪水以前と比べると半減し、40名ほどであるが、近いうちに元通りに戻るだろう。アイヌの就学生が3人いて、字ピダルパから通学している。
衛生
毎年、発熱を繰り返す病気にかかる人がいる。飲み水はほとんどが井戸水で、水質はよい。
神社
村社の大神宮があり、天照大神が祭られている。1876(明治9)年建立。
1899年の富仁家村 とにかむら
地理
北方は佐瑠太村に接し、南側は海に面している。沙流川の東岸に位置する小さな村で、境界ははっきりしない。村の名はアイヌ語の「トンニカラプ」(ナラを切る場所)に由来する。
概況
アイヌの集落があったが、全戸が佐瑠太村のピダルパに転居して、現在はアイヌは一人も住んでいない。数戸の農家がとどまって耕作をしているだけである。
1899年の平賀村 ひらがむら
地理
南方は佐瑠太村、西方は胆振国勇払郡、東方は門別村、北方は荷菜摘村と境界を接している。沙流川の東西両岸に跨がっていて、西岸地区に肥沃な低地があるのに対し、東岸は川岸ぎりぎりまで丘陵部が迫っていて、耕作適地はない。
気候
川の東側と西側とで、霜の降り方に違いがある。西岸地区では毎年10月上旬~中旬ごろに霜が降りるが、東岸はそれより4~5日早く霜が来る。西岸地区では、丘陵が西北からの風を遮ってくれるせいだろう。積雪深は7寸(21cm)から1尺4寸(42cm)程度という。
運輸交通
佐瑠太村まで1里(3.9km)ほどの道のりはフラットで、馬も馬車も問題なく通行できる。
沿革
古来、川の東岸にアイヌの集落があった。1870(明治3)年、仙台藩出身の互野留作氏という入植者が初めてこの場所に住みついて農業を始めた。1886(明治19)年、アイヌ「授産」事業に合わせて、東岸集落のアイヌを西岸に集団移住させた。
この「授産事業」は、札幌県旧土人救済方法(1885(明治18)年)を根拠に実施されました。「授産」「農業指導」などの名目にかこつけて、地元在住のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させる政策は、こんにちでは、先住民族の権利を無視した「強制移住」とみなされて、批判的に評価されています。(平田剛士)
1887(明治20)年、有珠郡(うすぐん)紋鼈村(もんべつむら)から小林善助氏が移住してきて、開墾を開始した。1890(明治23)年以降は、淡路国出身の入植者たちが住み始め、互野氏・小林氏の農場の小作人となって、ようやく本格的な開墾が行なわれるようになった。
戸口と集落
1898(明治31)年9月現在の戸数は51、人口は228人である。うちアイヌは32戸、144人。和人の出身地別で最も多いのは淡路国の人たち。全員が沙流川西岸の平野部に散らばって住んでいる。アイヌはやや固まって暮らしている。
農業
小林善助氏が開墾した面積は約100町歩(100ha)あり、小作8戸を使っている。互野留作氏は約30町歩(30ha)、小作者は3戸である。小作料は1反(10a)あたり1円20銭~1円50銭。
アイヌは「給与地」で耕作しているが、たいていの場合、面積は1戸あたり2町歩(2ha)以下である。和人たちの畑が1戸あたり7~8町歩(7~8ha)なのに比べると、雲泥の差があると言わざるを得ない。
この「アイヌ給与地」は、「札幌県旧土人救済方法(1885(明治18)年)」に基づいて「給与」された土地だと考えられます。この法律(方法)には次のような条文がありました。
第5条 開墾対象地は、旧土人の居住地のそばで、差し支えのない場所に、1戸あたり1町歩(1ha)以上の土地を選んで、無料で貸与すること。
第6条 貸与した土地は、初年度のうちに2段歩(20a)以上を開墾し終えること。
第7条 第6条の開墾完了地は、実地点検をクリアすることを条件に、無料で下付すること。ただし、そのようにして下付した土地は、下付を受けた年から向こう15年間は無税とすること。
こんなふうに無理強いされて働かされることを、「強制労働」というのではないでしょうか。そもそも、一方的に国有化した土地を先住民族に「給与」するというセンス自体が、そうとう倒錯しています。(平田剛士)
作物は佐瑠太村と同様である。1871(明治4)年、互野留作氏が試験的に水田稲作に挑んでおり、2~3年間の中止を挟みつつ、こんにちまで連続して6町歩(6ha)の田んぼを維持している。年によって豊凶の差があるが、1反(10a)あたり少なくとも1石(180リットル)の収量があるという。
1898(明治31)年の水害によって、村内合わせて226町歩(226ha)の耕作地が被害を受けた。荒廃してしまった場所もあるが、泥が被ってかえって肥沃になったところも多い。
農業における日雇い賃金は男性50銭、女性30銭。常雇いは男性の場合で50円から70円である。アイヌは「執業不規律」(まじめに仕事をしない)ので、どうしても人手が足りないとき以外は雇用しないという。
アイヌに対するこうした人種差別的な表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。当時の社会の先住民族観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。(平田剛士)
牧畜
馬は全村あわせて108頭、その馬主は22人である。耕作などで日常的に使役する馬のほか、西部の丘陵地帯で放牧も行なわれている。小林善助氏は牛10頭を飼養している。
風俗人情、生計
和人のうち、地主はわずかに2人である。板葺きの家屋に住んでいる人もこの2戸だけである。その他の人たちはみんな小作者だが、裕福とは言えないまでも、まじめに働いて秩序を乱すこともなく、食べ物もかなりの部分を自作の雑穀でまかなっている様子である。
アイヌは農業が生業とはいえ、怠惰であり、ちゃんと働いていない。漁期がめぐってくるたびに出稼ぎに向かい、生活の質は非常に低い。日高郡内のほかのアイヌと比べても、平賀村のアイヌは中くらいか、それ以下である。
アイヌに対するこうした人種差別的な表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。(平田剛士)
教育
子どもたちは佐瑠太尋常小学校に通っている。アイヌの就学者はいない。
1899年の荷菜摘村 になつみむら
地理
沙流川の西岸に位置している。南方は平賀村、北方は紫雲古津村と隣り合っている。西方には丘陵が広がっていて、東側を沙流川で区切られた小村である。佐瑠太村までは1里(3.9km)の距離で、交通の便はまあまあよい。
沿革
沙流川上流の「ニナツミ」に昔から住んでいたアイヌが、シカ猟をするために門別川上流の「ニナツミ」に移り住み、文久年間(1861~1863年)当時は6戸の人家があった。1886(明治19)年、アイヌ「授産」事業に際し、この場所は農業をするには不便であるという理由で、その場所から現在の場所に移住させ、土地を「割り渡し」て、農業指導を行なった。(アイヌたちは)もともと住んでいた場所の地名「ニナツミ」をいまなお使って、この地を「ニナツミ」と称している。和人は、ここ3年ほど前から阿波国・淡路国からの入植者が移住してきている。
アイヌ民族への農業指導にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
戸口
1898(明治31)年9月現在、戸数は16、人口56人である。このうち和人は4戸だけ。いずれも沙流川西岸の平野部に散らばって家を建てている。
農業
アイヌは1886(明治19)年から農業に従事している。1戸あたりの土地面積は6~7反歩(6~7a)。プラオ所有者は4戸。だいたい1~2頭の馬を所有している。和人の自作者は一人。ほかの和人たちは、アイヌ給与地や、佐瑠太村ほか4村の「学田地」を借りて耕作している。耕作面積は村全体で30町歩(30ha)。馬は28頭である。
生計
和人は、農閑期に炭焼きや木挽きなどに従事し
1899年の紫雲古津村 しうんこつむら
地理
南方は荷菜摘村、北方は荷名村と隣り合っている。沙流川をまたいで、東岸には平地が少なく、西岸は森林もしくは湿原で、平地が少しある。元の名前は「シューウンコツ」といい、「鍋谷」を意味している。佐瑠太村から北に1里(3.9km)の距離。
沿革
1886(明治19)年の「授産」事業に際して、沙流川東岸に住んでいたアイヌたちを西岸に移住させた。1891(明治24)年、滋賀県出身の児玉氏が和人として初めて入植し、他の和人は1895(明治28)年以降に入植した人々である。
ている。アイヌは農業のかたわら、漁場に出稼ぎに出ている。和人もアイヌもともに貧困である。
アイヌ民族への農業指導にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
戸口と集落
1898(明治31)年9月現在、38戸、136人を数える。このうちアイヌは28戸、120人である。和人には徳島県出身者が多い。集落があるのは沙流川西岸で、衣料・日用品店が1軒、駄菓子屋が2軒ある。東岸には4戸の和人が住んでいる。
農業
1886(明治19)年に農業指導を受けていこう、アイヌたちは継続して農業に従事し、各戸平均2町歩(2ha)ずつの農地で作付けしている。2町歩のうちの1町歩ではヒエ・アワ・キビ・バレイショなどの自家用費用、もう1町歩では大豆・小豆の販売用作物をつくっている。なかでも中澤サンテアン氏は、6町歩(6ha)を耕作し、大豆7~8俵を出荷しているという。
和人の児玉氏は54,000坪(17.9ha)の貸し付け地を所有し、2年の開墾期間・1反(10a)あたり75銭の給料で小作者に開墾させている。和人の多くが小作者で、貸し付け地を所有している人は3人だけである。
アイヌでプラオを所持しているのは20~30%だけなので、プラオを持っていない人はレンタルしている。
1898(明治31)年の水害地は86町歩(86ha)に達し、開墾地のほぼすべてが浸水した。
牧畜
住民の半分の人が馬を所有している。馬の頭数は合わせて222頭。一人で10~40頭を所有している人はアイヌが4人、和人が1人。馬はすべて林内に放牧されている。
風俗・人情・生計
1~2戸の和人を除くと、他の人たちにはまだ余裕がない。板葺きの家屋も少ない。アイヌは茅葺きのあばら屋に住んでいるが、中には板葺きの和風家屋を建てている人もいる。平賀村や荷菜摘村のアイヌに比べると、やや高ランクである。
アイヌに対するこうした人種差別的な表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。(平田剛士)
1899年の荷菜村 になむら
地理
南方は紫雲古津村、北方は平取村と隣り合っている。西方は丘陵地帯を挟んで勇払郡生鼈村(いくべつむら)と接している。東部を流れる沙流川に村は二分されて、その東岸は高い丘になっていて平地が少ない。西岸は比較的平坦で、湿原と森林が交互に発達している。
荷菜村の名前の由来となったアイヌ語の「ニナ」は、テックイという魚の名前で、かつてこのあたりにテックイ漁場があったことからこの名が付いたという。
佐瑠太村からの距離は3里(11.8km)。道路は平坦だが、融雪期や長雨の続く季節にはぬかるみがひどく、通行困難になる。
沿革
かつては川の両岸にアイヌの集落があった。1870(明治3)年、仙台藩出身の士族たち2戸が入植したが、すぐに撤退した。1886(明治19)年、アイヌ授産事業のさい、東岸に住んでいたアイヌたちを西岸のサラバに移住させた。和人は1893(明治26)年以降に入植している。
アイヌ民族への農業指導にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
戸口
1898(明治31)年9月現在、42戸・182人が居住している。このうちアイヌは29戸・112人である。入植者には兵庫県出身者が多い。
集落
サラバ集落、ニナ集落のふたつがあり、いずれも沙流川西岸に位置している。サラバ集落は南よりの低地、ニナ集落は北よりの高台にある。ニナ集落は平取村と境界を接している。
和人たちは原野に散らばって家を建て、酒・小売商が2軒ある。
農業と牧畜
沙流川西岸部に耕地が開かれている。土壌は肥沃だが、水害にあう危険が高い。
アイヌの多くは1戸あたり2町歩(2ha)の畑を所有している。サラバ集落のアイヌには1戸で6~7町歩(6~7ha)を耕作している人がいる。
和人で貸し付け地を所有している人は、わずか数名しかいない。他の人たちは全員小作者である。
1898(明治31)年の洪水では、開墾済みのすべての土地、合わせて222町歩(222ha)が被害を受けた。河畔の肥えた土の多くが流されてしまった。
馬所有者は27人、飼育頭数は130頭あまり。一番多い人は、一人で28頭を所有している。
工藤牧場が平取村と荷菜村の境界をまたぐ形で営業している。この牧場については平取村のページ参照。
生計
和人たちは入植してまだ日が浅いうえ、1898(明治31)年水害に見舞われ、苦しい生活を強いられている。アイヌにも赤貧の人が多い。サラバに板葺きの家が1~2戸ある。
1899年の平取村 びらとりむら
地理
東方は沙流川で区切られ、西方は丘陵地帯。南部は荷菜村、北部は二風谷村(にぶたにむら)と境界を接していて、沙流川流域各村の中でちょうど中央に位置している。地形は、北から南に向けて徐々に開けている。村の東の端を流れている沙流川は、東岸は山がちだが、西岸はちょっとした平地を挟んで段丘があり、そのまま山地につながっている。1898(明治31)年の洪水によって低い土地はことごとく水に浸かり、40%が砂礫地に変わってしまった。村の名前はアイヌ語の「ピラウトリ」に由来し、「崖と崖の間」を意味する言葉だという。
運輸交通
佐瑠太村から5里(19.6km)の距離。道はデコボコだらけで、馬車では通行できないため、荷物は馬の背に乗せて運ぶしかない。大豆・小豆1俵の送料は佐瑠太村までが25銭、門別村までが30銭である。佐瑠太村までは、沙流川を丸木舟で下るルートもあるが、利用者はほとんどいない。
沿革
かつて「蝦夷地の首都」と称された地方である。そのむかし、オキクルミという人物がこの地に到来して、地元の人たちに教育・技術・漁猟などさまざまな文化を教え伝えたと言われている。沙流地方全体のアイヌの「総酋長」(総長)がここを拠点としていて、だれかが何かを行なおうとするときは、必ず総長の了解を得なければならなかったし、もし戦争が起きた場合に連合軍の総司令官を務めたのも総長だった。また、貿易に際しては、獣皮や魚類などの商品をたずさえ、みずから人々を率いて遠くサハリン島までおもむいて取引を監督したという。
日本による場所請負制が始まるとアイヌ総長の権力は低下したが、それでもなお平取のアイヌは他地方のアイヌからの尊敬を集めている。
1870(明治3)年に仙台藩出身の士族3戸が移住・入植してきたが、数年で撤退した。その後は、アイヌとの商売のために2~3戸の和人業者が常在していた。
1881(明治14)年、岩手県出身の工藤助作氏が入植してきて牧場を開設。1891(明治24)年~1892(明治25)年ごろにさらに数人が入植し、それ以来、少しずつ和人戸数が増えてきた。
1893(明治26)年、平取村ほか5村が共同で巡査駐在所を平取村に設置した。
戸口
1898(明治31)年9月現在、717戸、342人が居住している。このうちアイヌは57戸、263人である。和人には兵庫県・岩手県・宮城県などの出身者が混在している。
集落
沙流川の一本の支流を境に、上平取(かみびらとり)と下平取(しもびらとり)の2つの集落に分かれている。どちらも、川岸の低地を眼下に見下ろせる高台にあり、川と平行する道路の東側に家がずらりと並んで、ちょっとした市街地のような風景が広がっている。
下平取には小学校・巡査駐在所・小売店がある。また、上平取にはキリスト教会堂・小売店・ホテル・肉屋などがある。板葺き家屋の数も比較的多く、家のまわりにスモモなどの果樹を植えてあったりして、なかなかオシャレなたたずまいである。
農業
アイヌはもともと、アワ・ヒエなどを小規模につくっているに過ぎなかった。1886(明治19)年から1890(明治23)年にかけて、農業指導を行なったところ、一戸あたり1町歩(1ha)以上の土地で耕作するようになった。
1891(明治24)年、遠藤氏が10万坪(33ha)の貸し付け地を取得し、小作2戸を連れてきて開拓に従事している。この時を境に農業目的の和人入植者が少しずつ増え始めた。
これにアイヌも刺激を受けて、少し勉強して、1892(明治25)年から少量ながら大豆・小豆の村外への出荷を始めたほか、馬やプラオなどを導入するようになった。とはいえ、もともと村内に土壌の良い場所は限られていて、しかたなく山門別などで土地の貸し付けを出願し、開墾している人もいる。現在のアイヌの所有面積は1戸あたり1町5反歩(1.5ha)ほど、多い人で5~6町(5~6ha)である。和人農家の平均所有面積1戸あたり5~6町(5~6ha)と比べると、大いに劣っていると言える。作物の種類は郡内の他の村と同様である。
1896(明治29)年以降、試験的に水田に挑戦する人もいて、1反(10a)当たりの収量は1石(180リットル)強である。
平取村内には、「平取小学校基本財産」として19万坪(62.8ha)あまりの貸し付け地が設定されているが、開墾は未着手である。
1898(明治31)年の沙流川洪水で村内の農地合わせて183町歩が被害を受けた。このうち40%は復旧の見込みが立っていない。
牧畜
平取村と荷菜村の境界をまたぐ位置に工藤牧場がある。その沿革を記すと、1881(明治14)年、工藤助作氏がこの場所に入植し、260町(260ha)あまりの土地を得て牧場を開いた。出身地の岩手県で飼育していた和牛30頭あまりを移送し、また種牛として、真駒内(種畜場)から雄の短角改良牛1頭の払い下げを受け、資金として開拓使からいくばくかを借り入れて増殖に取り組んでいる。茅葺きの牛舎を建て、ほとんど牛たちと寝起きをともにしながらこの仕事に打ち込む様子は、驚嘆に値する。1886(明治19)年には和種・雑種を合わせて230頭、またよそからレンタルした洋種牡牝計12頭を飼養して、全道屈指の大牧場に成長した。しかし1891(明治24)年、工藤氏が病没。息子たちが牧場を引き継いだが、彼らには亡父の意志を継ぐ才覚がなく、だんだん傾いてしまった。いまでは、荷菜村・平取村民たちに利用料を取って牧場を貸してしまい、自分たちの牛は三石郡(みついしぐん)鳧舞村(けりまいむら)の牧場に移して放牧している。
商業
小売店がいくつかあるが、酒・菓子などしかないので、村民たちはだいたい門別村まで買い物に出かけている。
風俗・人情
当村のアイヌは、昔から品格をそなえていて、アイヌのうちで最も位が高かったとされ、現在でもそのように自負している。しかし、和人と接触してからは、和人たちの悪弊が非常に伝染してしまい、また和人の不良たちがアイヌを苦しめ、アイヌの金品・物品を強奪された経験から(原文:和人に接して大いにその悪弊に感染し、かつ、不良の和人きたりて「アイヌ」を苦しめ、その金銭物品等を劫奪したりことありしをもって)、素朴だった性質は今ではすっかり失われて、よそのアイヌと比べて、ずるがしこさで勝っている始末である。
原文は〈和人ニ接シテ大ニ其悪弊ニ感染シ且不良ノ和人来リテ「アイヌ」ヲ苦シメ其金銭物品等ヲ劫奪シタリコトアリシヲ以テ今ヤ全ク素朴ノ性質ヲ失ヒ其狡猾ナルコト他ノ「アイヌ」ニ勝レリ〉(p87)。この表現には、報告者(北海道庁殖民部員)の先住民族アイヌに対する人種主義的なヘイト感情が含まれるように思えます。(平田剛士)
1895(明治28)年、■■トカネアシ氏というアイヌが初めて板葺きの家を建て、旅行者向けの宿屋を開業した。その後、家を改築する人が増えて、いまでは板葺きの家が10軒以上ある。茅葺きの家に住んでいる人たちも、大部分が(土間をやめて)床板を敷き、最近は浴槽をとりつけて沐浴する人も増えている。珍しく衣類を洗濯するアイヌも現れ、少しずつ進化している。
アイヌに対するこうした人種差別的な表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。(平田剛士)
生計
和人は農業者を主体に、大工や小売業などの人がいる。アイヌは、農業をなりわいとしつつ、農閑期には漁場に出稼ぎに出ているが、漁期が終わり次第、村に帰ってきて畑を耕している。■■ユクノウク氏、■■トカチアシ氏、■■イタキラトク氏、■■イコレアツ氏らは、土地と馬を所有して、生活レベルは和人に劣っていない。しかしアイヌの大半は資産に乏しく、ことに1898(明治31)年水害のせいでいっそう困窮している。
教育と宗教
平取尋常小学校は1880(明治13)年の創立。二風谷小学校とともに、平取村ほか6村組合で運営されている。平取小学校の通学者は平取村と荷菜村の子どもで、現在の生徒数は48人、このうちアイヌは28人である。教員は1人。
このほか、キリスト教伝道師が設立した日曜学校がある。毎週日曜日に開校し、ローマ字・日本語の読み・習字・算数を教えている。生徒数は30人前後で、その60%が女子生徒である。女子生徒に裁縫を教える計画もある。
1879(明治12)年~1880(明治13)年ごろ、キリスト教伝道師が来村して布教したのをきっかけに、ときどき宣教師がやってきてお金やプレゼントで住民の関心を引きながら、教化を進めている。1894(明治27)年、上平取に教会堂を新築し、住み込みの伝道師が日曜学校で説教をしている。現在の信者数は、沙流郡の各村々に合わせて230人で、女性や若い男性たちが多いという。真性の信者は多くはないだろうが、村の発展に寄与しているのは間違いない。
神社
上平取にある義経神社が平取村の村社である。源義経を祭った神社で、その本尊(木像)は、1798(寛政10)年、幕府官吏の近藤守重比企可満が寄付したもの。村民たちは1896(明治29)年以降、祭祀を行なっている。
1899年の二風谷村 にぶたにむら
地理
南方は平取村、北方は荷負村と境界を接している。東西はどちらも山岳で、その間を沙流川が流れている。平野は乏しい。広葉樹が豊富で、山の頂付近に近づくと少し針葉樹が混交している。
運輸交通
佐瑠太村まで7里(27.5km)の距離。坂を越えたり、川を渡ったりせねばならず、交通の便は非常に悪い。もっか、道路改修の工事中で、完工すれば多少は改善するだろう。
沿革
昔からアイヌが集落をつくって住んでいる。1892(明治25)年、阿部清次氏という人が学校教員として赴任してきたのが、和人の定住者第1号である。1894(明治27)年になって、農業をするために移住・入植してきた人がいる。
戸口と集落
沙流川東岸の高台に集落が形成されている。1898(明治31)年9月現在の人口は53戸、257人である。うちわけはアイヌ45戸、和人8戸。和人には兵庫県出身者が多い。小売店が2軒ある。
農業
アイヌ「授産」事業の当時から、二風谷村のアイヌは農業によく励んでいると言われている。現在の耕作面積は1戸あたり2町(1ha)で、多い人は7~8町(7~8ha)を耕作し、いくばくかの大豆・小豆を出荷している。
和人は全員が小作。1戸あたり4~9町歩(4~9ha)の畑に作付けしている。小作料は1反(10a)あたり小豆8升(14リットル)~1斗2升(21.6リットル)。
1898(明治31)年の水害で147町歩(147ha)が被災し、その半分以上が荒廃してしまった。被災者救済のため、支庁が高台の土地を割り渡しているが、その場所の地味はよくない。
村内合わせて166頭の馬がいる。たいていの人が馬を所有し、多い人は一人で15~16頭の馬を持っている。馬はすべて山野に放牧されている。
商業
商店が一軒あり、酒・雑貨を扱っている。値段は門別村に比べて40~50%割高であるのみならず、掛け売りで利子も取られる。このため、ほとんどのアイヌの人たちがこの業者に借金をしているという。毎年の収穫期にはいくつか臨時店舗が開設されるそうだ。
風俗・人情・生計
アイヌの家で板葺きなのは5軒。アイヌたちの性格は平取村に比べると少し素朴である。農業を生業としつつ、春の種まきが終わると漁場に出稼ぎに向かう人もいるが、漁期が終わると村に戻ってきてまた畑仕事をしている。
教育
1892(明治25)年、二風谷尋常小学校が開校した。平取小学校とともに、平取村ほか6村の組合経営である。現在の生徒数はアイヌ30人、和人5人で、全員が二風谷村の子どもたちである。荷負村より北の4つの村から通っている子どもはいない。
1899年の荷負村 においむら
地理
南方は二風谷村、東方は貫気別村(ぬきべつむら)、北方は幌去村(ほろさるむら)と境界を接している。西側には沙流川が流れ、村の中央をヌカピラ川が横切って西に向かって流れ、沙流川に合流する。丘陵・山地ばかりで、沙流川東岸とヌカピラ川沿いに細長い形の狭い平地しかない。村内の集落は3つに分かれている。沙流川東岸の高台にあるペナコレ集落、ヌカピラ川北岸の高台に位置するシケレペ集落・ニオイ集落である。植生はナラ・カシワなどの広葉樹が多い。村名はアイヌ語の「ニオイ」(樹木のたくさん生えている場所)から。
運輸交通
佐瑠太村まで9里(35.3km)。交通の便は非常に悪い。
沿革
昔からアイヌの集落があり、和人は1895(明治28)年以降、数戸が入植しているに過ぎない。
戸口と集落
1898(明治31)年9月現在、58戸、208人が居住している。ペナコレ集落、シケレペ集落、ニオイ集落の3カ所に分かれていて、それぞれ20間(36m)あまり離れている。各集落の戸数は、ペナコレ集落にアイヌ18戸、シケレペ集落にアイヌ15戸、和人5戸。ニオイ集落にアイヌ19戸、和人1戸である。和人は多くが淡路国出身者である。
農業
和人で土地を所有しているのは一人だけで、ほかの人は全員が小作。アイヌは1戸あたり1~2町(1~2ha)の給与地で耕作している。1898(明治31)年の水害により39町歩(39ha)が浸水被害を受け、ほとんど作物が流されてしまったところも多い。
馬の飼育数は全村合わせて115頭。馬主のうち2人は、それぞれ20頭以上の馬を所有している。豚を飼育している人が多く、いずれも山野に放牧している。
風俗・人情・生計
村民は農業を生業にしている。アイヌは、夏に漁場に出稼ぎに行く人が多い。また冬期、山に入って狩猟に従事する人もいる。人々は小さな茅葺きの家に住み、衣服は粗末で、垢じみた顔をして、非常にみすぼらしく、不衛生である。とはいえ、アイヌたちの性質は、平取村以南のアイヌに比べれば、いくぶん素朴で素直であるようだ。
アイヌに対するこうした人種差別的な表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。(平田剛士)
1899年の貫気別村 ぬきべつむら
地理
西方は荷負村、南方は貫気別山脈を挟んで門別村に接している。ヌカピラ川・貫気別川の二本の川をたどっていくと、東方は新冠郡(にいかっぷぐん)の奥地にいたる。北部には山が続いている。ヌカピラ川の源流は、十勝国との国境付近の山中。貫気別川は新冠郡との境界線付近から流れてくる。どちらの川も西向きに流れて、貫気別村西部で沙流川に合流している。その合流点付近に少し平地が見られる。霜の降りる季節は、9月末から翌年5月下旬ごろまで。積雪深は約2尺(60cm)で、雪は4月10日ごろまでに解ける。
運輸交通
佐瑠太村までの距離は10里(39.3km)あまり。沙流郡のなかでは、幌去村(ほろさるむら)、長知内村(おさちないむら)とともに、もっとも僻地である。交通はとても不便。
沿革
もともと、貫気別川の河畔にアイヌの小さな集落があった。1892(明治25)年、八田満次郎氏という入植者が貫気別村に牧場を開き、1895(明治28)年には小作者5人が移住してきた。
戸口と集落
1898(明治31)年9月現在の戸数は21戸、人口83人。このうち和人は6戸、27人である。和人集落はヌカピラ川の北側の平地にある。兵庫県出身者が多い。アイヌはヌカピラ川の南側に集落をつくって住んでいる。
農業
アイヌは農業に熱心ではなく、(集落内全体で?)プラオ2台を使いながら耕作しているが、1戸あたりの耕作面積は1町(1ha)ほどにすぎない。
八田満次郎氏は自分の牧場の一角を開墾して、60町歩(60ha)の畑に小作者5人を入れているので、一人あたりの耕作面積は10町(10ha)を超えている。このときの開墾は、道路敷設と排水工事の費用をオーナーが負担し、入植から出荷開始までの期限を4年として小作者に貸与する形で行なわれ、別途の開墾料は支払われなかった。小作料は1反(10a)あたり小豆1斗5升(27.1リットル)である。
貫気別川のそばには、福井県出身の加藤美作氏が取得した貸し付け地19万坪(62.8ha)があるが、まだ開墾に着手していない。
牧畜
八田満次郎氏が経営する八田牧場は、1892(明治25)年5月に開設された。川岸から山手にかけて、面積40万坪(132ha)のフィールドに125頭の牛が放牧されている。その大半は短角の雑種である。種牛を除き、牛たちはいつも牧場内外に放牧されている。貫気別村は雪深いので、動物に被害が出ないよう、毎年11月から翌5月までは、三石郡の牧場に預託される。毎年20頭前後の牛を札幌方面に出荷している。その多くは2歳の若い牛で、売却価格は牡牛・牝牛いずれも1頭30円くらい。3歳の牛だと40円で売れるという。
村内の馬の頭数は合わせて158頭。板東金吉氏が一人で95頭を所有している。馬はたいてい八田牧場に委託して放牧されている。豚を飼育している人は多い。
生計
和人は、小作者しかいないけれども、勤勉に働いていて、生計にも余裕がある。アイヌは貧困である。
1899年の長知内村 おさちないむら
地理
南方は荷負村、北方は幌去村とそれぞれ隣り合っている。村の中央を沙流川が流れている。
もともとの地名であるアイヌ語の「オサツナイ」は、「涸れた川」という意味。佐瑠太駅からの距離はおよそ11里(43.2km)。交通の便はとても悪い。このほか、西方の山を越えて、勇払郡(ゆうふつぐん)累標村(るべしべむら)につながる山道がある。
沿革と戸口
古くからアイヌの集落があった。1886(明治19)年のアイヌ「授産」事業に合わせて、幌去村のアイヌたちを沙流川東岸のホエポエに移住させ、そこを幌去と呼ぶようになった。1898(明治31)年9月の調査によると、「幌去アイヌ」を除く戸数は22戸、人口は78人である。うちわけはアイヌが17戸、和人5戸だった。
アイヌ民族への「授産」「農業指導」にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
農業
農業の内容は荷負村に似ている。51頭の馬がいて、その所有者は数名である。
商業
ホエポエに遠藤氏が商店を開いていて、酒・菓子・木綿類を販売している。長知内村をはじめ近隣の村々に住むアイヌたちの多くは、同商店の仕込みを受けていて、多かれ少なかれの借金がある。このほか、酒やアイヌのタカラモノ(刀のつば、行器=ほかいなど)を売買する店が1~2戸ある。
生計
アイヌは農業を主な生業として、アルバイト的に出稼ぎに行く人もいる。また、冬期は狩猟に従事している。家屋は茅葺き、衣服はぼろぼろで、経済状態はよくない。
1899年の幌去村 ほろさるむら
地理
長知内村の北側、沙流川の上流部に位置している。沙流川は、日高国と十勝国との国境付近から流れ出て、パンケヌーウシ川、チロロ川、ニセウ川などの支流を集めながら南南東の方角に向けて流れ、長知内村に入ってくる。村の全域が山地。村の南部、沙流川沿いの高台が若干なだらかなほかは、川岸まで山が迫っていて、道は険しい。数里(8~12km)ほど進むと少しだけ平地がある。広葉樹・針葉樹のどちらも豊富。村名の由来となったアイヌ語「ポロサラ」は、「非常にたくさんのカヤ」という意味。
運輸交通
海岸から12里(47.1km)ほど離れていて、交通の便は最悪。住民が札幌まで行く場合、山越えをして勇払郡累標村(るべしべむら)を通り、早来村(はやきたむら)に出る裏ルートがある。
沿革
幌去村のアイヌには、むかし十勝国から来たアイヌと津軽から渡ってきたアイヌの2系統があり、現在のアイヌはその子孫たちだという。アイヌたちはポロサラ地区とオウコツナイ地区に住んでいたが、1886(明治19)年の「アイヌ授産事業」のさい、農業に適した場所に移住させようと計画し、オウコツナイ集落の人々をタンネクピタラ地区に、ポロサラ集落の人々を長知内村の字ホエポエに、それぞれ移住させた。
アイヌ民族への農業指導にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
1890(明治23)年~1891(明治24)年ごろに和人の小売業者一人が移住。その他の和人たちは1895(明治28)年ごろに移住してきたばかりである。
戸口と集落
1898(明治31)年9月の調査によれば、戸数46、人口173人。うちわけはアイヌが40戸、和人が6戸である。集落は、ホエポエ集落とタンネクピタラ集落のふたつがある。ホエポエ地区は現在は「幌去」と名称が変わっているが、実際には長知内村に属していて、アイヌの戸数は約20、和人は2戸である。またクンネクピタラ集落にはアイヌ17戸が建っていて、その北側に淡路(兵庫県淡路島)から入植してきた和人が数戸、居住している。
農業
1886(明治19)年の「授産」事業実施後、アイヌは農業に従事しているが、1戸あたりの耕作面積は1町(1ha)前後にとどまっている。2~3町歩(2~3ha)を耕作しているアイヌは2~3人しかいない。このほか、八田氏の所有地が数十町(数十ha)あり、小作者数戸が農業をしている。
馬を所有している人は19人で、合わせて128頭の馬がいる。■■コアツテ氏はひとりで30頭以上を飼育している。
生計
アイヌの暮らしぶりは長知内村と変わらない。
1899年の門別村 もんべつむら
地理
東は波恵村、西は佐瑠太村と隣り合っている。門別川(日高門別川)を北にさかのぼっていくと貫気別山脈にいたる。南側は海に面している。門別川は貫気別山脈に源流をもち、南に向かって流れ、海に注いでいる。河川延長12里30町(50.4km)、川幅は15間(27.3m)。門別の名前はアイヌ語の「モペツ」に由来し、「静かな川」という意味である。川の両岸には原野があり、高台・丘陵部に接続している。
運輸交通
沙流郡の輸出入は門別湾を介して行なわれ、函館との間で汽船・帆船が往復している。ただし、湾内に波浪を防止する施設が何もないので、帆船は岸辺から3~4町(327~436m)、汽船だと岸から6~7町(655~764m)ほども離れた位置にしか安全に停泊できない。1897(明治30)年の入港数は帆船10隻、汽船20隻。出港数も同等である。
函館までの運賃は次の通り。
帆船の運賃
(門別→函館)大豆・小豆 35円/100石(18m3)、イワシ搾り粕 40円/100石
(函館→門別)米穀 30円/100石(18m3)
汽船の運賃
(門別→函館)大豆・小豆 45円/100石(18m3)、イワシ搾り粕 50円/100石
(函館→門別)米穀 45円/100石(18m3)
このほか、はしけ使用料として、雑貨1個あたり6銭、穀類100石(18m3)あたり15円が必要である。
陸路を使うと、西側は苫小牧停車場まで11里30町(46.5km)あまり、東方面は浦河まで18里20町(72.9km)あまりある。苫小牧までは馬車を利用できる。
沿革
この場所は、昔から運上屋(幕府直轄時代以降は「会所」と呼ばれるようになる)の所在地だったため、当時から、会所・勤番所・通行屋・漁屋・うまや・大工小屋・鍛冶屋・「土人雇い小屋」などの建物が建っていた。
1870(明治3)年、仙台藩が藩士数家族をこの地に入植させた。1871(明治4)年8月、仙台藩による運営方式を政府が止め、新たに開拓使に運営を移管すると、最初の入植者たちは、1家族を残してみんな仙台に帰ってしまった。その後、波恵村・慶能舞村に入植していた彦根藩出身者たち4~5戸が門別村に移ってきて、漁業を始めたり、雑貨販売を始めたりした。
1875(明治8)年、彦根藩移民の小嶋規矩夫氏が家を新築してホテルを開業した。
1881(明治14)年~1882(明治15)年ごろから、ようやく入植者の数が増え始める。
1889(明治22)年、佐瑠太村から戸長役場と警察分署が門別村に移設された。この時期から少しずつ市街地が形成されだす。
1892(明治25)年~1893(明治26)年ごろにかけて移住者が増え、1894(明治27)年以降、淡路国出身者などが門別川の両岸に入植して開墾を始め、拓殖が大いに進展した。
戸口
1898(明治31)年9月現在の戸数は149戸、人口は602人である。このうちアイヌは37戸・196人。入植者を出身地別でみると、兵庫県出身者が最多で、山形県出身者・滋賀県出身者と続く。そのほか各地からの出身者たちもいて、混じり合って暮らしている。
集落
門別川河口に市街地が形成され、40戸あまりの人家が建っている。ホテルが5軒、衣料・資材販売店が6軒、銭湯と食堂が1軒ずつ、酒蔵が2軒あり、その他の小売店も多い。戸長役場、警察分署、森林監守駐在所、小学校、医院などはこの市街地にある。農家は門別川両岸に散らばって居住している。アイヌはユクチセ集落と山門別集落の2つの集落に住んでいる。市街地からユクチセ集落までは1里(3.9km)、山門別集落までは3里(11.8km)、それぞれ離れている。
漁業
昔からイワシ曳き網漁場が4カ統ある。1カ統当たりの水揚げは250石(45m3)/年。1898(明治31)年に、さらに3カ統が新増設された。サケの建網は1カ統だけ。昆布採取の舟が13艘あるが、収穫はパッとしない。飯田信三氏は、沙流郡・勇払郡の両方にイワシ漁場11カ所、サケ漁場5カ所、昆布干場9カ所を経営する日高国屈指の大規模漁業者で、ほかの漁業者に仕込みを提供している。
農業
1869(明治2)年から移民が住み始めたが、その後も長い間、農業といっても野菜を作る程度だった。1886(明治19)年以降は、農業指導を受けたアイヌたちが農業に従事するようになったが、農業が急発展するのは1894(明治27)年に農民の入植が実現してからである。現在は門別川沿いに和人入植者30戸あまりの家が建ち、開墾が進んでいる。樹林地1反歩(1a)を農地化するには、樹木の伐採と伐採木撤去に10人くらい、またそこを開墾するのに3~4人の人手が必要である。開墾済み農地の小作料は1反(10a)あたり小豆1~1.5斗(18~27リットル)。
各農家はたいていプラオと馬を所有している。アイヌもまた農業に励んでいて、1戸あたりの耕作面積は2町歩(2ha)を超え、自家消費の作物のほか、大豆・小豆を出荷販売している。なかでも■■シケロク氏、■■シテアエレ氏らは、7~8町歩(7~8ha)を耕作している。
門別川そばの耕作適地はすでに貸し付けが終了しているが、まだ開墾されていないところが多い。
1898(明治31)年の水害により、231町歩(231ha)が被害を受けたが、沙流川流域のようなひどい被害はなかった。
牧畜
村内の馬の数は合わせて696頭である。■■セマヌレ氏が90頭、■■エホクレンカ氏が62頭、武田寅蔵氏と鹿戸万助氏が各57頭を所有。このほか、一人で10~40頭の馬を所有している人が10人いる。牧場がないので、すべて山野に放牧している。
沙流共同馬市
数年前から、10月に沙流共同馬市が開催されるようになった。1898(明治31)年の取引は、各地で水害が発生したせいで、極めて不振だった。馬の売却数は147頭、総額は2349円15銭だった。平均売価は牝馬で14円55銭、牡馬で17円74銭。前年と比べるとほぼ半値という有様だった。
商業
当初は漁家が兼業していたが、拓殖が進むにつれ、必需品を地元で買いたいという人が増え、函館との取引が活発化するにともない、商店が増えている。1897(明治30)年の輸入総額は43,100円あまりで、このうち50%はコメの購入費である。輸出総額は73,800円あまり。イワシの搾り粕と大豆・小豆が主な輸出品である。有力業者に飯田信三氏がいる。このほか、コメ・衣料品(呉服・太物)の小売業者が何人かいる。日高国内の中では物価が少し高い。入植者の仕込み利子も、静内以東だと月2%なのに対し、沙流郡では2.5%がふつうである。毎年、4月から10月までは金融が逼迫する。10月を過ぎると、農産物の収穫が始まるのでゆるやかになる。
木材薪炭
薪炭原料は開墾地から供給される。トドマツ材は門別川の上流域で、カツラ材やヤナギ材は開墾地で伐採したものを集荷している。販売価格は薪1敷が60銭、木炭は1俵が25銭。トドマツの角材は100石(18m3)あたり130~140円。
風俗/人情
市街地の家屋はすべて板葺きで、見た目は悪くない。ただ、入植者は全員が原野に茅葺き家屋を建てて住んでいる。板葺きの家に住んでいるアイヌが数人いる。住民は平穏に暮らしている。ほかの村に比べると、アイヌも少し素朴な感じがする。
生計
市街地の人々の8割は商業者で、残りの人もいろいろな職に就いている。貧困者はいない。門別川両岸の入植者たちは、移住してきてまだ間もないこともあり、余裕はまだない。アイヌは農業を専業にしていて、漁場に出稼ぎに行っている人は少ない。アイヌの中には、たくさんの馬を所有して、和人に劣らない財産家もいる。
教育
1881(明治14)年、門別尋常小学校が開校した。門別村と波恵村の組合運営で、生徒数は40人、このうちアイヌの子どもは2人である。教員は一人。
社寺
かつて請負人の支配を受けていた時代には弁天社天満宮があった。1876(明治9)年2月、村社として稲荷神社が建立された。1893(明治26)年、真宗大谷派の照順寺が建った。
1899年の波恵村 はえむら
地理
西方は門別村、東方は慶能舞村と境界を接している。南側は海に面し、北方は波恵川の数里(8~12km)ほどの川筋によって区切られている。波恵川流域の細長い形の小さな村。海岸線は約1里(3.9km)。海岸から内陸に進むにつれ少しずつ標高が高くなり、波恵川水源地の標高は1191尺(361m)。波恵川は村の中央を貫いて流れ、海岸に近づくと西に屈曲して海に注いでいる。波恵川沿いは細長い形の平地になっていて、アカダモ・カエデ・ハンノキ・ヤナギ・ハチハギ・ハンゴンソウ・ヨモギ・ヨシなどが生えている。土壌は肥えている。山地は厚さ8~9寸(24~27cm)の火山灰に覆われている。一番多い樹種はカシワ。奥山にはナラ・サンショウなどが生えている。地味はあまりよくない。
運輸交通
海岸沿いの高台と砂浜をアップダウンしながら、国道が通っている。門別から波恵村字波恵までは1里(3.9km)。農民たちの集落までは、波恵から川沿いの道を上流に向かっておよそ1里(3.9km)である。
沿革
かつて請負人が漁場管理を行なっていた時代は、波恵とカムインタルにイワシ漁場があった。1869(明治2)年、彦根藩が管理を引き継ぐことになり、翌1870(明治3)年、彦根藩から官吏が派遣されてきた。1871(明治4)年、彦根藩出身の士族たちが送り込まれる。彦根藩は波恵川の西岸、イヨッチウ地区に「役宅」1棟と住宅5棟を建設した。移住人数は官吏11人、士族・平民43人だった。彦根藩はさらに波恵地区に住宅5棟を建設し、平民46人を移住させたものの、政府の方針で管理中止が決まると、それらの人々は離散してしまい、現在は一人も残っていない。1880(明治13)年、岩根静一氏が牧場を開設。1898(明治31)年、新潟県・富山県出身の農家20戸あまりが入植してきて、原野で開墾にあたっている。
戸口
最近まで、波恵川の西岸に岩根牧場の管理棟兼ホテルと牧舎、東岸に漁場番屋5棟が建っているだけだったが、1897(明治39)年に農家20戸あまりが増えた。新たな入植者の出身地別人数は新潟県7戸、富山県6戸などである。
漁業
イワシ漁場が5カ所あるが、すべて門別村在住者が所有している。曳き網1カ統あたりの年間漁獲量は200~300石(36~54m3)。ただし1898(明治31)年は不漁のため平均60~70石(11~13m3)にとどまった。
農業
明治30(1897)年、それまで石狩原野の開拓地で小作をしていた新潟県・富山県出身者たち38人が、波恵村の原野の「貸し付け」を申請し、許可を得た。1897(明治30)年10月に2戸、また1898(明治31)年に20戸が移住を終え、農業を行なっている。その場所は、波恵川そばの樹林地で、海岸からは1里(3.9km)あまりの位置である。貸し付け面積は1戸あたり1万6000坪(5.3ha)。土壌は肥えているのだが、樹木が密生していて、伐採するだけも1反(10a)あたり13~14人の人手が必要なほどである。入植者は仕事に励み、各戸平均6~7反歩(60~70a)で作付けできるまで開墾したのだが、不運なことに、今年9月に起きた洪水のせいで、3~4戸を除き、全員の畑が被害を受けてしまった。いまは、政府から道路の復旧費用と食糧費用の融資によって、みんな安心して農業に従事している。
牧畜
波恵牧場の経営者は岩根静一氏である。設立経緯を問い合わせたところ……
岩根氏はもともと新冠牧場を担当する官吏(開拓使)だったという。1880(明治13)年、民間の篤志家を募って新しい牧場の候補地を探し、翌1881(明治14)年に馬を購入して牧畜業を始めた。しかし1882(明治15)年、開拓使が廃止されて札幌県に衣替えするのと時を同じくして、彼らの牧畜業も破綻してしまう。岩根氏は官僚を辞め、一家で波恵村に引っ越すなど何度も挫折を繰り返しながらも牧畜業をあきらめずに馬の繁殖改良をめざした。1884(明治17)年、「北海道3県総合物産共進会」に生産馬を出品してみごと一等賞を獲得。1886(明治19)年、道庁から種牡馬1頭(雑種)の「貸し下し」(繁殖委託)を、1890(明治23)年には種牛1頭の委託を受けた。同年には「内国勤業博覧会」で二等賞を受賞。さらに農業用・乗用の種牡馬(洋種)などの繁殖受託業者となり、繁殖改良を続けて、いまでは北海道内屈指の牧場に育て上げた――。
波恵牧場は、波恵川をまたいで国道の北側に位置しているほか、門別川上流部に別の貸し付け地も所有している。面積は合わせて466万坪(1541ha)におよぶ。1898(明治31)年現在の飼育頭数は以下のとおり。
馬(洋種) | 牝2、牡2 |
馬(雑種) | 牝150、牡39 |
牛(洋種) | 牡1 |
牛(雑種) | 牝18、牡8 |
牛(和種) | 牡6 |
種牡馬は一年中舎飼い、また雑種馬のよいものは冬期のみ舎飼い。そのほかの馬は放牧である。牛は冬期のみ舎飼い、夏は放牧している。舎飼いするときの飼料はエンバク・トウモロコシ・大豆・チモシー・野草(馬)、エンバク・カブ・干し草(牛)など。牧場従業員はマネジャーとスタッフがそれぞれ7~8人ずつ。その半数以上がアイヌで、往々にして家畜の取り扱いが乱暴になるのも仕方ないらしい。動物の数が多いので牧場内だけでは十分にケアできないため、馬牛の一部は官林などに送って放牧している。このように、多少の欠点はあるものの、オーナーの熱心な改良繁殖が徐々に好成績をあげるようになっていて、将来有望である。
生計
富山県・新潟県出身の入植者たちは非常に勤勉で、貯蓄は乏しいのだが、一般的な農民たちとは異なり、業者の仕込みを受けることなく、100円あまりの連帯負債しかない。入植初年度に水害を被ったにもかかわらず、団結力は堅く、脱落者は一人も出していない。
1899年の慶能舞村 けのまいむら
地理
西方は波恵村、東方は賀張村と境界を接している。南側は海に接している。北方は山がそびえてふさがれている。村全体が緩やかに傾斜していて高原になっている。慶能舞村の北部から慶能舞川が流れてくる。細い渓谷が続き、下流域まできて少し(氾濫源が)広くなっている。地形・土壌・樹木の種類などは波恵村と似ている。村の名前はアイヌ語の「ケニオマイ」(黄花慈姑、「エゾラン」とルビ)に由来する。アイヌはこの植物を食用にしていて、この地域にたくさん生えているので、この地名になったという。
運輸交通
海岸に沿って国道が通っている。門別村から2里(7.9km)の距離。国道から内陸に折れて「石川県民開墾地」までは1里(3.9km)弱である。
沿革
1871(明治4)年、管轄の彦根藩が慶能舞地区に住宅3棟を建設し、平民30人を移住させたが、彦根藩が担当を外された後は全員が離脱してしまった。その後、1~2人が住み出したこともあったが、定着しなかった。1888(明治21)年~1889(明治22)年ごろになると定住者が現れ、1892(明治25)年以降は、飯田信三氏らが土地の貸し付けを受けて小作人を雇い入れ、1897(明治30)年の石川県出身者たちの入植によって少しずつにぎわってきている。
戸口
1897(明治30)年以降の調査によれば、村内の戸数は10戸、人口は52人である。ただし、ほかにも未届けの住民がいて、実際には30戸以上の人が住んでいる。そのうちわけは慶能舞川そばの国道沿いに数戸、飯田信三氏の貸し付け地に十数戸、さらにその北部に石川県出身者たちの19戸がある。
漁業
イワシ曳き網1カ統、サケ曳き網1カ統がそれぞれ操業している。イワシは毎年200石(36.1m3)程度の水揚げがある。昆布漁は収穫が乏しく、10カ所ある干場のうち半分は休業している。
農業
慶能舞川沿い、国道の北側に飯田信三氏の貸し付け地13万坪(43.0ha)がある。草地なので開墾するのは容易だが、土地は少し痩せている。淡路国・越前国などからの入植民10戸が小作者として働いている。飯田氏は、小作者たちに新墾料(自然の草原を新たに開墾するための特別な手当て)をまったく支払わずに、鍬下年期(作付開始までの猶予期間)だけ決めて開墾させているので、仕事熱心な人は少ない。そのうえ、ほとんどの小作者は貯蓄がなく馬も持っていないので、2〜3人を除けば、小作者はみんな、わずか1〜1.5町歩(1〜1.5ha)ずつで作付けしているに過ぎない。
飯田氏の貸し付け地の北隣に、石川県団体の入植地がある。樹木が生い茂っている場所で、開墾者たちの苦労は波恵村の入植地と同じくらいである。しかし、全員が熱心に伐木・開墾に取り組み、1898(明治31)年には1戸あたり1〜3町歩(1~3ha)ずつの畑で作付けできるまでになった。ところが9月の洪水でその80%が被災。政府からの援助金をもらって、現在は翌春の収穫期を待っているところである。
牧畜
およそ10人が馬を所有しており、その頭数は合わせて280頭である。前田藤吉氏は何年も前から山野での放牧によって繁殖を重ね、200頭あまりの馬を所有していたが、牧場はなく、それ以上の飼育が困難になり、1898(明治31)年、その大半を十勝国に移してしまったという。石川県出身者たちの集団入植地は樹木が多く、まだ馬耕の段階に達してはいない。馬搬用に4頭の馬を飼育しているだけである。
生計
石川県からの集団入植者たちは、波恵村の入植者たちと同様、とても勤勉で倹約に努めている。お金持ちではないが、多額の借金を負っている人はいない。水害を被ったが、道路復元工事や救援食料の貸与を受けながら困難をしのいでおり、心配はない。飯田氏貸し付け地の小作者たちの中には、ひんぱんに出稼ぎに出ている人たちもいて、努めて農業に励んでいる人は少ない。
1899年の賀張村 かばりむら
地理
賀張村は、慶能舞村と厚別村の間に挟まれている。北部は山地、南側は海に面している。北から南に賀張川が流れていて、その両岸に細長くて小規模な草原がある。地形や土壌の性質は、波恵村・慶能舞村とほぼ同じ。面積は少し狭い。村名はアイヌ語の「カバルシュ」にちなんでいて、「暗礁」という意味だという。
運輸交通
海岸の砂浜に国道が開通している。門別までは3里(11.8km)。たくさんの貨物を運ぶときは、福籾(もとの地名はフポマイ)の沖に船を停泊させて荷物を積みおろししている。
沿革
賀張川のそばには、古くからアイヌの集落があった。また福籾に場所請負人の番屋が建っていた。(日本による内国化後、)彦根藩の領地となった時代(1869〜1871年)、医師・僧侶・平民それぞれ1戸ずつが送り込まれてきたが、医師と僧侶は住み続けることができず、平民・中村与吉氏の一家だけが定住を決めた。1882(明治15)年、福籾に駅逓を設置。1897(明治30)年、駅逓を厚別村に移転。
1886(明治19)年、アイヌを対象とする農業指導事業に合わせ、賀張村のアイヌたち全員を厚別村に移住させた。
この「授産事業」は、札幌県旧土人救済方法(1885(明治18)年)を根拠に実施されました。「授産」「農業指導」などの名目にかこつけて、地元在住のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させる政策は、こんにちでは、先住民族の権利を無視した「強制移住」とみなされて、批判的に評価されています。賀張村の1886年のこのケースでは、先住民不在となった5~6年後、その「空き地」に和人入植者たちが畑地や牧場用地を取得しています。文字通り、先住民を追い出して入植者向けの用地を確保したかっこうです。(平田剛士)
1891(明治24)年〜1892(明治25)年ごろから、畑地・牧場用地の出願者が現れていて、少しずつ人口が増えている。
戸口
1898(明治31)年9月現在の村民は18戸、82人である。半数以上は賀張川沿いの農業者たち。残る人たちは福籾地区や賀張川下流部・国道沿いに居住して、漁業や小売業を営んでいる。
漁業
イワシ曳き網の漁場が2カ所あり、いずれも中村興吉氏が経営している。昆布の採取舟が12艘あるが、資源量は少なく、水揚げもわずかである。
農業
中村興吉氏・■■イソメウク氏らが、それぞれ賀張川沿いに私有地・貸し付け地を所有し、小作者10戸が耕作にあたっている。作付けされているのは大豆・小豆が中心。1反(10a)あたりの小作料は小豆1斗2~8升(21~32.5リットル)。
牧畜
中村興吉氏の牧場は1891(明治24)年の設置。面積は40万坪(132ha)で、草原と樹林が連続している。牛と馬が100頭ずつ飼育されている。馬は9割が内国種、1割が雑種である。牛はすべて短角の雑種。つねに牧場の内外に放牧されている。■■イソメウク氏は馬30頭あまりと豚40頭あまりを所有し、賀張川の上流部で放牧を行なっている。このほか、一人で1~15頭の馬を所有している人が数人いる。
商業
小売店が2軒。中村興吉氏は函館の業者と直取引をして、自分の小作者への仕込みを自分でしている。
1899年の厚別村 あつべつむら
地理
沙流郡の一番東側に位置している。西方は低い山々を挟んで賀張村と境界を接している。東方は厚別川を境に新冠郡の高原地帯につながっていく。北方は少しだけ菜実村(なのみむら)に接している。南方は海に面しているが、海岸線はわずか10町(1.1km)ほどに過ぎない。北西から南東に向けて緩やかに高度が下がっていく地形をしている。厚別川に沿って長さ1里(3.9km)ほど、幅6~7町(650~760m)ほどの原野があり、地味は膏膄(コウソウ、肥えていたり痩せていたり?)である。その南側は草原・湿原になっていて、土地は痩せているが、すでに国が排水溝の整備工事を終えているので、少しずつ農地整備が進むだろう。厚別川は沙流郡で2番目に大きい川である。しばしば水害が出ている。1898(明治31)年の水害はひときわ甚大だった。植生を見ると、山地はカシワ・ナラを中心とする森林、また川沿いにはアカダモ・ヤナギ・ハンノキなどが生えている。湿原にはヨシ原が発達している。
運輸交通
海岸の砂地に国道が開通している。門別村まで3里33町(15.4km)、静内郡司下下方村(しもげぼうむら)まで3里29町(15.0km)。駅逓がある。厚別川には橋が架かっているが、洪水で流失したときは渡船で渡る。大量の物資を運ぶ際は、厚別村もしくは賀張村福籾に汽船が出入りしている。
沿革
オサツナイ地区には昔からアイヌの集落があった。幕府時代、場所請負人が厚別川のそばに休憩所を設け、静内と隔年で渡船していた。1886(明治19)年から3年間にわたるアイヌに農業指導事業の際、賀張村と菜実村のアイヌを厚別村に移住させた。1892(明治25)年ごろから徐々に農業入植者が増え始め、国道沿いでは1896(明治29)年以降、商店が建ち始めた。1897(明治30)年、駅逓が設置された。
アイヌ民族への農業指導にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
戸口
厚別村に本籍を置く和人は、23戸である。よそに本籍を持つ和人の数もほぼ同じくらい。淡路国出身者が最多で、越前国・陸前国・近江国出身者がこれに続く。アイヌは53戸・189人である。このうち31戸は、戸籍上は賀張村に編入されているが、実際には厚別村に住んでいる人たちである。
集落
厚別駅そばの国道沿いに商店・ホテル・駅逓・郵便局・継立所など9棟が並んでいる。賀張村から移住させたアイヌの集落は字カバリにある。もともと住んでいたアイヌは字オサツナイ地区に住んでいる。菜実村から移住させたアイヌは字アカム地区に集住している。農業の和人入植者たちは原野に散らばって住んでいる。
漁業
サケの曳き網漁場が1カ所ある。最近になってイワシ曳き網漁場1カ所が開設された。昆布干場は8カ所あるが、収穫量は少ない。
農業
農業指導を受けたアイヌたちは、農業の必要性を感じないわけではなかったが、積極的に取り組もうという人は少なく、夏場は漁場に出稼ぎに出てしまい、1戸あたりの耕作面積は4反(40a)からおおむね2町歩(2ha)といったところで、一人で3~4町歩(3~4ha)の畑を耕作している人は数人にとどまっている。とりわけカバリ地区のアイヌたちはいちばんの怠け者であるようだ。アイヌのプラオ所有者は7~8人。プラオのない人はレンタルして耕作している。作物は自家消費用のヒエ・アワなどが中心で、副業的に大豆・小豆をつくって出荷している。アイヌへの給与地は厚別川ぞいの一番土の肥えた土地だったが、明治31(1898)年の洪水で甚大な被害を被ってしまった。
和人農家のうち20%は自作農、80%は小作者である。全戸で馬耕を採用している。1戸の作付面積は3町歩(3ha)から20町歩(20ha)で、平均すると5~6町歩(5~6ha)。自家消費用にハダカムギ・イナキビなども栽培するが、出荷むけ作物はすべて大豆・小豆である。
馬耕費用は以下のとおり。
○湿原地帯でヤチボウズを切除してから耕起 1円20銭/10a
○2年目の再耕起 1円/10a
○地力の低下した畑の再耕起 40銭/10a
収穫量は地味の高い低いによって異なるが、一般的には以下のとおり。
大豆 1石(180リットル)/10a
小豆 8斗(141リットル)/10a
ハダカムギ 1石(180リットル)/10a
小作料は小豆1~2斗(18~36リットル)/10a。
農作業日雇いの賃金は男性が30~50銭、女性が20~25銭である。農家は、厚別村か下下方村の業者から70~150円/年の仕込みを受けている。アイヌもほとんどが多かれ少なかれ仕込みを受けている(=借金を抱えている)。
牧畜
駅逓管理者の山本利平氏は100頭以上の馬を所有している。彼のほかににも、馬10~40頭を所有している人が、和人とアイヌを合わせて5人いる。ただし、これらの馬を受け入れる牧場がないため、きちんと飼育されていないばかりか、放牧の馬がたびたび畑を荒らして農業被害を引き起こしている。何人かの人は豚を飼育している。それぞれ数十頭の豚を飼っていて、山野に放牧して育てている。
商業
7~8軒の小売店がある。このうち4店は農家むけの仕込みを行なっている。商品は函館から仕入れていて、品物は下下方村や門別村を経由して運送されてくる。原野に家を建てて住んでいる吉原氏は、濁り酒を造ってアイヌに販売している。
木材・薪炭
厚別川を4里(15.7km)ほどさかのぼった上流域にトドマツが生えているが、資源量は多くはない。建材にはだいたい雑木材が使われる。薪は原野で伐採したものを使い、木炭は賀張村から購入している。価格は薪が120円/100石(18m3)、木炭が30銭/1俵である。
風俗・人情
世情は穏やかである。アイヌはだんだん性情が乱れてきて、極端な場合、窃盗を繰り返す人もいる。静内郡のアイヌに比べると、少々程度が低いとのことである。
原文は〈「アイヌ」ハ性情次第ニ乱レ甚タシキハ間々竊盗ヲナスニ至ル静内郡ノ「アイヌ」ニ比スレハ少々劣レルモノノ如シ〉(p104)。こうした言葉づかいに、報告者(北海道庁殖民部員)の先住民族アイヌに対するあざけりが含まれるように思えます。(平田剛士)
教育
厚別村・賀張村・慶能舞村共同の小学校がある。1898(明治31)年に新設されたばかりで、教員は一人、生徒数およそ20人である。開校当時はアイヌの子どもも少なくなかったが、たちまちサボるようになって、今では一人も登校していない。1898(明治31)年度の学校予算は270円である。
原文は〈「アイヌ」子弟ハ開校ノ初就学少ナカラサリシカ忽チ怠リテ今ヤ一名ノ出席者ナキニ至ル〉(p104)。「怠リテ(サボるようになって)」の表現に、報告者(北海道庁殖民部員)の先住民族アイヌに対する人種主義的なさげすみがうかがえます。(平田剛士)
共同する3つの村の村民の税金に必要分を上乗せしているほか、授業料も徴収して費用を賄っている。
1899年の菜実村 なのみむら
地理
厚別村の北側に接している。東方は静内郡と厚別川で隔てられている。平地はわずかしかない。主な樹種はナラ・カバ・トドマツ・カエデなど。
運輸交通
字ナヌニは、厚別駅からおよそ5里(19.6km)の距離。川伝いに厚別村につながっているのだが、山がちで通行は困難である。いったん厚別川を渡って東岸(静内郡)をくだり、また川を渡って厚別に出るしかない。交通の便は悪い。
沿革と現況
ナヌニには古くからアイヌが数件で集落をつくって住んでいた。1886(明治19)年にアイヌ農業指導事業を実施するにあたって彼らを厚別村アカムに移住させたが、厚別村に本籍を置く者は一人もいない。
アイヌ民族への農業指導にかこつけて、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。(平田剛士)
数年前、「厚別村ほか5村基本財産」として、菜実村に農地と牧場の開設を出願した。1896(明治29)年から和人・アイヌの計数戸が移住してきて開墾を進めている。従来から、厚別村の馬主たちが菜実村の牧場に馬を連れてきて放牧していた。現在も脱走馬の姿を見かける。