解説
対アイヌ政策を規定する日本の法律は、長らく北海道旧土人保護法(1899年)と旭川市旧土人保護地処分法(1934年)しかありませんでした。1970年代から1980年代にかけて、国庫を財源とする北海道ウタリ対策事業実施に際し、「同じ福祉対策である同和対策事業は法律に基づいているのに、ウタリ対策にそれがないのは不自然」という声があがり、北海道内最大のアイヌ団体「社団法人北海道ウタリ協会」(野村義一理事長)の内部で、新しい法律制定の機運が高まります。
歴史や法律の専門家を交えたチームが草案を練り上げ、1984年春の同協会総会で採択されたのが、この「アイヌ民族に関する法律(案)」でした。対アイヌ政策法の枠を超え、〈いま求められているのは、アイヌ民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立すること〉(本法を制定する理由)と、21世紀の国際社会で明文化される「先住民族の諸権利」保障の重要性を先取りしてうたっています。北海道旧土人保護法と対比させて「アイヌ新法(案)」「アイヌ民族法(案)」などと呼ばれました。
同協会は横路孝弘・北海道知事(当時)らに、北海道旧土人保護法の廃止と新法制定を要望。知事の諮問を受けた「ウタリ問題懇話会」は1988年3月、ウタリ協会法案の内容をおおむね認める答申を出します(国会・地方議会でのアイヌ民族代表議席の確保には否定的でした)。北海道ウタリ協会・北海道・北海道議会は同年8月、協働して日本政府に「新法」制定を要望し、賛同する大勢のアイヌ・非アイヌが全国各地でマーチ(デモ行進)するなど制定運動を繰り広げました。
しかし、「日本は単一民族国家」という認識を払底できない当時の日本政府が重い腰を上げることはなく、10年近くが経過した1997年、北海道旧土人保護法・旭川市旧土人保護地処分法の廃止とともに成立したのは、日本政府提案の「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)でした。
参照文献
- 榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館、2008)p556-583
- 加藤博文ほか編『いま学ぶアイヌ民族の歴史』(山川出版社、2018)p132-133
平田剛士 フリーランス記者
アイヌ民族に関する法律(案)
1984(昭和59)年5月27日 社団法人北海道ウタリ協会総会において可決
前文
この法律は、日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする。
本法を制定する理由
北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも民族としての自主性を固持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなくアイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。
アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地改革はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、コタンはつぎつぎと崩壊していった。
いま道内に住むアイヌは数万人、道外では数千人といわれる。その多くは、不当な人種的偏見と差別によって就職の機会均等が保障されず、近代的企業からは締め出されて、潜在失業者群を形成しており、生活はつねに不安定である。差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状である。
現在行われているいわゆる北海道ウタリ福祉対策の実態は現行諸制度の寄せ集めにすぎず、整合性を欠くばかりでなく、何よりもアイヌ民族にたいする国としての責任があいまいにされている。
いま求められているのは、アイヌ民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立することである。
アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。
この法律は国内に存住するすべてのアイヌ民族を対象とする。
第1 基本的人権
アイヌ民族は多年にわたる有形無形の人種的差別によって教育、社会、経済などの諸分野における基本的人権を著しくそこなわれてきたのである。
このことにかんがみ、アイヌ民族に関する法律はアイヌ民族にたいする差別の絶滅を基本理念とする。
第2 参政権
明治維新以来、アイヌ民族は「土人」あるいは「旧土人」という公式名称のもとに、一般日本人とは異なる差別的処遇を受けてきたのである。明治以前については改めていうまでもない。したがってこれまでの屈辱的地位を回復するためには、国会ならびに地方議会にアイヌ民族代表としての議席を確保し、アイヌ民族の諸要求を正しく国政ならびに地方政治に反映させることが不可欠であり、政府はそのための具体的な方法をすみやかに措置する。
第3 教育・文化
北海道旧土人保護法のもとにおけるアイヌ民族にたいする国家的差別はアイヌの基本的人権を著しく阻害しているだけでなく、一般国民のアイヌ差別を助長させ、ひいては、アイヌ民族の教育、文化の面で順当な発展をさまたげ、これがアイヌ民族をして社会的、経済的にも劣勢ならしめる一要因になっている。
政府は、こうした現状を打破することがアイヌ民族政策の最重要課題の一つであるとの見解に立って、つぎのような諸施策をおこなうこととする。
- アイヌ子弟の総合的教育対策を実施する。
- アイヌ子弟教育にはアイヌ語学習を計画的に導入する。
- 学校教育および社会教育からアイヌ民族にたいする差別を一掃するための対策を実施する。
- 大学教育においてはアイヌ語、アイヌ民族文化、アイヌ史等についての講座を開設する。さらに、講座担当の教員については既存の諸規定にとらわれることなくそれぞれの分野におけるアイヌ民族のすぐれた人材を教授、助教授、講師等に登用し、アイヌ子弟の入学および受講についても特例を設けてそれぞれの分野に専念しうるようにする。
- アイヌ語、アイヌ文化の研究、維持を主目的とする国立研究施設を設置する。これには、アイヌ民族が研究社として主体的に参加する。従来の研究はアイヌ民族の意思が反映されないままに一方的におこなわれ、アイヌ民族をいわゆる研究対象としているところに基本的過誤があったのであり、こうした研究のあり方は変革されなければならない。
- 現在おこなわれつつあるアイヌ民族文化の伝承・保存についても、問題点の有無をさらに再検討し、完全を期する。
第4 農業漁業林業商工業等
農業に従事せんとする者に対しては、北海道旧土人保護法によれば、一戸当り1万5000坪(約5ヘクタール)以内の交付が規定されているが、これまでのアイヌ民族による農業経営を困難ならしめている背景にはあきらかに一般日本人とは異なる差別的規定があることを認めざるをえない。北海道旧土人保護法の廃止とともに、アイヌ民族の経営する農業については、この時代にふさわしい対策を確立すべきである。
漁業、林業、商工業についても、アイヌの生活実態にたいする理解が欠けていることから適切な対策がなされないままに放置されているのが現状である。
したがって、アイヌ民族の経済的自立を促進するために、つぎのような必要な諸条件を整備するもとする。
農業
- 適正経営面積の確保
北海道農業は稲作、畑作、酪農、畜産に大別されるが、地域農業形態に即応する適正経営面積を確保する。 - 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する農業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。 - その他
漁業
- 漁業権付与
漁業を営む者またはこれに従事する者については、現在漁業権の有無にかかわらず希望する者にはその権利を付与する。 - 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する漁業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。 - その他
林業
- 林業の振興
林業を営む者または林業に従事する者にたいしては必要な振興措置を講ずる。
商工業
- 商工業の振興
アイヌ民族の営む商工業にはその振興のための必要な施策を講ずる。
労働対策
- 就職機会の拡大化
これまでの歴史的な背景はアイヌ民族の経済的立場を著しくかつ慢性的に低からしめている。
潜在的失業者とみなされる季節労働者がとくに多いのもそのあらわれである。政府はアイヌ民族にたいしては就職機会の拡大化等の各般の労働対策を積極的に推進する。
第5 民族自立化基金
従来、いわゆる北海道ウタリ福祉対策として年度毎に政府および道による補助金が予算化されているが、このような保護的政策は廃止され、アイヌ民族の自立化のための基本的政策が確立されなければならない。参政権の確保、教育・文化の振興、農業漁業など産業の基盤政策もそのひとつである。
これらの諸政策については、国、道および市町村の責任において行うべきものと民族の責任において行うべきものとがあり、とくに後者のためには民族自立化基金ともいうべきものを創設する。同基金はアイヌ民族の自主的運営とする。
基金の原資については、政府は責任を負うべきであると考える。基金は遅くとも現行の第二次七ヵ年計画が完了する昭和六十二年度に発足させる。
第6 審議機関
国政および地方政治にアイヌ民族政策を正当かつ継続的に反映させるために、つぎの審議機関を設置する。
- 首相直属あるいはこれに準ずる中央アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設し、その構成員としては関係大臣のほかアイヌ民族代表、各党を代表する両院議員、学識経験者等をあてる。
- 国段階での審議会と並行して、北海道においては北海道アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設する。構成については中央の審議会に準ずる。